≪黒薔薇狂詩曲≫

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02 夏追いの街

 

 彼はえぐえぐと泣きじゃくる少年の頭にそっと手を伸ばした。
「……おい、大丈夫か?」
 無傷ではない、というのは見てすぐ分かる。
 殴られた頬の痣、突き飛ばされて擦りむいた膝、打ち身をこしらえるまで蹴られた腹部。
 それでも無事かとたずねてしまったのは、それ以上に痛めつけられた自分と比較してしまったからだ。
 泣きながら首を振る少年を彼は地面に仰向けに転がったまま見上げ、苦笑する。
「あいつらはもう帰った。心配しなくていい」
 少なくとも今日はこれ以上、傷が増えることはない。
 そう慰めた彼だったけれど、少年の目に浮かぶ視線を受けてようやく、心配されているのが自分だということに気がついた。
「俺も大丈夫だ。たいしたことじゃない」
 こうして起き上がることもできず情けなく倒れたまま言う台詞ではなかったけれど、少なくとも心はちっとも折れてはいなかった。しかし少年はぼろぼろと涙を溢れさせたまま首を振る。
「ごめ、ごめんね。僕のせいで――、」
「お前のせいではない。断じて」
 とうに定められた真理を語るように、彼はきっぱりと断言する。けれど少年には、その言葉を受け入れることはできなかった。
「せめて僕、僕に――もう少し力があったら……」
駄目・・だ」
 言いかけた言葉を断ち切るように、彼は有無を言わさぬ真剣な顔で少年を見る。その目には鋼のように硬い意思が宿っていた。
「この力で人を傷付けてはいけない。私利私欲のために使っちゃいけないんだ」
 それは力強く、そして疑うまでもないくらいの高潔さ。
 自らはぼろぼろに傷付きながらもそう言い切る彼の瞳は、まるで金剛石を思わせるような清廉で凛とした光を放っていた。
 それゆえに少年は――目が離せなかった。
 あるいは憧憬とも言えるかも知れないし、絶対的な正義に対する敬意の念かもしれない。
 少年の内に生まれた感情は、しかしまだ幼い少年自身にはまだ形容しがたいものだった。
 ただ火に誘い込まれる蛾のように、自分ではどうしようもない衝動だった。
(彼の言葉は正しい。)
 信仰にも近い一途さで、それは少年の中に根付いていった。
 思いはその後もけして揺るがず、やがて彼の存在は少年にとっての絶対的な指針となった。
 
 けれどだからこそだ。
 それほどまでに惹かれた少年であったからこそ、どうしても気付かずには居られなかった。
 彼のその清らかな光が少しずつ陰りゆくことに――。


 

    ◇◇◇


 

 湿度高めのジメッとした熱気。
 それと同時になんとなく粘度も高いような気がしてくるのは、はたしてあたしの気のせいだろうか。
 約束の時間ぎりぎりになって送られてきたメールの文章にもう一度目を通し、あたしはぱちんと携帯の画面を閉じた。
「やっぱり現地集合はやめておけば良かったな……」
 ぼやき混じりに深々とため息をつく。すると拍子に駅前の排気ガス混じりの空気を一気に肺に吸い込んでしまい、あたしは思わず咳き込んだ。
 
 ほとんど雨も降らないままに、気が付けば今年の梅雨は終わっていた。
 空梅雨と呼ばれるこんな年は、水不足になりやすく稲作なんかにも大きな影響が出るらしい。
 もっと身近な影響を挙げるとすれば、最近はやけに寒暖の差が激しいので体も慣れるまでに大変だ。
 だけど日に日に気温は上がっていき、ビルの合間に見える曇り空がいっぱいの太陽に支配されるまでもう少し。後はもう、夏に目掛けてまっしぐらだ。
 多くの人間がそんな灼熱の季節の予感にどこか浮かれ始める一方で、あたし――片瀬美鈴はと言えば、友人との約束をドタキャンされて所在無く駅前に立ち尽くしていた。
 
 期末試験もようやく終わり、頑張った自分たちへのご褒美にぱあっと買い物でもしよう。
 そう言う友人との約束であたしはこの渋谷までやって来た。
 基本的にあたしは物欲に薄い方なので、自ら進んでショッピングにいそしむ趣味はない。それでも友達に誘われれば、こうやって都心まで足を運ぶこともある。
 きゃいきゃいはしゃいで似合いの服を見立てあったりするのもそれなりに楽しいので、付き合わされることには異論はない。異論はないのだけれど――、
「中止なら中止って、もうちょっと早く知らせて欲しかったなぁ」
 自分がかなり早めに到着していたとは言え、現地に着いてから取り止めを告げられては、こちらとしても所在がない。
「まぁ、急用ができたって言うなら仕方がないか」
 あたしは人が好く、ついでにやたらと面倒事に遭遇しやすい友人の顔を思い浮かべた。……また何か厄介ごとにでも巻き込まれていなければいいんだけど。
「とりあえず、買いたかったものだけ買って帰るかな」
 そうやって人ごみに足を向けるけれど、実のところあたしが欲しい物といえば地元でも充分用立てられるものばかりだった。
 大型店でしか買えないような物も、ここ最近都心に来ることが多かった為ついでに購入してしまったばかりだし。
(そう、やっと一段落したのよね)
 あたしはつい苦々しく息を吐く。
 思い返すも忌々しい、あの遺言状騒ぎ。
 結局あたしはあの別荘の相続を放棄することに決めた。
 あたしが断れば遺産は全部慈善団体に寄付されると言う話だったけれど、実際のところ他の相続者に一銭も行かないということはない、とは弁護士の稲垣さんの言葉。
 それならそうと早く言ってくれよと少々むっとしたけれど、今更だろう。
 先日母を連れて昭和通り沿いの弁護士事務所におもむき、正式に断りの手続きを取った。
 ちなみに外では大人しかった美登里さんだけれど、家に帰り着いた途端「イケメン弁護士だぁ」とはしゃぎだしたのは、まぁミーハーな彼女らしくていいと思う。
「本当にいいのかい?」と穏やかに念を押す稲垣さんに、あたしは躊躇う事なくうなずいた。
 あの別荘はあたしの暮らしぶりなんかには到底釣り合わないものだし、何より父の実家とはもう関わりたくないというのが正直な気持ちだった。
 ちなみにあれから二ヶ月が経ったけれど、あたしの周りで何か事件が起こったということはない。無事、平穏な日々を取り戻せたということだろう。
(ホント、このまま一生関わってこなければいいんだけど)
 実の親戚相手にしてはちょっとだけ薄情なことを考えながら息を吐く。
 
 四ノ宮と、それからもう一人――、
 
(あ、しまった……っ)
 かっと頭に血が昇ってゆく。
 あたしは自分を落ち着かせようと深呼吸を繰り返した。
(もう忘れるって決めたんだからっ)
 無意識に首を手が覆う。
 あの事件のときに関わったもう一人の人物。
 いや、人と称していいのかは分からない。あのやたらとはた迷惑極まりない、そしてこの世の者とは思えぬ――美貌の持ち主。
 あの不遜にして傲慢な言動は、思い返すたびにふつふつと腹立たしさがよみがえる。一応やつにはそれなりに……まぁ、けっこう世話になったのも確かだけど、自分の精神衛生を顧みるにすっぱりきれいに忘れさせて頂く事に決めていた。
(なんだか無性に、落ち着かなくなるのよね……)
 ただでさえ訳の分からない存在であるのに、そんな事情も加わっては、さすがのあたしも頭がパンク状態だ。彼に関わる一連の出来事はあたしの中で完璧になかったこととして処理されていた。
 だけど噂をすれば影が差すという言葉があるように、こんな雑踏の中で厄介な相手のことを考えていれば自然と厄介事が寄って来るらしい。
 あるいは初めからそうなるように定められていたのか。
 もやもやと考え事をしながら歩いていたあたしは前方不注意によって、前から来る人に思いっきりぶつかってしまったのだ。

「あ痛っ」
 体格差もあって、当たった拍子によろめいてしまったあたしをその人はとっさに支えてくれた。
「おっと、悪い悪い。大丈夫か?」
「いえ、こちらもよく前を見てなかったから……」
 ありがとうございます、とお礼を言って顔を上げたものの、しかし相手の視線がまじまじと自分に注がれていることに気づいてあたしは首を傾げた。
「あの……?」
「なぁ、嬢ちゃん。どっかで会ったことがなかったっけか」
「へっ? な、無いと思いますけど」
 あたしもきょとんと相手の顔を見た。
 背が高い、筋肉質のがっしりとした体躯の男性。しかし鈍重さはどこにもなく、むしろちょっとした身振りの中からも剽悍さが伺いしれる。
 ぴょんぴょんとあちこちに跳ねた髪は金色で、カラーコンタクトを愛用しているのかサングラスの下からのぞく瞳は緋色。
 ぱっと見た感じは何だか怖そうだけど、わずかに開いた唇からは愛嬌のある尖った八重歯が見て取れた。
「そうか? でもこれは確か……」
 青年は不思議そうな表情を浮かべ顔を寄せてくる。あたしはぎょっとして身を引いた。相手はふんふんと鼻を鳴らす。
「な、なな何ですか!?」
「ああ、そうかっ」
 彼は悪戯っ子のように目を輝かせた。
「あんたやっぱり――、」
「ちょっと、ランっ。あんた何やってるのよ」
「うおっ」
 誰かが後ろから彼の耳を引っ張った。
「ついてこないから何かと思えば。何でこんな小っちゃい子ナンパしてんのよ!」
「わっ、ビックリした。違う違うっナンパじゃないって」
 むっとした顔で彼を問い詰めているのは、スタイルのいいゴージャスな美女。彼女はうろんそうな目であたしを見ていた。
 あたしはぴょこんと頭を下げると、慌てて彼らに背を向ける。
 犬も食わないなんとやら。
 身に覚えのない勘違いから修羅場騒ぎに巻き込まれるのは真っ平ごめんだ。
 あたしはすぐさまその場を立ち去ろうとしたのだけれどその間際、背後から何やらひどく楽しげな声があたしに向かって投げかけられた。
「たぶんまた会うことになるぜ、おひぃさん。美人の黒鬼によろしくな」
「へっ!?」
 あたしはぎょっとして振り返る。
 美女の腰に手を回したその人は、二人仲良く雑踏にまぎれていくところだった。
「まさか……空耳だよね?」
 あたしは呆然と立ち尽くす。
 ひゅるりと吹き過ぎる排ガス混じりの風に、くしゅんっとくしゃみが飛び出した。

 

 

 

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