番外編 「眠れぬ夜には甘いお茶を」

 

  夜のとばりは完全に落ち、柔らかなランプの光が漆黒の闇を照らし出す。一般的な家庭ならそろそろ夕食も済み、遊び足りない子供たちの顔にもあくびが浮かび始める頃だろう。

 街道筋の宿場町の、ごく当たり前の宿屋の二階。そこでは唯一の四人部屋の扉が、突如として蹴り開けられた。

「ひゃあっ」

 宿全体とまでは言わないが、周囲の部屋からは苦情が来そうな騒音に、中にいた少年が首をすくめて振り返った。年のころは十代半ば、あるいはもう少し下かもしれない。濃茶色の髪の何とも大人しそうな少年だ。

 つまり彼こそが巡礼使節のメンバーのひとり、ノルズリ(北の)大陸代表のジェム・リヴィングストーンである。

 彼は堂々とした足取りで部屋に足を踏み入れた人物の姿を認め、ほっと息を漏らした。

「何だ、シエロさんでしたか。夕食も取らないで一体今までどこに行っていたんですか? それから近所に迷惑がかかってしまうんでなるべく扉は手で開けてくださいね」

「はは、ごめんよ。両手がふさがっていたもんでつい、ね」

 入って来たのは月明かりにも似た金髪を軽やかに背に流した青年だ。青年、とは言っても少年と呼ぶには若干とうが立っているくらいで、実際にはまだ少年と青年の中間ぐらいだろう。ほっそりとした身体つきで顔立ちもなかなか整っている。

 彼、シエロ・ヴァガンスの両手は、その言葉の通り四つのカップの載ったトレイでふさがれていた。

「今ちょうど、下でお茶を入れてきたところなんだ。よかったら一緒に飲まないか? シエロ特製スペシャルティーだ」

「わぁ、素敵ですね。ぜひともいただきたいと思います。でも、あの…」

 ジェムの目が申し訳なさそうに部屋の奥に向けられる。シエロはその視線を追い、ああとうなずいた。部屋に入った時から目に付いていたはずだが、彼は今始めて気がついたと言わんばかりに眉をひそめる。

「なんだい、あいつらまた喧嘩しているのか。二日と仲良くしていられない連中だなあ」

 そこには浅黒い肌に鮮やかな刺青をほどこした少年と気難しそうに眉間にしわを寄せた青年が、なにやら激しく言い争っている。夜分なこともあって声高に騒いでいるという訳ではないが、その口論は熾烈を極め、多分シエロが部屋に入ってきたことも気付いてないだろう。

「本当に飽きないよなあ。ちなみに今日の論争の議題はなんだい?」

「あの、たまたまバッツさんが礼拝している前をゼーヴルムさんが通ってしまって…」

「邪魔だと怒鳴られた訳ね」

 スズリ(南の)大陸に暮らすバッツたち火の民は、彼らが崇める火神イグニアスに祈りを奉げるため、朝・晩二回礼拝を行なう。そんな彼らの伝統は、しかし今回の巡礼の旅においてはいくつかの問題点を生み出してしまっていた。

 その内容は多岐にわたるが一言で言ってしまえば、ずばり、周囲の理解の問題だ。

「確か礼拝中は視界を遮っちゃいけないんだっけ? うわぁ、面倒だなぁ。そんなしちゃいけないことばかりたくさんあって、どうにも疲れないもんかねえ。ジェムはどう思う?」

「火神の信徒は特に戒律が厳しいみたいですし、大変そうです」

 そう言う彼らはみな食事の作法も違えば、崇める神も違う土地からやって来た。基盤となる文化も生活習慣も異なる人間が長期間ともに暮らせば、衝突が起こるのもある意味仕方がないことかも知れない。

「でもあの二人…、もう少し仲良くならないでしょうか」

「さあてね、あの二人の場合は単に相互不理解に限った問題じゃないからねぇ」

 困惑するジェムにシエロが肩をすくめた。

「バッツは火神の信者だし、出身地からしてゼーヴルムは海神の信者だろ。火神と海神は神話でも堂々と仲が悪いと書かれてるくらい、相性の悪い組み合わせなんだよな」

「えっ、そうなんですか?」

 ジェムが目を丸くする。シエロは「うん、そう」と事も無げにうなずいた。

「火神イグニアスと海神バロークはめちゃくちゃ仲が悪くてね、一度ならずと激しい争いを繰り広げた間柄だ。その度に地神アデュレリアが仲裁に入って事無きを得てるんだけども、時には世界が崩壊するか否かの瀬戸際まで騒動が大きくなったこともあるみたいだね」

 シエロは神話の物語をまるで世間話のように語る。

「うわぁ、なんだかすごいですねぇ」

 世界ひとつを滅亡の危機に追い込むような喧嘩だ。それはまさしく天変地異に相当する。

「時に、ジェムはあんまり神話の物語とかは読まないのかな」

「え、ええ…。恥ずかしながら」

 創世記のひとつも読んだことが無いようでは教養がないと取られても仕方がない。頬を赤らめるジェムにシエロがにやりと笑いかけた。

「じゃあ一度読んでごらん。神々のエピソードだけど、これがまた結構俗っぽくって笑えるもんだよ」

 信仰の対象である神を笑いものにするなんて不敬に当たらないかなと、一瞬思ってしまったジェムなのだが、興味を覚えたのもまた事実なので素直にうなずいた。

「じゃあバッツさんとゼーヴルムさんの仲が悪いのは宗教上の理由なんですか」

「さすがにそこまで根深い問題でもないだろ。単に民族的に合わないんだろうな。あとは本人たちの気質の問題」

「気質、ですか? つまりあまりにも性格が違いすぎるから…」

 熱くなりやすく直情径行の権化のようなバッツと、自他共に厳しくともすれば冷酷であるとすら思われてしまうようなゼーヴルムではそりが合わなくても仕方がないのかもしれないが―――、

「いいや、その逆。あいつらは似すぎているんだよ。奴ら両方ともプライドが高くて真っ直ぐ芯の通った性格してるだろ? しかも自分の考えにはたっぷりの自信を持ってるときてる。だから意見が食い違うと互いに一歩も引かなくて―――、ああなる」

 彼の視線の先では、いまだ二人が激しい論争を繰り広げていた。しかしよくぞまあ、喋るネタが尽きないものである。

「とは言っても、それもある意味仲が良いってことなんだろうな。二人とも本当に嫌いな相手は歯牙にもかけないだろうし。互いが互いを理解して、心から認め合うようになれば自然とあんな争いも減るだろう。それまでは、まあ、じゃれあってるとでも思ってほっとくしかないね」

「はあ、そうですか…」

 肩をすくめ皮肉に笑うシエロの意見には、ジェムもとりあえず同意の姿勢を見せた。

「た・だ・し」

 きらりと目を光らせて、注釈が入れられる。シエロの口許がにんまりと三日月の形に歪められた。

「今回ばかりはここらで打ち止めにしてもらおう。俺はせっかく入れたお茶が口もつけてもらえないまま冷めちまう事が何よりも許せない」

 アイスティーなら話は別だが、とうそぶきながらシエロは言い争う二人の間に割ってはいる。さすがに長時間喋りつづけて疲れたのか、バッツとゼーヴルムは案外あっさりとシエロの仲裁に従った。

(神話では仲裁に入るのは地神なのにな…)

 曲がりなりにもその信者であるはずの自分は、仲間の喧嘩を止めることすらできない。ふうとため息をついたジェムの目の前にお茶の入ったカップが差し出された。

「何にため息をついているのかは知らないけど、他人の喧嘩で割を食うのもくだらない。お茶でも飲んでリラックスだ」

 にやりと笑うシエロにつられて、ジェムもギクシャクと笑みを浮かべた。

 確かに自分と神様を比べたってしょうがない。そんなの初めから比較になるはずがないのだ。それに喧嘩が止むなら誰が止めたって結構なことじゃないか。

 カップはまだじんわりと暖かい。せっかくシエロが入れてくれたお茶だ。冷めてしまう前にいただこう。

 そうジェムが口を近づけたその時、

 ぶはっと誰かがお茶を吹き出した。

 びっくりして顔を上げると、カップを片手にバッツが苦しそうに咳き込んでいる。ゼーヴルムもまた吹き出してはないものの蒼ざめた顔で口許を覆っていた。

「て、てめっ…、シエロ!! 一体何なんだ、この茶はよっ!?」

 怒りもあらわに怒鳴りつける。

「何って、シエロ特製スペシャルティー」

 きょとんとした顔でシエロが答える。

「何入れやがった!?」

「普通に、パージの葉を煎じたものをブレンドしてみました」

「ばっ…!」

 バッツが顔を真っ赤にして、口をパクパクと動かす。

「馬っ鹿か、てめえはぁっっ! パージといったら、ありゃ毒草だぞ!?」

「失礼だな。俺ンとこじゃパージは薬草として珍重されてんだぜ。パージの葉に謝りなさい」

「葉に謝ってどうしろってんだ!!」

 なんとか立ち直ったらしいゼーヴルムも、厳しい眼差しでシエロを睨み付ける。

「仮に薬草だとしても、お茶に入れて使用する以上は、味についても考慮してしかるべきだ」

 ジェムも恐る恐るお茶の匂いを嗅いでみたのだが、シエロが入れたこのスペシャルティーとやらからは何とも言えない刺激臭が漂っている。これは確かに人の口に入れるべきものではないだろう。

「まさか、おまえんトコではこのお茶を普通に飲んでんのかよっ」

「うんにゃ、俺も初の試み。ちなみに試飲もしてません」

「しろよ、阿呆っ!! おれたちゃ実験台か?」

「むしろ毒見役?」

「なお悪いわああっ」

 二人に挟まれるようにして攻め立てられるシエロが、助けを求めるようにこちらを見ていたがジェムはぱっと視線を逸らした。

 たぶんこれも仲が良いという証だろう。

 だからあえて口を挟まないことにする。

 三人の賑やかな声を聞きながら、ジェムはサイドテーブルに隔離されたティーカップに目をやった。

 お茶から立ち上る薄い湯気がゆっくり空気に溶けていく。


   そうきっと

    これも悪くはないのだろう


 夜はしんしんと更けてゆく。

 穏やかな眠りはまだ遠い。