第二章 5、「黄昏の光」(2)

 


 落日。

 東の地平線から闇がどんどんせり上がって来る。まるでそこに黄泉の国へと続く門でもあるかのように、風が冷気をまとって吹きすさぶ。空よりも高い天の漆黒を透かした大気が星の光を瞬かせた。

「今日はもう無理だな」

 厳かにそうのたまい、ゼーヴルムは足を止め空を見上げた。
 後数刻もしないうちに、日は完全に落ちるだろう。そうなれば辺りは完全に闇に覆われてしまう。満月の時のように月の光が浩々と照らしているならばともかく、まだ細い弓張の夜に無理に進むことはけして安全なことではない。

「じゃあ野宿の準備だね」

 シエロがふうと息を吐きにっこりと微笑んだ。
 街道脇でそれぞれが足を止め、荷物を降ろし始める。暖かなベッドで眠れる宿ではなく、飽くまで寒風吹きすさぶ中の野宿ではあるがそれでも.一日歩き続けたためゆっくり腰を落ち着けて休めるのは有り難いことだ。

「ジェム君、大丈夫かい?」

 病み上がりすぐの強行軍にさすがに疲れきったのか、腰をおろしてその場に座り込んでいたジェムの元にスティグマが近寄って来る。

「なんだか元気がないみたいだが、…気分でも悪いのか?」
「…いいえ、ちょっと歩き疲れただけです。やっと休めるかと思ったらほっとして力が抜けて。平気です」

 細やかなスティグマの気遣いに、ジェムは静かに微笑んだ。
 とりあえずジェムに心配がないのを見て取ると、スティグマは顔を上げて周囲に呼びかけた。

「少し歩けば川がある。誰か、日が落ちきる前に水を汲んできたほうがいいんじゃないか」
「あっ、おれが行く」

 スティグマの言葉にバッツが勢いよく手を挙げた。

「水汲みにはおれが行くぞ。ドクター、川はどっちの方向だ?」
「街道の西側だ。間違っても逆の方に行くなよ。ちょっとした崖があるからな」

 気を付けろと言う言葉を受けて、水汲みに向かうバッツの後をジェムは急いで追いかけた。

「待ってください。バッツさん、ぼくも行きますっ」
「ジェム、お前は休んでろって。病み上がりなんだし、疲れてんだろ」

 自分の大陸の事情をジェムに語った後も、バッツのジェムに対する対応はそれ以前とまったく変わらなかった。そのことが、ジェムには酷く嬉しく、同時に心苦しくもあった。

「いいえ、大丈夫です。もう十分休みました」

 ジェムは無理に同行を願い出る。特に反対しなければならない理由もなかったので、不思議に思いながらもバッツはあっさり承諾した。




 夕刻の森の中は、街道とは異なりすでに薄暗く、夜のようだった。

「ちっ、もう真っ暗じゃねぇか…。兵士の奴、もう少し早く野宿を始めろよな」

 ぶつぶつとゼーヴルムへの文句を唱えているバッツに、ジェムはおずおずと話を切り出した。

「あ、あの、バッツさん…」
「んっ? 何だ」
「ぼく、バッツさんに謝らなくちゃいけません…」

 弱々しく呟くジェムに、バッツは不思議そうに首をかしげた。

「謝るって、何のことだ」
「…ぼく、バッツさんの大陸の事、何も知りませんでした。もしかしたらそのことで、バッツさんの気分を害してしまったんじゃないかって―――、」

 あるいはフィオリのように、知らず知らずのうちにバッツを傷つけてしまったかもしれない。
 悲しげにうつむくジェムに、バッツはさらに訝しげに眉根を寄せた。

「何を言ってるんだ? 言っただろ、おれは別に気にしてないって」
「でも、ぼくの国がバッツさんの大陸に酷いことをしたのは確かで…、」
「だーかーらぁ」

 バッツは足を止めるとぐしゃぐしゃと自分の髪を掻き乱した。

「お前、ちゃんと聞いていたのかよ。お前の国がしたことは確かに悪いことかもしれないが、お前に直接責任はないだろう。そりゃ、お前が気にしてくれるのは嬉しいけどいつまでもグチグチ謝られてちゃこっちだって困るんだよ。いいか、一回しか言わないからよく聞けよ」

 バッツはむすっとした顔でジェムをにらみつけた。

「おれはスズリ大陸の代表で、お前はノルズリ大陸の代表の巡礼者だ。それはどうしたって変わらない事だろ。だけど、今おれがこうやって話しているのはお前、ジェム自身であって別にお前を通したノルズリ大陸ってわけじゃない。こっちが一人の人間として話をしているのにいつまでも国の話を持ってくるんじゃねえよ。それこそわずらわしくて仕方がねぇだろ」

 きっぱりと言い切られたその言葉にジェムは目をぱちくりとさせた。

「バッツ…」
「そりゃおれだって、ノルズリ大陸の人間に嫌な思いをさせられたことはあっぞ? だけどそいつらはそいつらでジェムはジェムじゃないか。それはまったく関係ないことだろ。お前が名も知らない地の民ならともかく、おれはジェムの事を知ってるんだ。だったらお前を嫌う理由はない。それぐらい説明されないでも分かりやがれ」

 完全に不貞腐れてそっぽを向いたバッツの前でジェムは再びうつむいた。

「バッツ…、ごめんね」
「おまっ、まだ言うか――、」
「…ぼくをぼくとして、一人の人間として見てくれて、―――ありがとう」
「っ…、分かった。それは分かったからもう泣くなってっ」

 ほろほろと泣き出したジェムの頬をバッツが慌てて拭った。

「あのなぁ、前々から思ってたんだがお前には覇気が足りないんだ、覇気が。たまには思い切って無茶苦茶なことでもしてみろよ。それだけでも人生変わるぞ」
「無茶苦茶って。バッツさん、さすがにそれは…」
「やれば意外と癖になるかもしれないぞ。―――おお、やっと川に着いたな」

 にやりと笑って、バッツはさっさと川に向かって歩き出す。もしかするとさすがに照れくさかったのかもしれない。

「…有難うございます」

 その後ろに立ち尽くしたジェムの唇から誰にも聞こえないような小さな独白が漏れた。

「ありがとう、バッツさん。―――だけど、それはぼくにはもう、無理なんです…、」

 吐息混じりの呟きは酷く悲しげに、虚空に散った。






 ジェムとバッツが水汲みから戻ったとたん、甲高い怒鳴り声が二人の耳を打った。

「だからこんな時間にいったいどこに行こうっていうのよっ」
「いやいや、そんなこっそり一人で楽しいところに行こうとしている訳じゃないからお気になさらず」
「そういうこと言ってるんじゃないのっ」

 ジェムはびっくりして目を丸くした。
 だがそれはけして言い争いに驚いたからはない。悲しい話だが突然の怒鳴り合い自体については、バッツとゼーヴルムによって耐性が付いていたりする。
 だからジェムが驚いたのは、言い争っているのがフィオリとシエロという意外な二人であるという事実についてだった。最も怒鳴っているのはフィオリ一方なのだが。

「あ、あのっ、これはいったいどういう事でしょうか!?」

 ジェムはだいぶ慌てながら、しかしそれでも足音がしないようにこっそりとスティグマに近寄っていく。困り顔の保護者はジェムに気付くとやれやれと肩をすくめてみせた。

「いやなに。うちの娘の堪忍袋の緒がとうとう切れてね」
「はぁ」

 ジェムは訳が分からず首をかしげた。

「フィオリにはちょっとした悪い癖があるんだ。あの子は生活する上での様々なルールを自分で作っていてね。まあ、それだけならいいんだが、どうにもその決まりを他人にも強制したがる節があるんだ。つまり―――、」
「あたしは食事ぐらいはみんなで一緒にとるって決めてるのっ。どうしていつもいつもあなただけ食事時になるとふらっとどっかいっちゃうのよっ」
「…とまあ、こんな感じでね」
「ああ、なるほどな」

 ジェムの後ろを着いてきたバッツはうんうんとうなずいた。

「そういえば、あの小娘。飯時にはいつもそんなこと言ってたな。ジェムは部屋で食ってたから知らなかっただろうけど」
「そうだったんですか…」

 まあ、確かにみんなそろって食事を取るのは悪いことではないだろう。しかし、彼女の言葉の中には誰かさんに対する日頃の鬱憤も混じっているような気もしないではない。

 実を言えばジェムたちもまた、シエロと一緒に食事をしたことは一度もなかった。
 フィオリたちと会うその前からも、シエロは食事時になるといつもどこかにいなくなってしまっていた。
 出会って最初のうちはジェムも気になって直接本人に聞いてみたりしていたのだが、その度にあの笑顔でのらりくらりと言いかわされてしまう。
 居なくなるのはそれこそ巡礼を始めてから毎度のことだったので、そのうちにジェムたちは問い質すのを諦め、そのこと自体にもすっかり慣れていってしまっていた。食事が終われば何事もなかったかのようにひょっこり戻ってくるので特に心配はしていなかったのだが、確かに妙なことではあるだろう。

「でも、自分の決まりをそこまで守ろうとするなんてなんだかバッツさんを見ているみたいです」
「なんだとっ、おれとあの小娘を一緒にするなっ。おれが守っているのは我々の神より与えられた戒律であってな、小娘の作った自分勝手なルールとはぜんぜん違うんだっ! それを一緒にするなんて無礼極まりないぞっ」
「ご、ごめんなさいっ」

 厳しい反論にジェムはあわてて頭を下げる。
 ジェムの不用意な一言にバッツは大激怒するが、その横では「保護者の前でそこまで言うのもいかがなもんかと…。いや、確かにうちの娘もいい加減アレだけど…」とスティグマが悲しげに肩を落としていた。

 そんな風にいつの間にやら騒ぎは外野にまで飛び火するが、シエロはといえば合いも変わらず飄々とフィオリの怒声に応じている。

「ははっ、いいじゃないか。別に俺一人ぐらい居なくたって。いっそ食費が減るから喜ばしいことじゃないかい?」

 問題はないはずだよと、にっこり微笑むシエロにフィオリは眉を吊り上げた。

「そういうことを言ってるんじゃないでしょう! ご飯を用意してもぜんぜん食べないし。こっちは心配して―――、」
「シエロ・ヴァガンス」

 それまでずっと言い争いには我関せずといった態度で、黙々と食事の支度をしていたゼーヴルムがそのとき初めて口を開いた。
 ついついすっかり彼のことを忘れていた面々は思わずびくっとして彼に目をやる。彼はシエロのほうを見ようともせず、ただつまらなそうな口調で一言だけこう言った。

「お前は食事が取れないんじゃないのか」

 誰もがぎょっとしてシエロのほうを見た。
 シエロはその言葉に困ったような照れたような顔をするとへへっ、と笑う。

「正解。大当たりー」
「ならば先にそう言って置け。人騒がせな」

 ゼーヴルムはそれだけ言ってまた支度に戻った。

「おいっ、待て。そりゃいったいどういうことだっ!?」
「う〜ん。どういうことだろうねぇ」

 驚くバッツにシエロは苦笑して肩をすくめる。

「あーでもぜんぜん何も口にできないと言う訳じゃないんだよ。ミルクとかー果実とかー蜂蜜とか。あとはお茶なんかだったら普通に平気」
「だがそれではまともな食事などできるはずがない。それではいつか栄養失調で倒れるぞ。いったいいつからそんなことをしているんだ」
「生まれたときからかな」

 医者らしいスティグマの質問にシエロはあっさりと答えた。
 ぎょっとする面々を尻目に彼はうんうんと一人うなずく。

「まあしかし、そんだけしか食べないでここまで大きくなれたんだから儲けものだよなぁ。あっ、だけど良い子のみんなは真似しないこと。特にバッツとジェムはそれ以上背が伸びなくなっちゃうからね」

 シエロは冗談交じりにそんなことを言ったが、周囲のもの言いたげな視線を受けてやれやれと息をついた。

「あのね、これはもうゼーヴルムには言ったんだけどさ。俺は生き物を殺せないの。だから同じ理由で生き物は食べられない。獣肉は当然のことながら穀物も野菜もね。でも俺はそれを不便とは思ってないし哀れんでほしいとも思ってない。だからこの話はこれでおしまーい」

 それだけ言って立ち去ろうとするシエロに、フィオリはあわてて声を掛けた。

「待ってよ。でもそれじゃあ食事時にいなくなる理由にはなってないわよっ」
「ああっ、そうだった」

 シエロはぽんと手をたたいて振り返る。

「でも本当は言わなくても分かると思うな。だってさ、フィオリちゃん。みんなが食事をしている中、一人だけ何もしてない奴がいたらかなり気まずいと思わない?」
「でも、それは…」

 フィオリは何とか言い返そうとするが勢いが無い。

「俺もみんなが食べにくそうにしてるのを見るのは居心地悪いしね。だから悪いけど、食事の時は俺は抜けさせてもらうよ。一緒にご飯食べたいわ、っていうフィオリちゃんの気持ちは嬉しいけどね。残念残念」

 悠々と立ち去っていくシエロを、彼らは何も言えずに見送った。