第三章 @パスマ 〜邂逅〜 〈2〉

 


 パスマ。

 実はこの名称で呼ばれることは、それ≠ノとってかなり久しぶりのことだった。
 現在仕えている相手はそれ≠けして名前を呼ばないため、組織での打ち合わせがきっと最後だっただろう。

 イルズィオーンもパスマも、正確にはそれ≠フ名前ではない。

 「イルズィオーン」とはとある一族によって運営される組織の名称であり、一族の中でわずかに伝わる古い言語で幻を意味する。

 『幻』の名を冠するこの一族は、はるかな昔より多くの権力者たちと契約を交わし、時に暗殺者、時に密偵として働く駒を提供してきた。

 そして出荷される駒の中で特に単独での隠密活動を行うものが、『幻』と同じように『幽霊』を意味するパスマという単語で呼ばれるのである。

 パスマに名前がないことに訝しがる人間も稀にいるが、道具である駒に個別の名前が与えられることはない。せいぜい出荷される場所から「どこそこのパスマ」と地名を交えて呼ばれるくらいである。
 同じ役目を与えられた駒同士が出会うことはめったに無いため、名前が無くても「パスマ」には不便はない。
 そしてそのことに対して、彼らが何かを感じることもなかった。



 

 

 パスマと名乗ったそれ≠上から下までじっくり眺め、神官アルシェはふむと鼻を鳴らした。

「しかし、隠密という職業者は皆あなたのように華奢な体つきをしているものなのですかね」

 とぼけた口調で首をかしげる。
 自ら協力を要請、或いは強要しておきながら、アルシェのその口ぶりはまるでパスマの能力に不安を抱いているようだった。

 たしかに北方の人種と言うのは南方人に比べると背が低い。そしてパスマの体躯は一般の北方人種よりもさらに小柄で、胴回りや手足も風が吹けば折れてしまいそうなほどに細かった。

 だが少なくともアルシェ当人はここまでパスマを抱えて運んできたのだから、細身ながらもその身体にしっかりついた筋肉に気づいているはずだ。だからようするに彼の言い分は、単なる好奇心か疑問に思わせた嫌がらせに過ぎない。

 もっともそんな無礼な質問をされても、パスマは一言も言葉を返さなかった。ただ無言でそこに控えている。

「もしかして、協力することが嫌ですねているのですか」

 不発に終わった嫌がらせが不満なようでむしろ呆れたような眼差しを向けるアルシェだが、パスマはやっぱり無造作に首を振った。

「自分についての質問は何を聞かれても答えることはできない。無駄な質問だ」

 イルジォーン内部のことは彼らの間では絶対の機密事項とされている。そのためパスマは質問自体をあっさりと無視したが、実はアルシェの疑問はほぼ真相に近かった。
 隠密の任務に就くものは体が小さいほうが何かと都合が良い。だから「パスマ」に任じられる者は小柄な者がほとんどだし、幼いうちより小柄になるように『調整』されてもいる。

 だがそんなことなど知らぬアルシェは肩をすくめた。

「まあ、僕は君の本当の主人であるわけでもないし、答えろと言う方が無理ですか」

 もともとが無意味な質問のため、アルシェはあっさりとそれ以上の追求をやめた。彼は改めて穏やかな笑みを浮かべると、頼みごとの中身を説明し始めた。

「まず、僕の依頼というのは先ほども言いましたとおり、大神官が亡くなったどさくさに紛れて僕を陥れようとする愚か者の尻尾を掴むことです」
「だが、貴様なら自分の手を借りずともそんなことは簡単にできるだろう」

 パスマは即座に切って返す。
 口調はきついが、それでもこれは無理に協力を取り付けられたことへの腹いせなどではない。
 実際、どこの誰とも知れないパスマにさえ神殿内部での便宜を図らせることができると言うアルシェが、大神官亡き今、他の何者かにそうそう地位を脅かされるとは考え難い。
 アルシェもその問いには否とは答えなかった。

「そうだね。確かに普段の僕なら身の程知らずの愚か者の一人や二人、神殿から追放することも簡単ですよ」

 にっこり笑ってうなずく。あんまりな返答にパスマは呆れたように顔をしかめるが、それでもさらに問いを重ねようとする。

「ならば何故――、」
「あなたは街に流布している噂を耳にはしませんでしたか」

 唐突な質問にパスマは口を閉ざす。
 たしかに妙に不穏な一つの噂が街中に流布していたことには知っている。だが素直に信じてしまうにはあまりに荒唐無稽なその噂をパスマは半ば無視していた。

「いったいどこから漏れたのかは定かではありませんが、大神官が暗殺されたというのは紛れもない事実ですよ」

 これまで飄々とした態度を崩さなかった彼の顔に初めて憔悴が浮かぶ。
 アルシェはどこか疲れたようにため息をつくと、ついっと眼鏡を押し上げた。

 オリーブの神官の眼にはかすかに苛立ちの色が紛れている。

「その事実がある以上、僕はそう簡単には動けないのです」


 
 

 樹大神殿の大神官はかなり高齢だった。
 仮に寝台でひっそりと息を引き取っていたならば、誰もが天寿を全うしたものと思っただろう。

 けれどそうはならなかった。
 たぶんどんな楽観的な人間でもそんな判断はできなかっただろう。

 本人の意向で鍵が付けられていなかったゆえに、すぐに自室で発見された遺体は、あまりにも惨たらしい有様だった。
 誰よりも人を信じ、そして人を愛したことが逆に仇となったのだろう。
 その身体は異様とも思える残忍さで、――切り刻まれていたのだ。





「……あまりに遺体の損傷が激しすぎて、街の住人に献花を募ることもできませんでした。人心が乱れるのが分かっていてあんな遺体、到底見せられませんからね。もっとも、遺体を見せなければそれはそれで怪しがる人も出てきたので、どっちもどっちと言った所でしょうが」

 やれやれとアルシェはため息をつく。
 大神官はかなり人望の厚い人物だったようだが、アルシェの態度は大神官の死に衝撃を受けているというよりかは明らかに、ただそれによって生じる面倒を厭っているように見えた。

「大神官が次代を指名せずに亡くなったため、我々は次の大神官を決めなければなりません。不肖、この僕も若輩の身ながら候補の一人に挙げられていますからね。もし、犯人の目的が大神官になることならば、僕が次の標的になることも十分考えられます」
「それこそ納得がいかん」

 パスマは即座にその言い分を否定した。

「いったいどこに貴様を害することができる人間がいるのだ」

 パスマはアルシェの「呪」の効果を思い返し無意識に顔をしかめる。アルシェほどの使い手なら、よほど油断しない限りは殺されはしないはずだ。
 また忍び込んだ当のパスマが言うのもなんだが、大神官暗殺などと言う事件があった直後からに、神殿内の警備もかなり強化されていた。今の樹大神殿はまさに鉄壁の城である。

 しかし、アルシェは哀れみの混じる悲しげな顔でパスマを見た。

「あなたはそんな職業についている割には、物事を深く考えるのが苦手なようですね。たしかに僕を暗殺するのは難しいでしょう。しかし、大神官殺害の犯人に仕立て上げることは比較的簡単なんです」

 特に今回の事件については場所が場所だけに、外部からの侵入者よりも樹大神殿の内部の者が犯人であると考えるほうが信憑性が高い。
結果、現在神殿内部は、互いに誰が犯人なのか疑い合っている状態なのだ。

「今この時期だけはけして目立ってはいけないんですよ。変に注目を浴びればそれを僕の敵対者が見逃すはずがない。どんなに根拠のない言いがかりでも、僕が大神官殺害の実行犯、或いは目論んだ犯人だと噂が立てば、それだけで僕の将来は真っ暗なんです」

 実際に処罰されることはなくとも、そんな不名誉な噂を持つ聖職者は地方に飛ばされるか良くて降格である。あとは日の目を見ることもないだろう。

「もっとも、そんな濡れ衣の着せられるのは見当違いも甚だしいのですが」

 肩を落としてそうつぶやくアルシェだが、そのすぐあとに「僕は直接手を下すのは好きでないから」と迷惑そうに続けるのをパスマは聞き逃さなかった。

 やっぱりこの祭司が大神官を殺したのではないか、と言う考えがパスマの脳裏を掠めるが一応は彼の依頼を受けた義理もあり素直にうなずいた。
 アルシェはそれを見て嬉しそうに笑うが、すぐにその眼に真剣な色が戻る。

「いいですか。僕は大神官を殺した犯人を捜せと言っている訳ではないのです。暗殺者から僕を護れと言っている訳でもありません。そんなもの、僕にとってはどうだっていい。しかし、大神官暗殺に乗じて僕を陥れようとしている者がいることは確かなことです」

 そしていまそれを放置しておけば、彼にとってだいぶ厄介な結果になることは間違いない。しかし、一方下手に動けばどのような詭弁で足元をひっくり返されるか分からないという危険もある。

「だから、あなたには僕の見えない手足になって欲しい」

 アルシェは楽しげに唇の端を吊り上げた。

「先手必勝です。いったいどこの誰が、僕に楯突こうとしているのかはすでに把握しています。あなたは僕のためにその人たちの弱みを手に入れてきて欲しいんですよ」

 パスマ殿、とアルシェはそれ≠フ名前を呼んだ。

「こんなことを頼めるのはあなただけです。引き受けて頂けますか」

 アルシェはまっすぐな視線でパスマを射る。
 パスマは沈黙を伴いそれを見返した。――やがて、

「……是」

 小さな呟きが、その口元から小さくこぼれたのだった。