≪黒薔薇狂詩曲≫
12 真実を見通す目
煤と埃にまみれ、あちこちに血を滲ませながらも前庭に転がり込んできた淳哉は、それでも素早く立ち上がると昭仁の傍らに駆けよった。 「悪りぃ、アニキ。さすがに俺一人では鬼神の相手は荷が勝ちすぎた」 荒く息を切らせる淳哉の顔は、月夜でもはっきり分かるほど青ざめている。昭仁は目を見張った。 「淳哉……」
あたしはぎょっとして振り返った。
音も無く気配のひとつもさせず、気が付けばルードヴィッヒは尊大な態度でそこにたたずんでいた。
比類なき美貌を余すことなくひけらかし、彼は美酒に酔ったようにうっとりと目を細める。 「もっとも、その巣ごと叩き潰してしまえばなんら問題はないか」 長い睫毛に縁取られた緑の瞳が妖しく底光りする。
「っ……」 あたしは何かに押されたように、思わず一歩後ずさる。 ――彼のことが、突然恐ろしく思えた。 いや、もとよりルードヴィッヒが怖くなかったという訳ではない。
ルードヴィッヒは怯えるあたしに気付くと、ふっと眉をひそめる。 「下僕……」 あたしはひっと息を呑んだ。
「きさまっ、何をぼけぼけしておる! 余が戻ってくるまでにあやつを倒しておけと言っておっただろうっ」 いきなり頬っぺたに痛みが走った。
「いは、いはいって!」 あたしは涙目になって、慌ててルードヴィッヒの魔手から逃れた。 「そ、そんなの無理だってあたしずっと言ってたでしょうがっ。だから足止めだけにするって。だいたいただのか弱い女の子に、あんたどうやって戦えって言うのよ」
あたしは反射的に声を大にして怒鳴りつける。
「まぁよい。きさまの手など借りずとも、あやつらの相手ならば余ひとりで充分だ」 ルードヴィッヒはぱきぱきと指を鳴らすと、四ノ宮兄弟と向かい合った。
「そんなに大きな口を叩いていると、あとで後悔する羽目になるぜ」
昭仁はためらうような視線を弟に向けるが、しかし彼は無造作に首を振った。 「心配は要らない。――アニキ、行くぜっ」 淳哉はかしわ手の様に胸の前でパンッと手を打ち鳴らすと、その響きの良い声で朗々と吼えた。 「《 轟っ、と突然凄まじい勢いで火柱が立ち上がった。
「《 今度は炎が津波のように襲い掛かった。降り注ぐ火の粉を潜り抜け、黒衣の吸血鬼は重ね合わせた手を淳哉たちに向ける。
「ちっ……」 ルードヴィッヒは忌々しそうに舌打ちする。どうやら狙いを外したからのようだ。 そうやってルードヴィッヒと淳哉たちは激しい技の応酬を繰り広げ始めるも、肝心のあたしはと言うと完全に蚊帳の外だった。
だけどそんな目の回るような彼らの戦いを黙って見ていたあたしは、ふいに淳哉が昭仁に目配せをしたのに気付いた。 ざわりと、胸騒ぎがする。 (……来るっ) あたしはすっと目を閉じると、ルードヴィッヒに 「右っ!」 ルードヴィッヒが右に身を傾ける。彼の肩を見えない何かが僅かに切り裂いた。 (まだ来る――、) あたしには、それが分かっていた。 「左足元っ、続けて真後ろ!」 ルードヴィッヒが大きく跳躍した。
「……下僕」
ルードヴィッヒがジトーとした目であたしを睨みつけていた。 「遅いわ、このたわけっ。もっと早く言え」
ルードヴィッヒがわきわきと手を動かした。あたしはうっと口を閉じる。
「な、何故だ……っ」 後方から昭仁の唖然とする声が聞こえた。
「何故君は先程から自分の攻撃を――っ」 昭仁ははっと顔を上げてあたしを見る。 「まさかっ……」
ルードヴィッヒが歌うように言った。 「四ノ宮の血統に生まれた者は、多かれ少なかれこのどれかの能力を持っている――これはきさまらが自分で言ったことだな」 ルードヴィッヒはふふんと鼻で笑うが、あたしは決まり悪く視線をそらしていた。
◇◇◇ ――きさまにはあの使役術士の相手をして貰おう。 ルードヴィッヒはあたしに向かってそう言った。 「ちょ、ちょっと待ってっ。何よいきなり、そんなの無理に決まってるじゃないっ」
百歩譲ってありがた迷惑というのが関の山だろう。
「なに、いくらきさまが如何ともしがたい軟弱者だとて、死ぬ気でやればやれんこともないだろうとも」
あたしは本気でぶんぶんと首を振る。
懸命にその提案に異議を唱えると、彼はやれやれと不服そうにため息をついた。 「まったく、この下僕は役立たずで仕方ないな」 いや、いっそ役立たずでいい。 あたしはムッとするよりも先にこくこくとうなずいた。
ルードヴィッヒは何か考えるように自らのあごを撫ぜ、すっと視線をそらす。 だいたいあたしみたいな普通の人間がどうやって異能力者と戦うというのだ。
この先の事を考えながらそっと窓から外の様子を窺っていたあたしは、突如背後に悪寒を感じ慌ててその場を飛び退いた。 ビシッと鈍い音がして、窓枠―― 一瞬前まで頭があったところに勢い良く何かがめり込む。
「な、何なのよ今のは――、」 良く見てみれば、それは床にいくつも転がる砕けた姿見の欠片だ。
「ほう、なるほど。この分ではやはり素質は問題なくあるようだな」 悪びれる様子のないルードヴィッヒの声が背後から聞こえた。 「ちょ、ちょっとこれはどういう――……」 慌てて振り返ろうとした瞬間、再びヒヤリと嫌な予感が肌を撫ぜあたしは転がるように床に伏せた。 ビシッ ビシッと再び頭の上を何かが通過する。
(じょ、冗談じゃないわよ) あたしはひくりと頬を引きつらせた。 「下僕よ、案じるでない」 ルードヴィッヒは得意げにふふっと笑う。 「役に立たないその身ならば、余が上手く使ってやる。きさまの予見の能力を余のために役立てよ」
あたしは思わず目を見張った。 「予見の能力って、どういうことよ!? あたしは単なる普通の人間で――、」
うっと息を呑む。
「四ノ宮の血を継ぐ者は多かれ少なかれ異能を持ち合わせている。それが直系の娘ともなればただの人間であるはずがない。見たところきさまの力は予見――未来を見通す能力だ。思い当たる節があるだろう」
決まり悪くあたしは視線をそらした。 確かにあたしは人より勘がいい方だと思う。
「嘘よ、そんなの。全部ただの偶然だわ」
未来を予見した訳ではない。だけどルードヴィッヒはその言葉を認めようとはしなかった。 「ふん、往生際が悪い。ならば見てみるがよい」 ルードヴィッヒは足元から鏡の破片を拾うと、壁に向かって構える。その指が微かに動いたと思った瞬間、破片は音を立てて壁にめり込んでいた。 (――速いっ) あたしは目を疑った。ルードヴィッヒが破片を放ってから壁に突き刺さるまでコンマ数秒もない。 「分かったであろう。余が指弾を撃つ気配を感じたとしても、それを避ける余裕はない。来るとあらかじめ知ってなければ、回避することはできないのだ」 さすがにこれにはあたしも反論することはできなかった。
「だけどこの力をいったい何に使うって言うの。自分で言うのもなんだけど、あんまり使い勝手がいいものじゃないわよ」
いくら攻撃が何時来るのかがわかっても、それだけでは敵は倒せまい。 「仕方がないので、きさまには見えない攻撃が来る時にその合図をする役目を与えよう」
あたしはほっと息をつく。
「だがやはり今のきさまのままでは、いささか不安が残るのも確かだな」 ルードヴィッヒはきらんと眼を光らせる。
「せめて何時どこから攻撃が来るのかを、正確に言えるようになって貰わねば困るな。光栄に思え。それゆえに余がじきじきに、きさまを鍛えてしんぜようぞ」
ルードヴィッヒはにやりと不吉な笑みを浮かべた。 「なに、いくら愚鈍なきさまでも、死ぬ気でやればやれんこともなかろうよ」 (だ、だから死ぬ気とか言う以前に本当に死んじゃうってば!!) あたしは声にならない悲鳴を上げたけれど、当然の事ながらそれがルードヴィッヒに伝わることはけしてなかったのだった。 ◇◇◇ (おかげで月が昇り切るまで、全力で逃げ回らせ続けたのよね……) なにせちょっとでも気を抜こうものなら、容赦なく礫が飛んでくる。
もっともそんな命懸けの修行の甲斐あって、あたしは短時間のうちにどこから攻撃が来るかをかなり正確に予測できるようになっていた。 ただしこんな能力、日常生活の中では全くもって役に立たない。
「さて、次はどのような手で来るのだ」 ルードヴィッヒは兄弟を蔑むように見て、ふふんと尊大に鼻を鳴らした。 「きさまらの決め手であろう連携攻撃はこれで完全に無効化された。まだ何か打つ手は残っておるか?」 淳哉と昭仁はぐっと悔しそうに咽喉を鳴らした。 このまま諦めてくるといいんだけど。そうすればあたしはこれまでどおり、平穏な生活を送ることができる。
「何故だっ。常盤闇の鬼神、何故おまえは俺たちの邪魔をするっ!?」 彼はまっすぐ指を突きつける。淳哉はぐっと拳を握り締め、険しい表情でルードヴィッヒを非難した。 「おまえは本来我々と同じ立場にいるはずだろうっ」 その言葉に、あたしはぎょっとして美貌の吸血鬼を見る。
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