「言う通りにするのは癪だったけど、あたしは一晩中考えたわ。一晩じゃ足りなくて今の今までずっと悩んだ。でも、結局答えは出なかった」 フィオリはジェムの前に立つ。
「本当はあなたを憎む理由はない。でも今この瞬間だってあたしは恨めしくって憎らしくって仕方がないわ。例えそれが筋違いだって分かっていてもっ」 フィオリの目に涙が滲む。 「あなたが憎いわっ。あなたが悪くないとは分かっていても! でも同時にあたしは本当はどうすれば、このまま憎み続けていいのかどうかも分からない。だからジェム、―――あたしに時間を頂戴っ」
ジェムは大きく目を見開くと、呆然とした顔でフィオリを見た。 「今はまだ到底あなたたちを許すことはできないわ。もちろん死ぬまで恨み続けることだって十分ありえる。―――でも、いつか遠い将来あたしはあなたを許せるかもしれない。どうなるかは分からない。分からないからこそ、時間が欲しいのっ。悩み、考える時間がっ」 フィオリの目がまっすぐにジェムを捉える。 シン――、と音が消えていた。 ぺたんとその場にしりもちをついた。 その動きは糸の切れた操り人形のように唐突で、フィオリは反射的に慌てた声を出す。 「ちょ、ちょっとジェム!?」 ぼたぼたとジェムの目から水滴がこぼれた。
「ああ、涙まで出てきちゃった。なんか情けないや。でも、ぼくいますっごい嬉しいんです。もう嬉しくて嬉しくて訳がわかんないくらいに」 ジェムは涙を拭うとフィオリを見上げた。 許す、と言ってもらえたわけではない。 「ありがとう、フィオリさん。ぼくは、その言葉だけで十分嬉しいです。…ぼくは、けして忘れないと約束します。このアウストリ大陸で何が起こったのか。ノルズリ大陸が何をしたのか。そしてこの先ぼくは何をするべきなのか。フィオリさんと同じように考え続けます」 その目に浮かぶのはあまりにも真剣な光。 「……それは、素敵ね…」 ジェムとフィオリは互いに顔を見合わせると、小さい、本当に小さな小さな笑みを浮かべた。 しかし、悲しみを十分に湛えた上の二人の笑みは、いつか来るべき未来に対しての希望の一端を担っていた。 「お〜い、ジェムっ。大丈夫か」 ふと顔を向けるとバッツとゼーヴルムがこちらに向かって走ってくるところだった。 「おっそいですよーっ! もう全部終わっちゃいましたー」 バッツが目を丸くして叫ぶ。そして瞬時に鋭い眼差しでシエロを睨みつけた。 「シエロっ。てめえ、合図するのが遅すぎなんだよっ。影の野郎が来たらすぐにって約束だっただろう」 のんきに笑っていたシエロは飛んできた火球を間一髪でよける。かすめた数本の髪が焼けて縮れた。 「なっ、なにするんだっ」 バッツが一抱えもある大きな火球を頭上に掲げる。 「どっからどう見ても峰なんて存在しないだろっ! ゼーヴルム、見てないで助けてよ」 シエロからすがるような視線を受けて、ゼーヴルムはおもむろにうなずくとすました顔でこう言った。 「バッツ、遠慮せずにやれ」 悲鳴を上げて逃げ惑うシエロとそれを追いかけるバッツ。 そして突然仰向けにひっくり返る。 ジェムの目から再び涙がこぼれた。 「―――なるほど、あれはそう言いなんだか」 (是…) ノルズリ大陸の大国の一つ。ディオスティエラ。荘厳にして典雅な王宮の、さらに中心に位置する玉座の前に跪き、影は深々と頭をたれた。 影の主君は顎を撫ぜながら楽しそうに咽喉を鳴らす。 「ふふ、おもしろい。あれがまさか余に逆らうとはな。それほどの度胸を持ち合わせているとは今の今まで思わなんだよ」 (ご命令を果たせなかったことを深くお詫びいたします。再度命じて頂ければ直ちに息の根を止めてまいりますが…、いかがいたしましょうか) 影の声音にすっと殺気が混じるが、主は鷹揚と首を振った。 「今はまだよい、あれのその度胸に免じて今一度だけ見逃してしんぜよう」 主はにやりと笑った。爪の先まで手入れされた細くしなやかな指が影に向けて伸ばされる。 「よかろう。次の命令だ。あれを見張れ。あれがいったいこの先何を見て何をなすのか。その目でしかと見届けよ。ただし、もしあれが我が王家になんらかの災いをもたらすようなら、必ずやその前に止めを刺せ」 (…是) 無機質であるはずの影の声に、わずかに憮然とした響きが混じるが主人はそれに気付かない。 「先日与えたもう一つの命令はまだ覚えておろう。今度は優先するのはそちらの方だ。引き続き遂行せよ」 主の目がすっと細くなる。そのとたん、彼の周りに取り巻く空気が変わった。華やかさはそのままに、すっとこおりつくかのような冷気が生じる。 遊びの時間は終わりだ。戯れ事に割くようなゆとりはない。 そう言わんばかりに、そこにはもはや先ほどまでの面白がるような色はなかった。 「五大神殿を探れ。奴らが何を企んでいるのか、明らかにするのだ」 そこにあるのは八大国の一つを統べ、世界の中心に居座らんする者の持つ冷酷な眼差しである。 影はかすかにうなずき、闇に溶け入るように姿を消した。そこには何の痕跡も、吐息の漏らしたであろうほんのわずかな熱すらも残っていない。 「神々の走狗よ、思い知るがよい」 完全に気配の消えた謁見の間で、ふいに艶やかな声が朗々と響き渡る。 「もはや神の時代は過ぎ去った。これからは我々、人間の時代だ―――」 神に弓引くことを宣言するように、
【第二章 了】 |