開いた窓から風が入ってきた。 冷たさを孕んだ気流はカーテンを揺らし、室内にいる人間の肌を無遠慮に撫でる。 「あの、シエロさん。窓を閉めてもらえますか。それからカーテンも…」
窓際の壁に背を預けていたシエロはゆったりと微笑み窓を閉め、カーテンを閉じる。 「…それで、心の準備とやらはできたのかよ」 不意に沈黙を破り、不貞腐れたような声でそう訊ねたのは板張りの床に直接あぐらを掻き頬杖を着いているシェシュバツァルだ。その目は不機嫌そうにジェムをにらんでいる。
「―――はい。お待たせしました」 ジェムは息をつくとゆっくりとうなずく。声が細かく震えているのを、彼自身はっきりと自覚していたのだけれども。
押し問答の末、結局彼らは夜通し歩き続け、何とか夜明け頃には街道筋にあるこの町へ到着した。
けれど、だからといって全てが上手くいくわけではない。いざ話を聞こうとしたその時には、ジェムはすでに体力の限界だったのか気絶したかのようにその場で眠りこけていた。彼らははっとしたが、時すでに遅し。こうなってしまったらあとはもう呼んでも叩いてもいっこうに目覚めない。 まあジェムは崖から転落し意識を失っていた短い間を抜かせば昨夜は一睡もしていないことになる。ほっとしたというのもあるだろうが、なにより病み上がりの、しかも負傷した身体を酷使して来たのだ。よくぞここまで持ったと言ってあげてもいいだろう。 「まあ、お楽しみは最後までとっといた方が嬉しさも倍増だしね」 と、あまり的に嵌ってない意見を述べたのはシエロである。
話し始めたジェムはうつむきぽつりとつぶやいた。 「もしかしたらこれは途方もなく単純で、恐ろしくありきたりな話なのかもしれません。ただひとつ言えることは、これは酷く危険な話だということ。ぼくはぼくが語ることでみんなを危険にさらすこと、それだけが何よりも怖いんです…」
すねた口調でバッツが野次を飛ばす。それを視線のひとつでたしなめながらも淡々とゼーヴルムも話の続きを促した。 「ジェム・リヴィングストーン、我らが貴様の話を聞くことは我々が自ら望んで決めたことだ。例え何が起ころうと貴様が気に病むことではない」 ジェムは小さくうなずく。 「ではまずは…、これを見てください」 ジェムは自らの上着のボタンをはずした。肌着も脱ぎ捨て、裸体を晒す。
その原因は、少年の身体に走る痛ましい傷跡。 もちろん崖から落ちた際に負った怪我もたくさんある。見るだけで痛そうな打ち身や擦過傷も生々しく残っている。 「それは…、刀傷か?」 現役の軍人としてそれなりの人生経験は積んでいるはずのゼーヴルムが信じ難いと言わんばかりの表情で呟いた。 「ああ、なるほどね」 壁に寄りかかったシエロがわずかに顔をしかめ顎をさすった。 「ベルさんが何でここまでジェムにこだわるのかと思ったら、あなたはこの傷のことを知ってたんだね」 部屋のあちこちから視線が集まり、部屋の中で唯一驚かなかった彼はため息ひとつでそれを肯定した。 「そうだ。彼の容態を診たときに気がついた。こんなものを見たら、もう大人としてはほっとくわけには行かないだろう」 本当なら、もっとさりげなく事情を聞きたかったんだがな。とスティグマは今更ながらにため息を漏らした。 「ジェム…、その傷はいったい何なんだ?」 バッツが遠慮がちに問いかける。 「これは戒めです」 ジェムはそっと身体に残る傷跡に触れた。 否。忘れることはけしてできなかった。 「これは戒めであり、罰であり、証…。これはぼくがけして許されることがない罪人であることの証明なんです」 スティグマがかすかに顔色を変えたがジェムはそれに気付かない。 「ジェム」 少年ははっとして顔を上げた。 「俺たちはジェムの事情を聞くことに依存はない。だけどジェムのほうはいいのかい? ジェムは自分のことを語ってしまって本当にかまわないのかい?」 暗に無理して話す必要はない、そう言われジェムは首を振った。 「大丈夫です。もう決心はついています」 ジェムは掛けられた上着の前身ごろをぎゅっと握った。すでに震えは止まっている。 「どうか聞いてください。なぜぼくがこの傷を負ったのか。そして、ぼくがいったい誰なのか―――、」 その、長い長い話を…。 彼が暮らしていたのは片田舎の屋敷。少年には父も母もおらず、その代わりのように大勢の使用人や召使たちに囲まれて暮らしていた。
ただ、その老人はけして自分のことを「祖父」とは呼ばせなかった。だから彼はその老人を他の使用人同様に「お方様」、とそう呼んでいた。そのことに不満はなかった。 傍から見ればそれは奇妙な生活だっただろう。しかし少年は特に不自由なく過ごしていった。家族がいなくとも、同じ年頃の友人がいなくとも、すねることも捻くれることなく健やかに、すくすくと成長していった。 しかしこのまま永遠と続くだろうと思われた単調で穏やかな日々に、ある日突然、終焉が訪れた。
もちろん、それは当然着の身着のまま放り出されたということではない。
そのこと自体はさして珍しくもなんともない。貴族の子弟などにとってはごく当たり前の習慣であると言ってもいいだろう。 しかし少年はひどく悲しんだ。慣れ親しんだ使用人とも稀に訪ねて来てくれたあの唯一の家族であろう老人とも、もはや会うことはできなくなったからだ。 けれど、ただひたすらに悲しみに暮れ塞ぎ込んでいた少年は、ある時ふいにひとつの考えにいたった。
そんな淡い期待を胸に灯した時、少年は今までの分を取り返すように必死の努力を始めた。 |