番外編
「君に捧ぐ歌」
廊下を歩いていると、ふいに歌声が聞こえてきた。
「……なにやってんですか、先輩」
屋上に設置された物置部屋。
「歌をうたってるんだけどね」
彼はのんきに答える彼女に怪訝そうな目を向けた。
女生徒はふっと面白がるような色を顔に浮かべ、来い来いと手招きする。
「……壁ですね」
少女が指差したのはコンクリートの壁に刻まれた一筋の亀裂だった。むしろそっちの方がずっと微妙だと思いながらも、彼は素直に尋ねてみる。 「それがどうかしたんですか」
彼女は鍛えられた咽喉でもって盛大に怒鳴ると彼の手を振り払う。もっとも彼はそんな事、慣れた物だと言わんばかりの態度で平然と首を傾げた。 「だってそうとしか考えられませんよ。できるわけないじゃないですか、そんな非現実的なこと」
やれやれと肩をすくめる。
「と、言うか先輩が単に夢見がちなだけだと思いますけど」
彼女はふいに微笑んだ。 「夢見がちな夢見鳥だなんて、素敵でしょ」 夢見鳥は蝶の異名。
弾けるようなその笑顔に彼は思わず視線をそらす。 「別に蝶でも鳥でもなんだっていいですけれど……。だいたいそんなことをして、何か良いことでもあるんですか」
えっへんと胸を張って答える彼女。彼は呆れたようにため息をついた。 「そうですか……」
彼女は両腕を翼のように広げると、陶酔したようにうっとりと目を細める。 「あたしがいなくなって君がいなくなって、十年たって二十年たって――、あたしたちを知る人なんか誰一人いなくなっても校舎にはあたしの歌声が残っているのよ。それってなんだか、とってもロマンチックなことじゃないかしら」 彼女は朗々と歌うように語る。
夢想的な言葉の内容も合わさって、その姿はまるでソリストが舞台の真ん中で高らかに歌っているかのような印象を受ける。 彼はついついその声に聞き入り――、あらためて言った。 「無意味です」 がっくりと彼女は肩を落とした。 「だからどうして君は、そう人の気を削ぐような事ばっかり言うのかなぁ」
はっきりと断言する彼に、しかし彼女は芝居がかった仕種でちっちっちっと指を振った。 「じゃあ聞きますけど、君は校舎に歌が残るかどうか実際に試してみたことはありますか?」
あまりに自信たっぷりな態度に思わずたじろぐ。 「だったら録音機材を使わずには、歌声を留めておけないということを証明した人の話を聞いたことはありますか?」
無茶苦茶な理論に慌てふためく彼の額を、彼女はこつんっと小突いた。 「いいのよ、ちゃんと分かっているから」 これまでとは打って変わった声の響きに、彼ははっと息を呑んだ。
「こんなことには何の意味もない。無意味だと言うことはちゃんと分かっているわ。だけどもし何かの奇跡が起こって歌声を校舎に残すことができたら――そんなことができたらいいのになって、ふと思ったの」 そしたら駄目元でも試してみたくなっちゃって、そう言って彼女は肩をすくめた。 「……どうして、そんなことを思ったんですか」 彼はためらいがちに尋ねる。
「あと半年もしないうちに三年生は卒業でしょ。もうこうやって歌う機会はないんだなぁ、って。そう思ったらあたしがここにいたんだっていう証を残したくなったの」 彼女は言った。 「本当はあたし卒業なんかしたくない。ずっとここで歌っていたい。――だけどそんなことは無理だから、せめて歌声だけでも残していきたいの」
彼は首を傾げた。
「両親がね、離婚するの。だからあたしは母さんと一緒に実家に戻ることにしたの。先生も母さんも勿体ないって言ってくれたけど、どうせだったらはやく社会に出て母さんの助けになりたいなって」 いろいろ厳しいの知っているから。そう言って彼女はおどけたように指で輪を作る。 「あ、でもだからと言ってこの選択を後悔している訳じゃないのよ。ただそう決めたら途端に名残惜しくなっちゃって」 もっと学校にいたい、もっと歌いたいという気持ちがとまらなくなったのだ、と彼女は言った。 「だったら歌声だけでも学校に残せないかなと思ってね」
寂しげに笑う彼女に、彼は思わず言った。 「じゃあ僕のために歌ってください」
彼女はキョトンと目を丸くする。 「歌う機会が要るんなら、僕がそれになりますよ。先輩に会いに行きます」
有無を言わさぬ真剣な表情に、彼女は固まり――吹き出した。 「なに笑っているんですか」 彼はとたんに不機嫌そうな顔になって眉をひそめる。 「そうですか。僕がこんな事言うのがそんなに可笑しいですか」
拗ねたようにそっぽを向いてしまった彼を彼女は慌てて取り成した。 「とっても嬉しいわ、ありがとう。そっか、聞いてくれる人がいるんだ。だったらちゃんと歌わなくっちゃね」 えへへ、と照れたように笑う。そしてあらためて灰色の壁に向き直った。 「よしっ。元気でた! じゃあもう一回校舎に歌声刻みますか」
彼は呆れたようにがっくりと肩を落とす。 「当然よ、それとこれとは話が別」 彼女は壁のひび割れに指先をあてがい振り返る。
「だってあたしは、この学校が大好きなんだもの」
彼はすねたようにそっぽを向き、それから堪らず苦笑した。
【終】 |