≪黒薔薇狂詩曲≫

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04 地下室に死体は眠る

 


 床に大の字に腕を広げ、あたしは荒く息を吐いた。

「し、死ぬかと思った……」

 肩や背中を嫌と言うほどぶつけながらも、あたしは何とか生きて下の階までたどり着くことができた。
 体中が洒落にならないほど痛いけれど、どうやら足を挫いたり骨を折ったりと移動に支障が出るような大きな怪我は無いようだ。

 ここまでくると己の丈夫さにいっそ感心してしまうが、うちの母は山寺の石段およそ二百段を上から下まで一気に転がり落ちて怪我ひとつ負わなかったという伝説の女性なので、きっとこれは遺伝に違いない。

 ちなみに父と美登里さんはその事件をきっかけに交際を始めたらしく、いったいどんな馴れ初めなんだと聞いた当初は呆れ果てたものだ。

 ともかく痛みに耐えながら何とか立ち上がったものの、周囲は完全に真っ暗だから自分がどちらを向いて立っているのかも定かではない。
 しょうがないので文字通り手探りでその場を進んで行くと、いきなり大きな箱のようなものに蹴っつまずき盛大にこけた。足元でがたりと蓋が落ちて外れる音がした。

「……くぅ、ちょっと止めてよね。こんな所に物を置くなんて」

 あたしはうなりながら立ち上がる。
 踏んだり蹴ったりとはまさにこの事だ。
 どうやら転んだ拍子に腕を突いてしまったらしく、手のひらがひりひりと痛い。

 もっとも今はそんなの大した問題じゃないだろう。
 まったくなんて危険な場所なんだ。

 文句をこぼしながらより慎重にじりじりと歩いていくと、今度は指先に何かが触れた。
 何も考えずにひっぱると、バサッと布がはためく音がして突然赤い日差しが室内に差し込んだ。

 そのまぶしさに一瞬目が眩む。

 どうやらそれはカーテンのようで、天井付近に明かり採りの窓が設置してあったらしい。 と、言うより気付かずに進んでいれば、そのまま壁に激突していたんじゃなかろうか。……まさに間一髪だ。

 ほっと息をつく。ともかくこれでようやく部屋の様子が確認できるに違いない。
 そう思って意気揚々と振り返ったあたしは、しかしその場で完全に凍り付いた。

 先程つまずいた大きな箱。
 その箱にはなんと一人の男性が横たわっていたのである。

「……っ!」

 あたしは飛び出しかけた悲鳴をどうにか飲み込んだ。

 最初はただ単に寝ているだけなのだと思った。
 どこからか入り込んだ浮浪者がこの地下室を寝床にしているだけなのだろうと。

 だけど良く見てみれば男の顔色は人のそれとは思えないくらい真っ白で、血の気もまるで感じられない。その上息をしている様子もないと来れば、それは非の打ち所がないくらい完璧な死体だった。

「ち、ちょっとちょっとぉ、冗談やめてよね……」

 しかもよくよく見てみれば男が寝ているのも、ただの箱ではなく真っ黒い西洋風の棺おけだ。
 これで状況証拠もばっちりである。

 そんな呑気な思考で現実逃避をしつつも、それでもあたしは次第に自分の膝ががくがくと震えてくるのを感じていた。
 大体死体を見るなんて、そう滅多にあることじゃない。実際小さい頃の曾祖母の葬式を入れても二度目のことだし、それが変死体ともなれば正真正銘初体験である。

「い、稲垣さんに――、いや先に警察に知らせなきゃ」

 あたしはぐるぐると混乱しながらもとりあえず誰かに知らせなければと、大慌てで上の部屋を目指す。むしろ一刻も早く、死体のあるこの部屋からおさらばしたかったのだ。
 だけど階段に足を掛けたところで、背後からごとっと音が聞こえた。

 ぎくりと身動きが止まる。

 まるで金縛りにあったようにそこから一歩も動けなくなった。つつーっとこめかみに冷や汗がつたう。
 なにしろこの部屋の中、何か音を出すものがあるとしたらそれはひとつしかない。
 あたしは泣きそうになりながらも、それでも確かめずにはおられなかった。

「ひぃっ……」

 恐る恐る振り返るのと同時に、あたしは短く悲鳴を上げてその場に尻餅をつく。
 嬉しくもない予想の通り、棺おけの中の死体は起きていた。

 後から冷静に考えてみれば、やっぱり生きていたと考えるほうがよっぽど妥当なのだけれど、まぁこの状況下でそこまでの冷静さを求めるのも酷だろう。
 その時のあたしには死体が生き返ったようにしか思えなかったのだ。

 漆黒のと言うべき豪奢な巻き毛がさらりと揺れた。
 棺おけの中から起きあがった男は、緩慢とも言える動作で首をひねりあたしに視線を向ける。

「〜〜〜っ」

 目が合った瞬間呼吸が止まった。
 緑の瞳が猫のように爛々と光る。男はじっとあたしを見ていた。

 もう欠片も叫ぶ余裕はない。

 ただどうにかしてその瞳から逃れようと尻餅をついたままずるずると後ずさるけれど、男はゆっくりとあたしに近付いてきた。

 あたしが壁際に追い詰められるのと、男が目の前に立ちはだかるのはほぼ同時だった。
 冷たく凍えるような眼差しで、男はあたしを見下ろしぽつりと呟く。

「見つけた……」

 そしてすっと膝を着くとあたしの手を取り、すりむいて血の滲んだ手のひらに唇を寄せる。
 ぎょっとする間もなく、なまめかしく蠢く赤い舌が乾きかけた血をべろりと舐めとった。

「――っ…」

 傷口を抉るぴりりとした痛みよりも、背筋を這い上がる不思議な感覚にあたしはぞくりと首をすくめる。

「見つけたぞ、我が下僕」

 男はそれはそれは嬉しそうに笑う。にんまりと三日月の形に吊り上がった唇の下に、鋭い牙がちらりとのぞいた。

 ――だけど残念なことに、その時のあたしにはそんなことを気にかける余裕はまったくなかった。

 いや、それが幸か不幸かは分からない。
 ともかく混乱が頂点に達していたのだろうあたしの脳みそは、ここぞとばかりにおかしな反応をしめしたのだ。

「だっ、誰があんたの下僕だぁぁ―――っっ」

 反射的に飛び出した怒声が、わんわんと地下室中に響き渡ったのである。


 

   ◇◇◇


 

「この誰よりも強く、美しく、気高いルードヴィッヒ・イデアール・ドゥンケルハイトに仕えられる事を、きさまは光栄に思うが良い」

 男はあたしに向かってこう言い放った。

 きさまには特別にこの名を呼ぶことを許してやろうと言った時のあの驕り高ぶった表情ときたら、いったいどれだけその無駄に高い鼻っ柱を叩き折ってやろうと思ったか分かったものではない。

 強く気高いというあたりは分からないけれど、確かに男は文句のつけようが無いほど美しかった。

 類い稀なる美貌とはたぶんこんな顔のことを指すのだろう。
 絶妙なバランスで配置された顔の各パーツ。すべすべした雪のように白い肌も、重そうなばさばさの長い睫毛も、すらりと通った高い鼻筋でさえ、どこをとっても隙が無い。背丈は体格の良かった稲垣さんよりも頭ひとつ分は高かったし、言っちゃ悪いけれど日本人とは腰の高さからして違う。

 だけど彼の美貌はハリウッド俳優などとは違い、どこか不吉さを感じさせるような禍々しい美しさだった。

 なにが何だか分からなくても、とにかく一度腹から叫んでしまうと後はもう度胸が据わった。強がりがまだ大部分を占めていたけれど、あたしはきっと目の前の男を力いっぱい睨みつけた。

「あんたはいったい何者なの?」
「ふん、今度の下僕は恐ろしく頭が悪いと見た。言ったであろう。余の名はルードヴィッヒ・イデアール――、」
「その長ったらしい名前はもういいから、どうしてこんなところで寝ていたかをあたしは聞きたいのっ」

 むっとなって男を再度怒鳴りつける。

 まったく話が通じない。
 いや、きっと相手のほうに話を聞くつもりがないのだ。

 あたしは怒りのあまりもはやいっそ眩暈すら感じ始めていたけれど、男はまるで気にする様子もなく、至極当然の事のような顔をしてつんと顎を突き出した。

「余がここにいる理由など決まっておろう。主がその住処に居て、はたして何がおかしいというのだ」
「主って……、だってここは大叔母さんの別荘じゃなかったの?」

 思わずむむっと眉をひそめる。だって周囲には他に建物は無いから間違いようが無い。
 第一あたしが稲垣さんから預かったのはこの建物の鍵なのだから、登記簿上は少なくとも大叔母の持ち物でいいはずだ。

 そう尋ねると、奴はこともなげにとんでもない事を口走った。

「きさまが言っておるのが誰のことか余は知らぬが、余は長き眠りについておったからな。知らぬ間に誰ぞが勝手に住みつき始めてもおかしくはあるまい」
「長き眠りって、いったいどれだけ眠っていたと言うのよ」
「そうだな、このたびはざっと百年ほど眠っていたか」
「百年っ!?」

 あたしは目を丸くした。

「百年って言ったら……あの、百年よね」

 百年前といったら日本はまだ明治時代。
 日露戦争やライト兄弟の初飛行ともほぼ同年代だ。この男は第二次世界大戦どころか第一次世界大戦の存在すら知らないという事になる。――だけど、

「それは、――何の冗談よ?」

 あたしはきょとんとしながら男の言葉を否定した。
 だって現実的に考えてみれば、まさかそんなことが起こり得るはずもない。それが真実ならば、この男は人間ではないじゃないか。
 それはむしろ――、

「……ああ、分かった」

 長きに渡る葛藤の末、あたしはようやく納得できる解答を導き出すことができた。

「ようするにこれはドッキリ企画なのね」

 たぶんこれは誰かが自分を騙すために仕掛けた悪戯。
 それがあたしの出した結論だった。

 すべてはきっと、あの相続を告げる手紙から始まっていたのだろう。
 突然の遺産相続も、謎の隠し階段も、棺おけの中の生きた死体も――よくよく考えれば、あきらかにそうとしか考えられない。

 そう結論付けるとなんだか一気に肩の力が抜けていった。

「たぶんどこかに隠しカメラが設置してあるのね。そうよね、さすがにできすぎだと思ったわ」

 まったく手の込んだことをしてくれるじゃないか。
 これはちょっとうっかりしてやられたぞ。

 あたしはやれやれとため息をつく。ほっとすると同時に、喉もとをくすくすと気の抜けた笑いが込み上げてきた。

「えーと、ルドルフさんだっけ? 滅多にできない興味深い体験をさせてもらったわ。ありがとう」

 苦笑混じりに男を見上げるけれど、彼はむっつりと不機嫌そうな顔をして眉をひそめた。

「ルードヴィッヒだ。主人の名ぐらい正しく覚えろ。きさまが何を考えているのかは知らんが、現実逃避にさしたる意味はないぞ」
「だってそれ以外考えようが無いじゃない」

 窓から差し込む明かりはほとんどなくなっていた。
 日が落ちるまで間が無いのだろう。
 とりあえず地下室が完全な闇に飲まれる前に書斎に戻らなくては。

 あたしはいそいそと彼の脇をすり抜けた。けれど―――、

「主人を置いていったいどこへ行こうというのだ」

 階段の前に男が立ち塞がった。

「えっ」

 慌てて後ろを振り向くが、そこには誰もいない。
 いったいいつの間に移動したのか、不思議なことにまったく気付くことができなかった。

「勝手に余の傍を離れるな。そんなことを許可した覚えは無いぞ」

 男が一歩あたしに近付く。あたしは無意識のうちに後ずさった。
 口の中がやけに乾き、心臓がバクバクと激しく鳴り打つ。
 あたしの全身が全力で嫌な予感を告げていた。

(これは、危険――!)

 窓からの夕焼けが完全に途絶えた。すっと地下室に闇が降りる。
 互いの顔すら識別できない暗がりの中、男の目だけが唯一爛々と緑の光を放っていた。

 あたしはもう一歩後ろへ下がる。

「あ、あなたは……誰?」
「余の名はルードヴィッヒ・イデアール・ドゥンケルハイト」

 男は足音もたてずに近付いてくる。あたしも男の歩調に合わせて後ずさるがすぐに壁にぶつかった。

「人間は我々を〈夜の貴族〉とも呼んでおるな」

 長い腕が音を立てて顔の左右の壁に押し付けられる。白く端正な面立ちがぐっと近付き、剥き出しの耳に冷たい吐息が吹きかかった。
 捲れ上がった唇の下に鋭く輝く牙が見える。

 男はぞくりと鳥肌が立つほど蠱惑的な声で、あたしに向かって囁きかけた。

「――Vampir(ヴァンピーア)だ」

 

 

 

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