第二章 エピローグ「暁へ至る空」(4)

 


「言う通りにするのは癪だったけど、あたしは一晩中考えたわ。一晩じゃ足りなくて今の今までずっと悩んだ。でも、結局答えは出なかった」

 フィオリはジェムの前に立つ。
 ぎゅっと拳を握り締め足元を睨み付けている彼女の唇はかすかに震えており、フィオリはそれを血が滲むほど噛み締めていた。

「本当はあなたを憎む理由はない。でも今この瞬間だってあたしは恨めしくって憎らしくって仕方がないわ。例えそれが筋違いだって分かっていてもっ」

 フィオリの目に涙が滲む。
 かすれ、揺れるその声は、しかし咽喉も張り裂かんばかりの激情を孕んでいた。

「あなたが憎いわっ。あなたが悪くないとは分かっていても! でも同時にあたしは本当はどうすれば、このまま憎み続けていいのかどうかも分からない。だからジェム、―――あたしに時間を頂戴っ」
「…っ!」

 ジェムは大きく目を見開くと、呆然とした顔でフィオリを見た。

「今はまだ到底あなたたちを許すことはできないわ。もちろん死ぬまで恨み続けることだって十分ありえる。―――でも、いつか遠い将来あたしはあなたを許せるかもしれない。どうなるかは分からない。分からないからこそ、時間が欲しいのっ。悩み、考える時間がっ」

 フィオリの目がまっすぐにジェムを捉える。

 シン――、と音が消えていた。
 フィオリは滲んだ涙を拳でぬぐい、ぎゅっと唇を引き締めてジェムを見つめている。
 その様子はまるで死を待つ殉教者のように、いっそ清々しいまでにいさぎよい。
 だがジェムは何も言わぬまま―――、

 ぺたんとその場にしりもちをついた。

 その動きは糸の切れた操り人形のように唐突で、フィオリは反射的に慌てた声を出す。

「ちょ、ちょっとジェム!?」
「ご、ごめんなさい。腰が抜けちゃって」

 ぼたぼたとジェムの目から水滴がこぼれた。
 水は途切れることなく次から次へと彼の頬を流れ落ちる。

「ああ、涙まで出てきちゃった。なんか情けないや。でも、ぼくいますっごい嬉しいんです。もう嬉しくて嬉しくて訳がわかんないくらいに」

 ジェムは涙を拭うとフィオリを見上げた。

 許す、と言ってもらえたわけではない。
 このまま許してもらえるつもりもない。

  でも、今はそれで十分だった。

「ありがとう、フィオリさん。ぼくは、その言葉だけで十分嬉しいです。…ぼくは、けして忘れないと約束します。このアウストリ大陸で何が起こったのか。ノルズリ大陸が何をしたのか。そしてこの先ぼくは何をするべきなのか。フィオリさんと同じように考え続けます」

 その目に浮かぶのはあまりにも真剣な光。
 その光に打たれたように、フィオリもゆっくりとまばたきをした。
 ふいに、胸のうちより何かが込み上げてくる。


  たぶん、自分は誰かに
    他でもないノルズリ大陸の誰かにそう言ってもらいたかったのかもしれない。


 胸の中にはまだ氷塊のように冷たいしこりが残っている。自らの言葉どおり、憎しみが消えたわけではない。
 しかし彼女の若草色の目からは、透明な涙がつうっとこぼれ落ちた。それはまるで雪どけ水のように。

「……それは、素敵ね…」

 ジェムとフィオリは互いに顔を見合わせると、小さい、本当に小さな小さな笑みを浮かべた。

 そこにはけして、分かち合うべき喜びも楽しさもない。
 どれほど後悔しても、一度起きてしまった過去はけして覆せない。
 死んでしまった人は絶対に生き返ることはない。

 しかし、悲しみを十分に湛えた上の二人の笑みは、いつか来るべき未来に対しての希望の一端を担っていた。

 
 
 
 
 

「お〜い、ジェムっ。大丈夫か」

 ふと顔を向けるとバッツとゼーヴルムがこちらに向かって走ってくるところだった。
 ジェムは涙を拭ってにっこり笑うと、大きく手を振り彼らに向かって叫んだ。

「おっそいですよーっ! もう全部終わっちゃいましたー」
「なにぃっ!?」

 バッツが目を丸くして叫ぶ。そして瞬時に鋭い眼差しでシエロを睨みつけた。

「シエロっ。てめえ、合図するのが遅すぎなんだよっ。影の野郎が来たらすぐにって約束だっただろう」
「はっはー。残念だったね…って、うわあっ!!」

 のんきに笑っていたシエロは飛んできた火球を間一髪でよける。かすめた数本の髪が焼けて縮れた。
 本気の汗がシエロの頬をつつーっと流れる。

「なっ、なにするんだっ」
「やかましいっ。戦いに備えて高めに高めたこの闘争心、貴様の身体で発散してやる」
「そんな無茶なっ。ちょっ、ちょっと待って! それ洒落にならないから、危険だから」
「安心しろ、峰打ちだからなっ」

 バッツが一抱えもある大きな火球を頭上に掲げる。

「どっからどう見ても峰なんて存在しないだろっ! ゼーヴルム、見てないで助けてよ」

 シエロからすがるような視線を受けて、ゼーヴルムはおもむろにうなずくとすました顔でこう言った。

「バッツ、遠慮せずにやれ」
「承知っ」
「うわっ、君たちいつからそんな仲良くなったんだよっ」

 悲鳴を上げて逃げ惑うシエロとそれを追いかけるバッツ。
 ジェムはそれを大笑いしながら見ていた。笑って笑って腹が捩れるほど笑った。

 そして突然仰向けにひっくり返る。
 彼らは思わずぎょっとしてジェムを見たが、ジェムは倒れたまままだくすくすと笑っていた。

 ジェムの目から再び涙がこぼれた。
 見上げた夜空には星と月が輝いている。
 涙で滲んでよく見えないのに、それは生まれて初めて見るかのように美しい。
 星空を見上げながらジェムはいつまでもいつまでも笑い続けた。
 そして、たぶんこの景色は一生忘れることは無いだろうと思った。
 
 
 
 



    ×××××
 
 
 
 
 

 

「―――なるほど、あれはそう言いなんだか」

(是…)

 ノルズリ大陸の大国の一つ。ディオスティエラ。荘厳にして典雅な王宮の、さらに中心に位置する玉座の前に跪き、影は深々と頭をたれた。 影の主君は顎を撫ぜながら楽しそうに咽喉を鳴らす。

「ふふ、おもしろい。あれがまさか余に逆らうとはな。それほどの度胸を持ち合わせているとは今の今まで思わなんだよ」

(ご命令を果たせなかったことを深くお詫びいたします。再度命じて頂ければ直ちに息の根を止めてまいりますが…、いかがいたしましょうか)

 影の声音にすっと殺気が混じるが、主は鷹揚と首を振った。

「今はまだよい、あれのその度胸に免じて今一度だけ見逃してしんぜよう」

 主はにやりと笑った。爪の先まで手入れされた細くしなやかな指が影に向けて伸ばされる。

「よかろう。次の命令だ。あれを見張れ。あれがいったいこの先何を見て何をなすのか。その目でしかと見届けよ。ただし、もしあれが我が王家になんらかの災いをもたらすようなら、必ずやその前に止めを刺せ」

(…是)

 無機質であるはずの影の声に、わずかに憮然とした響きが混じるが主人はそれに気付かない。
 彼はふいに首を傾げると、そうそうと今思い出したかのようにうなずいた。

「先日与えたもう一つの命令はまだ覚えておろう。今度は優先するのはそちらの方だ。引き続き遂行せよ」

 主の目がすっと細くなる。そのとたん、彼の周りに取り巻く空気が変わった。華やかさはそのままに、すっとこおりつくかのような冷気が生じる。

  遊びの時間は終わりだ。戯れ事に割くようなゆとりはない。

 そう言わんばかりに、そこにはもはや先ほどまでの面白がるような色はなかった。

「五大神殿を探れ。奴らが何を企んでいるのか、明らかにするのだ」

 そこにあるのは八大国の一つを統べ、世界の中心に居座らんする者の持つ冷酷な眼差しである。

 影はかすかにうなずき、闇に溶け入るように姿を消した。そこには何の痕跡も、吐息の漏らしたであろうほんのわずかな熱すらも残っていない。

「神々の走狗よ、思い知るがよい」

 完全に気配の消えた謁見の間で、ふいに艶やかな声が朗々と響き渡る。
 芝居がかったその科白。 しかし、そこには欠片も虚偽や誇張は感じられない。

「もはや神の時代は過ぎ去った。これからは我々、人間の時代だ―――」

 神に弓引くことを宣言するように、
 反逆を告げる王の言葉は、冷ややかに薄闇に染まる空気を震わせた。




  それは今まさに、
       世界が新たなる胎動を始めようとした瞬間であった―――。






【第二章 了】 

 

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