番外編
「君に捧ぐ歌」


 廊下を歩いていると、ふいに歌声が聞こえてきた。
 かすかに耳に届くその声に導かれるように、階段を昇り屋上へと続く扉を開く。
 甘やかな歌声が清々しい秋の風とともに彼の全身を包み込んだ。

「……なにやってんですか、先輩」
「あら、こんな所で珍しい」

 屋上に設置された物置部屋。
 その壁に向かって惜しみなく美声を披露していた女生徒は、振り返ってにっこりと笑った。

「歌をうたってるんだけどね」
「そんなの見りゃ分かりますよ。僕が言いたいのは何で壁なんかに向かって歌ってるんだってことです」

 彼はのんきに答える彼女に怪訝そうな目を向けた。
 ちょっと視点を変えればどこまでも青い空が目の前一杯に広がっているというのに、何を好きこのんで灰色のコンクリートの壁で視界を埋め尽くしているというのだ。

 女生徒はふっと面白がるような色を顔に浮かべ、来い来いと手招きする。
 彼が仏頂面で近付くと、彼女はおもむろに壁を指差した。

「……壁ですね」
「それじゃなくって」
「じゃあコンクリート」
「材質でもないわよ」
「指と壁の間の空気ですか」
「だから何でそんな微妙なものを指摘しなくちゃなんないのよ。そうじゃなくってこのひび割れよ、ひび割れ」

 少女が指差したのはコンクリートの壁に刻まれた一筋の亀裂だった。むしろそっちの方がずっと微妙だと思いながらも、彼は素直に尋ねてみる。

「それがどうかしたんですか」
「あたしはね、このひび割れから校舎に自分の歌を染み込ませている最中なの」
「……」
「何でいきなりおでこに手を当てるの?」
「いえ、高熱の所為で意識が朦朧としているのかなと思いまして」
「そんな訳ないでしょうがっ」

 彼女は鍛えられた咽喉でもって盛大に怒鳴ると彼の手を振り払う。もっとも彼はそんな事、慣れた物だと言わんばかりの態度で平然と首を傾げた。

「だってそうとしか考えられませんよ。できるわけないじゃないですか、そんな非現実的なこと」
「……まったく、あいかわらずクールなんだから」

 やれやれと肩をすくめる。
 子ども扱いするような態度に彼はむっと眉をひそめた。

「と、言うか先輩が単に夢見がちなだけだと思いますけど」
「いいのよ、夢見がちでも」

 彼女はふいに微笑んだ。

「夢見がちな夢見鳥だなんて、素敵でしょ」

 夢見鳥は蝶の異名。
 蝶の名を持つ彼女は、よく好んでこの言葉を使っていた。

 弾けるようなその笑顔に彼は思わず視線をそらす。

「別に蝶でも鳥でもなんだっていいですけれど……。だいたいそんなことをして、何か良いことでもあるんですか」
「どうもしない。単なる自己満足」

 えっへんと胸を張って答える彼女。彼は呆れたようにため息をついた。

「そうですか……」
「あっ、ちょっと何あきれているのよ。だって考えても見なさいよ」

 彼女は両腕を翼のように広げると、陶酔したようにうっとりと目を細める。

「あたしがいなくなって君がいなくなって、十年たって二十年たって――、あたしたちを知る人なんか誰一人いなくなっても校舎にはあたしの歌声が残っているのよ。それってなんだか、とってもロマンチックなことじゃないかしら」

 彼女は朗々と歌うように語る。
 それは伸びやかで張りのある美しい響き。まさに歌うためにあるかのような声だ。

 夢想的な言葉の内容も合わさって、その姿はまるでソリストが舞台の真ん中で高らかに歌っているかのような印象を受ける。

 彼はついついその声に聞き入り――、あらためて言った。

「無意味です」

 がっくりと彼女は肩を落とした。

「だからどうして君は、そう人の気を削ぐような事ばっかり言うのかなぁ」
「だいたい校舎に歌が残るとか言うその意味が分かりません。録音機材も使わずに歌声が残る訳ないじゃないですか」
「あら、残るかも知れないわよ。そんなのやってみなきゃ分からないじゃない」
「分かりきったことです」

 はっきりと断言する彼に、しかし彼女は芝居がかった仕種でちっちっちっと指を振った。

「じゃあ聞きますけど、君は校舎に歌が残るかどうか実際に試してみたことはありますか?」
「や、それは……ないですけど」

 あまりに自信たっぷりな態度に思わずたじろぐ。

「だったら録音機材を使わずには、歌声を留めておけないということを証明した人の話を聞いたことはありますか?」
「それも、ないですけど……」
「じゃあやっぱり、やってみなければ分からないわよね」
「それとこれとは話が別――っ」

 無茶苦茶な理論に慌てふためく彼の額を、彼女はこつんっと小突いた。

「いいのよ、ちゃんと分かっているから」

 これまでとは打って変わった声の響きに、彼ははっと息を呑んだ。
 どこか淋しげな表情を浮かべた彼女は、視線を落として小さく微笑む。

「こんなことには何の意味もない。無意味だと言うことはちゃんと分かっているわ。だけどもし何かの奇跡が起こって歌声を校舎に残すことができたら――そんなことができたらいいのになって、ふと思ったの」

 そしたら駄目元でも試してみたくなっちゃって、そう言って彼女は肩をすくめた。

「……どうして、そんなことを思ったんですか」

 彼はためらいがちに尋ねる。
 二年間隣でずっと見てきたのは明るくてさばさばした性格の彼女。
 どこか憂いに満ちたその眼差しは、けして彼女らしくない。

「あと半年もしないうちに三年生は卒業でしょ。もうこうやって歌う機会はないんだなぁ、って。そう思ったらあたしがここにいたんだっていう証を残したくなったの」

 彼女は言った。

「本当はあたし卒業なんかしたくない。ずっとここで歌っていたい。――だけどそんなことは無理だから、せめて歌声だけでも残していきたいの」
「先輩は……、卒業後はどこの大学に行くつもりなんですか」
「進学はしないわ」

 彼は首を傾げた。
 もともとこの学校で卒業後の進路に就職を選ぶ人はほとんどいない。何より学年は違っても、彼女がかなり成績優秀な生徒であることはよく知っていた。

「両親がね、離婚するの。だからあたしは母さんと一緒に実家に戻ることにしたの。先生も母さんも勿体ないって言ってくれたけど、どうせだったらはやく社会に出て母さんの助けになりたいなって」

 いろいろ厳しいの知っているから。そう言って彼女はおどけたように指で輪を作る。

「あ、でもだからと言ってこの選択を後悔している訳じゃないのよ。ただそう決めたら途端に名残惜しくなっちゃって」

 もっと学校にいたい、もっと歌いたいという気持ちがとまらなくなったのだ、と彼女は言った。

「だったら歌声だけでも学校に残せないかなと思ってね」
「社会に出たら、もう歌えなくなるんですか?」
「そんなことはないだろうけど……でも今みたいに日がな一日歌ってはいられないだろうし、歌う機会自体もなくなっちゃうんだろうな」

 寂しげに笑う彼女に、彼は思わず言った。

「じゃあ僕のために歌ってください」
「へ?」

 彼女はキョトンと目を丸くする。

「歌う機会が要るんなら、僕がそれになりますよ。先輩に会いに行きます」
「会いにって、わざわざ歌を聞きに?」
「そうです」
「うちの田舎って遠いよ」
「それでも行きます。迷惑ですか?」

 有無を言わさぬ真剣な表情に、彼女は固まり――吹き出した。

「なに笑っているんですか」

 彼はとたんに不機嫌そうな顔になって眉をひそめる。

「そうですか。僕がこんな事言うのがそんなに可笑しいですか」
「いや、可笑しくは無いけどすごい意外で」
「悪かったですね。僕は先輩の歌声が嫌いでは無いので、聞けなくなるのは勿体ないなと思ったんです。もう言いません」
「悪くないわよ。ごめんね」

 拗ねたようにそっぽを向いてしまった彼を彼女は慌てて取り成した。

「とっても嬉しいわ、ありがとう。そっか、聞いてくれる人がいるんだ。だったらちゃんと歌わなくっちゃね」

 えへへ、と照れたように笑う。そしてあらためて灰色の壁に向き直った。

「よしっ。元気でた! じゃあもう一回校舎に歌声刻みますか」
「……まだやるんですか」

 彼は呆れたようにがっくりと肩を落とす。

「当然よ、それとこれとは話が別」

 彼女は壁のひび割れに指先をあてがい振り返る。
 そして今日の秋空のように、晴れ晴れと微笑んだ。

「だってあたしは、この学校が大好きなんだもの」
「知ってますよ、それぐらい……」

 彼はすねたようにそっぽを向き、それから堪らず苦笑した。
 
 
 


 

 
 いつかは誰もがこの場所を巣立つ。
 飛び立つ先にはきっと辛く苦しいこともあるだろう。
 だからこそこの日々の記憶は、誰にとっても優しいものであればいい。


 

 
 
 
 
「今は当たり前の毎日だけど、あたしたちもいつか懐かしく思い出す時がくるんだろうね。夢にでも見てさ。ああ、こんな日もあったよなぁ、って――、」

 
 幸せそうに言う彼女の笑顔を見つめながら、彼は眩しげに目を細める。
 そしてその甘く優しい歌声を深く深く胸に刻み込みながら、この時が永遠に続くよう願うのだった。
 
 

【終】