番外編 「注文の多い料理人」

 


 黄昏の源である真紅の球体がゆっくりと緑の森に消えていく。
 赤と黄色と橙がその大体を占めていた空は、東の端からだんだんに青や藍や紫といった夜の色と混ざり合い、何ともいえない幻想的な色へと変わっていく。
 だがそれもほんの一時のもので、やがては完全に闇一色へと定着するだろう。

 長い一日の中でのわずかな一幕。

 しかもそれは幾度となく繰り返される永遠の日々の中でさえ、ただ一度として同じ色彩にはならない。
 そんな儚く刹那的な景色だからこそ、人はそれに胸を打たれ美と呼び賞賛するのだろう。

 人間の手ではけして作り出せない、自然の創る至高の芸術だ。

 けれどそれほど美しい夕空を覆い隠すように一筋の煙がゆっくりと空に昇っていく。
 そして自然の創り出した雄大な景観よりも、さらに人の心を引き付けてやまない何ともかぐわしい人工の匂いが周囲に広まった。

  ―――くわぁ〜んっ

 高らかと響く、しかし何とも気の抜ける音が匂いに負けじと周囲にこだまする。

「食事の時間だ」

 即席の打楽器にと役目を変えたオタマとナベを下ろしながら、食事当番のゼーヴルムが厳かにのたまった。






 本日のメニューは、スティグマが釣ってきた川魚の香草焼と、森に実っていたナンナの実を隠し味にした薄味スープ。そして携帯食の固焼き麺麭だ。旅先の野外料理にしてはなかなか豪勢な献立だろう。

 ゼーヴルムの呼び声よりもむしろあたりに漂う良い匂いに誘い出されるように、薪集めやら繕い物やらそれぞれの仕事に精を出していたメンバーたちがいそいそとやってきた。

「ほほう。毎度の事だけどこれは何とも美味しそうだね」

 ホコホコと湯気を立てながら食欲を掻き立てる匂いを放つ料理を前に、スティグマが感嘆の声を漏らした。

 焼き魚を頬張れば薫り高い香草に臭みを消された白身が甘い肉汁を口の中ではじけさせ、薄味ながら出汁のしっかり利いたスープは種ごと入れられたナンナの実のおかげで、ぴりりと舌を刺す辛味が加わりさらに食欲を刺激する。硬くて味気ない黒麺麭もこのスープに浸せば香ばしい麦の香りが蘇ることだろう。ゼーヴルム自慢の一品である。

「へぇ〜、本当にこりゃ美味しそうだ。俺は食えないけど」
「誰もお前に食えとは言っていない」

 冷たく言葉を返すゼーヴルムにシエロが眉をひそめた。

「ひっどいなぁ。そんな言い方はないだろうが」
「お前の分はこっちだ」

 そう言って差し出されたのは、丁寧に種を除いたナンナの実と細かく千切った香草をトッピングしたチーズの表面を軽く炙ったもの。果実で造った特製ソースが掛けられている。ついで彼の皿だけには特別に果物が載っていた。
 シエロが思わず言葉を失する。ようやく出たのはこんな台詞だ。

「…顔に似合わずやけに芸の細かい男だな」
「そうか、いらないんだな」
「いやいや誰もそんなことは言っていませんよ。どうもありがと」

 そう言ってすばやく皿を受け取る。
 こうして彼らは甘美な食事にそろって舌鼓を打った。





 至福の時間を過ごした後もそうぼんやりとはしていられない。
 食事をした後にはもれなく片付けがついてくる。

 今日の片付けの当番はジェムとバッツだ。お腹がいっぱいになった後眠くなるのはどの大陸でも共通のことで、バッツはあくびをこらえつつ汚れた皿を運んでいく。

「ああ、食べた食べた」

 当番から外れたシエロは焚き火の傍でのんびりと座り込み余韻にひたっていた。満足そうに目を細める様はなんとなく猫を思わせる。

「ゼーヴルムは料理がうまいねぇ」
「別にお前に作った分はそれほど手間は掛けていない」

 ゼーヴルムもまた焚き火の傍に座っていた。しかしのんびりくつろいでいるという訳ではなく、彼は神経質そうに眉をひそめながら包丁を研いでいた。わき目も振らず刃物を研いでいるその様はちょっと鬼気迫るものがあって、…はっきり言ってかなり怖い。

 だがそんな彼に萎縮する様子も見せずシエロはのんびりと首を振った。

「いやいや、俺の分だけじゃなくて皆の分も合わせてさ。傍から見てても美味しそうに食べてたし」
「それに実際食べていてすごく美味しかったよ。君の料理は」

 スティグマがにやりと笑って補足する。

「たぶん大きな街の一流料理店に行っても君なら雇ってもらえるんじゃないかな」
「煽てられても料理の質は上がらないが」
「煽てようと思って言ってるわけじゃないさ」

 照れる様子もなく斬って返すゼーヴルムにスティグマは苦笑した。

「素直な感想を述べているだけだ」
「他の大陸では知らんが、ギュミル諸島では料理のできん男は男として認められないからな」
「へっ、そうなの?」

 シエロが驚きの表情を浮かべたが、実はスティグマも気持ちは一緒だった。やっと片づけを終えて戻ってきたジェムたちもちょうどのその言葉を耳にし目を見張る。
 それとは対照的にゼーヴルムの口調は淡々としたものだ。

「日常の料理は女の仕事だが、祭りなどで饗される料理はすべて男が作る。下手な料理をつくろうものなら男の沽券に関わる問題になるな」
「なんて素敵な大陸なのかしら」

 フィオリの目つきがうっとりとしたものになる。

「誰も女が料理できなくていいと言ってはいないぜ」
「う、うっさいわねっ。別にあたしだって料理ぐらいできるわよ!」

 揶揄するような視線を向けるバッツにフィオリは慌てて言い返した。

「うん。フィオリは料理ができないわけじゃないんだけどね。ただ味が問題なだけで…」

 どこか遠くを見つめながらスティグマがアンニュイなため息を吐く。

「そういえば俺が言うのも何なんだけどさ、料理って当番制じゃなかったっけ? 俺食事に参加するようになってからゼーヴルムが料理してるのしか見てないような気がするんだけど」

 シエロはそう決めた当初からかかさず食事の支度をすっぽかし続け、なし崩しのままに当番自体を放棄したのだが、一応料理などの家事一般は交代で行うと決めていたはずだ。

「いや、それは何と言いましょうか…。あは、ははは」
「別におれだって面倒だからさぼってるんじゃないんだぞっ」

 年少者二人が妙にあせった様子でそれぞれの心情をつづっていく。

「仕方があるまい」

 絶対零度を思わせる身も凍るようなつぶやき声。
 ひくりと顔を強張らせた二人にゼーヴルムは無造作に視線を向けた。

「生まれてこの方一度も包丁を握ったことが無いと言うような奴と、料理は何でも火を通せばそれでいいと思っているような奴に食事の支度を任せていると、ろくな物が出て来ないからな」
「す、すみませんっ。寮には食堂というものがありましたのでっ―――、」
「なんだよっ。と、とりあえず食えれば文句はないだろ、食えればぁっ」
「バッツ君、その態度減点五十点ね」

 くわぁ〜ん、とシエロがナベを鳴らした。

「何よ、結局あなただって別に料理が上手いわけじゃないんじゃない」

 フィオリがふふんと鼻を鳴らして嘲笑う。

「人のこと馬鹿にできないわね。口ではえらそうなこと言ってても」
「うっせえなっ! 他の所じゃどうだかは知らないけどな、うちじゃ料理は女の仕事って決まってんだよっ。手前なんかはスズリ大陸に来りゃ間違いなく女扱いされねえだろうなっ」
「あたしだって料理の一つや二つできるって言ってんでしょっ。それを食べないのは単にあなたたちの我が侭でしょうがっ。勝手なこと言わないでよっ」
「ま、待ってくださいよっ。フィオリさん、バッツさん! 喧嘩しないでっ、落ち着いて…。ああっ、もう。食べてすぐ怒鳴ると消化に悪いですよ!!」

 やっぱり怒鳴りあいを始めてしまうフィオリとバッツを、ジェムが慌てて宥める。

「…つうかさ、消化が云々とかの話なの?」

 シエロが不思議そうに首をかしげる。
 ジェムもなかなかふるった性格になってきたものだ。

「あとベルさんたちが食事を作っている姿も俺見たことないんだけど、そんなにフィオリちゃんの料理って酷いのかな」

 ゼーヴルムに視線をやると、彼はすっかり諦めた風情でぴかぴかに研がれた包丁を炎にかざす。

「手際はそれほど悪くない。…何を作っても甘露煮になることを抜かせばな」
「甘露煮?」
「砂糖を大量に入れすぎるんだ」

 あの量だけは解せない…、とゼーヴルムは顔を歪めてぼそりとつぶやく。

「フィオリは甘いものが大好きでね。あの娘の作る料理は総量の半分ぐらいが砂糖かな」

 引きつった笑いを放つスティグマの瞳には、はるかな高みに到達してしまったかのような、いっそすがすがしい達観の色があった。

「えっ、それじゃほとんど砂糖の味しかしないしっ」
「いや、慣れればそれはそれで味があるというかなんというか」
「甘いという以外にどんな味があるのさ」
「苦甘いとか、しょっぱ甘いとか、甘辛いとか…」
「やっぱり甘いだけなんでしょう、それは!」

 シエロが苦悩するように頭を抱える。
 むしろ彼女たちの今後の健康状態が心配だ。

「ゼーヴルム、君さ。これからのために彼らにまともな料理を教えてあげたほうがいいんじゃないの」
「断る」
「へっ? なんでさ」

 冷たい言葉にシエロは思わず目を見張る。
 基本的に面倒見の良い彼にしては何ともけち臭い。

「料理は二日や三日で上達できるようなものではない。その間、練習に費やされる食材が勿体無い。だったら、私が作ったほうが面倒はない」

 『三無い論法』で見事理由を言い切り、ゼーヴルムは汲み置いた水で包丁をすすぐ。そして言い争いを続けている子供たちに向かって言った。

「お前たち、今から果物をむいてやるから口喧嘩はそれくらいにしておけ」

 どうやら包丁の切れ具合を確かめたいらしい。
 バッツたちはそんな子ども扱いをするなと文句を言っていたが、結局それ以上の言い争いをやめた。デザートの力は偉大だ。

 ちなみにゼーヴルムが果物をむくともれなくウサギさんになる。やっぱり芸の細かい男である。

 今度は果物の分配で賑やかに騒いでいる子供たちを見ながら、スティグマはやれやれと息をつく。

「何だかんだ言って、結構仲が良いんだから」
「ところでベルさんも料理は苦手なのかい?」
「いいや、一通りはできるよ。これでも一人旅の期間が長かったからね」

 あっさり返すスティグマにシエロは首をかしげる。

「じゃあ、何で料理しないの」
「ゼーヴルム君にしなくていいと言われたのさ。まあ、確かに彼のほうが上手なのは判りきっていることだから、お言葉に甘えさせてもらってるんだけどね」
「はあ? 何なんだいそれは」

 シエロがいぶかしげに眉根を寄せる。スティグマは苦笑して補足した。

「要するに、何だかんだ言って彼は料理をするのが好きって言うことなんだろうね」
「むしろ奴の性格から言って、あえて美味しくないとわかっている料理を食べるのは我慢ならないんじゃないの?」

 二人はこれまでの食事時のゼーヴルムの様子を思い返す。
 立ち寄った宿の食事などでも、例え出てきた料理がどれほど不味くても彼は食べ残すような真似はしないが、美味いときは目に見えて食事の量が多くなる。実はこう見えて食事の量は食べ盛りのバッツを抜いてゼーヴルムがメンバーで一番だったりする。

「…理由としては半々といった所かな」
「ああ見えて、実はかなりの食道楽なのな」

 気難しげでストイックな風貌の彼からはなかなか想像しがたいが。
 神経質そうに眉間に皺を寄せながらも、実に器用な手つきで果物を剥いているゼーヴルム。彼を見る二人の口から思わず苦笑が漏れた。

「何ともわがままな料理人さんだことっ」

 吹き出した彼らに当の料理長は不思議そうに声を掛ける。

「何を笑ってる? 果物が剥けたぞ」
「ああ、今行くよ!」

 彼の大きな手の中で、赤い耳をつけた果物のウサギが愉快そうに笑っているように見えた。