≪五万ヒット御礼企画≫

これは中編『黒薔薇狂詩曲』の番外編(本編第一部ネタばれ有)です。


30 遠く遠く遠く…

 

 
 今年は暖冬だったためか、まだ三月もようやく半ばを過ぎたあたりだと言うのに、すでに桜は満開に咲き誇っていた。
 庭のヒガンザクラは見事なまでの花盛りで、誰の目にも触れることなく風のいたずらに散り落ちていく様がいっそ不憫にすら思われる。それを気にしてか、枝から離れた花びらが数枚、人目を誘うように縁側に舞い落ちた。
 だが彼はそうした風流にはまるで気付かず、花びらを蹴散らすように板敷きを駆け抜け勢いよく障子を開け放つ。その上よくよく確かめもせず部屋に足を踏み入れたものだから、入った途端何かに蹴つまずきそうになった。
 転びそうになったところをどうにか堪えて足元を見下ろすと、今つまずいたそれこそが自分の探していた相手であると知れた。
 驚きと、そして顔を見ると同時に湧き上がった罪悪感に、彼は眉間に皺を寄せる。蹴飛ばしたことで足元の相手は目を覚ましたらしく、ゆっくりと瞼を持ち上げていった。
「……ぁあ、アニキじゃん」
「すまん……、蹴ってしまった」
 いつもよりもぼんやりとした気だるそうな声。だが声をかけると、相手はいきなりスイッチが切り替わったように快活な笑みを浮かべて首を振った。
「気にすんなよ。こんな所で寝ちまった俺が悪かったんだから」
 しかし身体を起こそうとした相手――弟は、身じろぎをした途端苦痛の呻き声を漏らした。
「淳哉、無理をするなっ。構わないから横になっていろ」
 慌てて弟の動作を押し留める。
「すぐに布団を敷くから、大人しく待て」
 彼にとってはむしろそれこそが、今ここに現れた目的のようなものだ。
 弟がこんな所で寝ていたのだって、それはけして春の陽気に誘われたのではなく、部屋に戻ってきた所で力尽きてしまったからだと気付いていた。
 広さだけはあるものの、和箪笥と文机しかないがらんとした部屋に素早く上がりこみ襖を開く。背後から淳哉の焦ったような声が届いた。
「いや、アニキっ。そこまでして貰わなくても大丈夫だから!」
 だがその言葉は無視する。振り返ることもしない。
 昭仁は、ボロボロに傷つき憔悴しきった弟を直視することができなかった。
 
 彼らが属しているのは四ノ宮という一族だった。
 四ノ宮家は古くから続く陰陽師の家系であり、始祖から受け継いだ力によって悪しき異形のものを退治する役割を担っていた。
 それは代々続く一族の生業であり、自分たちしか持ちえない力を振るって他人を助けることは誇り高い、意義のあることだと昭仁は考えている。
 だが、それも強制された行為であるのならば話は別だ。
 しかも自らの命を懸けなければならないものとなれば、なおさら余計に――。

 独りで役目を命じられた淳哉が、怪我をして戻ってきた。
 大学の研究室でその電話を貰ったときから、昭仁は気が気ではなかった。
 もともと今日は予定があったので早めに辞すことを決めてはいたが、一族内の知人からその連絡を受けるやいなや進行中の実験は途中で中断した。同じ研究室のメンバーには申し訳ない事をしたが、その分埋め合わせはどこかでするつもりではいる。
 確かにここ数日昭仁は、研究室に泊り込むことも少なくない過密スケジュールの中にいたが、それでも高校を卒業したばかりの弟がほぼ毎日のように一族の務めを命じられていたということに気付かなかったのは痛恨のミスだった。それをようやく知らされた今になって、彼は何を置いても弟の元に飛んで帰ることにしたのだった。
 
 布団を敷き終わり、淳哉に肩を貸し立たせる。その瞬間、淳哉は再び痛みに呻いたが、昭仁が視線を向けると返してくるのは平然とした顔。
 もっとも額に巻かれた包帯や切れた唇、打撲をこしらえた頬がその表情を裏切っている。骨折には至ってないだろうが、服に隠されて見えない箇所にも打ち身か切り傷か火傷か――あるいはそのすべての症状があるのだろう。
 それなのに淳哉は、なんでもない顔をして笑うのだ。
(――いったいいつの頃からだ)
 昭仁は弟に気付かれぬよう、そっと歯噛みする。
(淳哉が自分に、強がりばかりを見せるようになったのは――?)
 傷付いた弟の身体を布団の上に横たえながら、彼はつい咎めるような口調で声をかけた。
「いつも言っているだろう。私がいない時にまで、一族の命令に従うことは無いと」
「あちゃあ。やっぱりばれてたか。百合子さんあたりから聞いたの? だからこんなに帰りが早かったのか」
 悪戯を見つけられた子供のような、ばつの悪そうな表情を淳哉は浮かべる。
「ばれるばれないの話ではない。お前一人が無理をする必要はないと言ってるんだ」
 一族の命令に従って任務をこなす。それは四ノ宮の人間すべてに課せられた義務であり、そこに例外はない。
 だが一族の中において、昭仁と淳哉は特に立場が弱かった。それは彼らの出生に起因するもので、自分たちにはどうすることもできない。だからその分どうしても、他より割を食いやすいのだった。
 それゆえに彼らはいつだって、二人で組んで役目をこなしてきた。けして負けずに戦い続けるために。そして、互いの命を守るために。
 だがそれもここ一、二年の間に変化が生じてきた。淳哉が単独で任務に出ることが多くなったのだ。最近はあからさまにその割合が高くなってきている。
「オーケー、オーケー。もちろん分かっているよ、アニキ。――だけどさ、さすがに一族の要請を無視するわけにはいかないだろう?」
 申し訳なさそうな顔をする淳哉に、彼は返す言葉を失う。
 皮肉めいたことに淳哉はその優れた能力により、便利な道具としてみなされがちだ。しかも淳哉は一族から命令されれば、逆らうことができない。体が弱く一族の援助が必要な母と、そして他でもない昭仁のために――。
「いやぁ、しかししくじったよ。アニキには内緒にしておこうと思ったのにさ」
 重たくなった空気を取り繕うように、淳哉は陽気に声を張り上げる。昭仁はそれに答え、どうにか苦い笑みを返した。
「どちらにしてもその姿を見れば気付かないはずがないだろう」
「いやさ。今日はたまたまドジっちゃっただけで、本当はもっとこう、華麗にスマートに決めるはずだったんだよ、俺も」
 だけど敵もなかなかしぶとくってさ、と武勇伝を語り出そうとする淳哉を押し留め昭仁は布団の上から弟を叩いた。
「話は後で聞く。今日はもうゆっくり休め」
「えっ。いや、そういうわけには行かないだろう」
 淳哉はおろおろと焦った声を出す。
「だって今日は一緒にお袋の見舞いに病院へいく予定だったじゃん。俺だったら大丈夫だよ。少し休めば動けるようになるから――」
「あの人には私から連絡を入れる。見舞いになら、明日にだって明後日にだっていつでも行ける」
 第一そんな顔で会ったら、逆に心配かけさせるだろう。そう諭してようやく淳哉はしぶしぶとうなずいた。
「ごめんな、アニキ……」
 申し訳なさそうにそう呟いたあと、淳哉はすぐさま眠りに落ちていった。気絶とすら言って差し支え無いその様子に、よほど疲れきっていたのだろうと昭仁は推測する。
 眠りについた弟の頭をくしゃりと撫ぜると、昭仁は静かに部屋を出ていった。
 そのまま戸外へ出て、庭を抜け、母屋に上がる。廊下を幾度も曲がり、屋敷の奥への足を進めた。
 外の陽気とは掛け離れた、重たく湿った空気がじわりと身を取り巻いていく。
 冷たい板張りの廊下を無言で歩きつつも、昭仁は強く拳を握り締めた。
 なぜ淳哉がああやって一人で義務を負いたがるのか。
 それは母と兄が四ノ宮に戻ることになった原因が、己にあると淳哉が思い込んでいるからだ。 淳哉は母や自分に負い目を感じている。一族は淳哉のそんな思いに付けこみ、だからこそ余計に淳哉は一族の命令を断れない。
 だが、彼は自責の念とともに眉をひそめる。
 負い目を感じる必要があるとするならば、それはむしろ自分の方だと。
 曲がりなりにも長男であるという理由から比較的自由を手にしている自分とは違い、淳哉は将来の選択肢も、若者として当然の楽しみも、あらゆる自由をも取り上げられ、ただ一族に従うことだけを強いられている。現に自分はこうやって大学にまで進み学業を修めているのに、淳哉は進学すらも許されなかった。
 淳哉は自分の分まで一族という重荷を背負い込んでいるのだ。
 このままでは確実に淳哉は一族によって使い潰される。
 一族の道具として一生を費やし、身を損ね、最後には命を縮めことになる。
 それは断固として避けなければならなかった。あの優しい弟は、絶対にそんなことのために生まれて来たのではないのだ。
(――どうか、自由になって欲しい)
 昭仁は心の底からそれだけを願った。
 一族の妄執からも、家族への負い目からも解放されて、遠く遠く遠く――どこまでも遠くに飛んでいく鳥のように自由になって欲しい。
 それこそが昭仁が弟に求める唯一のことだった。
(――ではそのために自分は何をしなければならない?)
 昭仁は唐突に歩みを止めた。
 じわりじわり、と自らの胸から染み出してくる暗い謀略の思惟。
 計画はある。何年も前から暖めてきた、計画が。
 だけど本当にそれを実行してしまっていいのか。
 償いきれない過去が、拭い去れない後悔が、彼の決意を鈍らせる。
 うららかな春の日差しも差し込まぬ、暗く湿った廊下の一角に立ちつくしたまま――、その時の昭仁にはまだ、自らの計画を思い切ることはできなかった。

 

 

 

 

30、「遠く遠く遠く…」……『黒薔薇狂詩曲』番外編(本編1部ネタばれ有) 

 

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