春分を過ぎたとは言えまだまだ寒い日が続いている。
特に山間のこの別荘では標高が高いこともあって、つい一週間前に雪が降り積もったのも記憶に新しい。
もっともそれはこの冬最後の雪だったらしく、気付けば少しずつではあるが春の花々もつぼみを膨らませて綻び始めていた。まさに百花繚乱の兆しが見える頃合である。
「ルフト、いるか?」
春の盛りを待ち望むかのように窓辺から庭を眺めていた伊織は、ふいに自分の使い魔に呼びかけた。しかし返事が無い。
「ルフト」
首をかしげ、もう一度伊織が訊ねる。
「ルードヴィッヒ・イデアール・ドゥンケルハイト」
普段なら呼べばしぶしぶながらもすぐに姿を見せる相手であるはずなのだが、今日ばかりは待てど暮らせど現われない。
不思議に思った伊織は、袂から小さなネズミ型の使い魔を取り出してルフトの居場所を探らせることにした。
彼はすぐに見つかった。ただし思いもかけない場所で。
まだ空気はひんやり冷たいものの、日差しの照り具合の加減か、あるいは山の霊気が集ったのか、裏庭から少し歩いたところに突如、山桜が満開に咲き誇っていた。
そしてその根元には波打つ美しい黒髪を無造作に地面に広げ、悠々と寝そべっている佳人の姿があった。どうやら転寝でもしているらしい。
「なるほど。鬼も惑わす桜だな」
伊織はくすっと笑って、珍しく日向で寝こける自らの使い魔に近づく。
桜の帳の中で目を閉じ眠る彼の姿は、まるで一枚の絵のように様になっている。
「随分と気持ちよさそうに眠っている」
ひらりと花びらが一枚、彼の唇の上に降る。何の気無しに手を伸ばすと、抜く手も見せぬ早さでその腕を捕まれた。
「なんのつもりだ……?」
「おや、起こしてしまったか」
のっそりと身を起こすルフトに、伊織は悪戯を見つけられた悪童のような悪びれない表情で肩を竦める。
「誰も寝てなどおらぬ」
「では狸寝入りか」
にんまりと笑う伊織にルフトはすこぶる機嫌の悪そうな表情で、眉間に皺を寄せる。
伊織は改めて咲き誇る桜を見上げた。
「それにしても見事な桜だな。よくぞまぁ、こんな場所を知っていたものだ」
「呼ばれた」
「呼ばれた? 誰にだ?」
ルフトは答えない。捻くれた性格の使い魔に、伊織は苦笑して肩を竦める。いつものことなので、いちいち腹をたてる気にもならない。
「しかし本当に美しい」
伊織は満開に咲き誇る桜を視界に納め、目を細める。
薄紅色の花はただそこにあるだけで、否応なしに人の目を奪う圧倒的な存在感がある。
「ルフト、お前は桜に似ているな」
伊織の言葉に彼女の使い魔は何を言うのかといぶかしげな眼差しを向ける。
「遠目には艶やかで、夜の闇に映え」
伊織はにやりと笑う。
「近くで見ると思いのほか可愛い」
光の欠片のように舞い散る花びらを手のひらに受け止める。
しっとりとした手触りの薄紅色のそれは、小さく淡く、まるで手の熱で溶けるのではないかと錯覚させるほどに儚げだ。
それはむしろ可憐で透き通るような容貌を持つ伊織にこそ相応しい形容のように思える。もっとも一方、豪胆でいささか粗雑が過ぎる嫌いにある彼女の本質には不釣合いとも言えるだろうが。
ルフトは不快そうに顔をしかめ鼻を鳴らした。
「それならば、貴様は梅だな」
「ほう、それはどうしてだ?」
伊織は興味深そうにルフトを見上げる。夜の闇を体現したかのような魔性は、冷ややかな眼差しで己を縛る術者を見下ろした。
「貴様は物言わず闇夜の褥(しとね)で馨っている時が一番マシだ」
その言葉に伊織は目を見張り、それから楽しそうにくすくすと笑った。
「なるほど、それは光栄だな。だが、私は人間だから黙ってばかりはいられんよ」
伊織はルフトに背を向けて桜に向き合い、頭上の花を見ながら言う。
「ルフト、お前は蕾だよ。春の盛りを、咲き誇るその時を待つ絢爛たる花の蕾だ」
ルフトは不可解そうな顔をする。
数百もの年月を生きた魔の化身を表現するのに、蕾はもっとも縁遠い喩えのひとつだろう。だが伊織ははるか彼方を見透かすように、そっと目をすがめる。
「それを自覚できないのは、お前が本当の春を知らないからだよ。お前が咲き誇るべき春はまだ遠い。春告げる鳥が鳴くまで、宵の夢の中でたゆたっておいで」
理解できないと表情で告げているルフトに、振り返った伊織は愉快そうに笑いかける。
「それにしても、本当に見事な桜だ。今まで知らなかったのが惜しいくらいだ」
「……今年で最後だ」
「どういう意味だ?」
伊織は首を傾げる。
「この老木に、もはや来年の花をつける力はない。最後の花を咲かすゆえ、どうかそれを見届けて欲しいと余に申し出てきた」
「そうか……」
夜の闇を住処とするこの妖魔がわざわざ日も高いうちから出歩いていたのも、その願いが気位の高い彼の心を動かすに足りるものだったからだろう。
長きにわたって美しい花を咲かせてきた老桜の、その最後の姿を見届けて欲しいという思いに、同じく長い夜を生き続ける魔性は自らに重なるものを覚えたのかも知れない。
(だが、お前がそれに共感するのは、まだ早いよ)
伊織は誰に気付かれることのない小さな笑みをそっと口元に浮かべる。
「ならば、ただ眺めて終わりにするには勿体無いな。せっかくだ、花見酒をしよう。ルフト、お前も付き合え」
途端に嫌そうに顔をしかめるルフトの肩を小突いて、伊織は酒盛りの準備のために来た道を戻り始める。
「そんな顔をするな。上物の葡萄酒を開けてやる。それならお前も文句はないだろう」
しぶしぶと言わんばかりのルフトが後を付いてくることを疑いもせず、伊織は花逍遥とばかりの足ぶりで歩き出す。
永遠を思わせるのどけき春の日差しが、そんな二人を柔らかく包み込んでいた。
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