第三章 2、「罠はひそかに」(1)

 


誰かの嗚咽が聞こえてくる。
悲痛な嘆きはゆっくりと、世界の隅々へ満ちていく。

 ――この身に魂が宿ることがなければ良かった
あるいは一切の感情を持たず
いっそ、生まれてこなければ良かったのかも知れない

そうすればこんな恐ろしいことは
きっと起きやしなかった




「――いっ、おいっジェム。目を覚ませよっ」

 ジェムははっとして目を開けた。

「えっ、あれ……。ここ、どこ?」
「お前なぁ、寝ぼけてんじゃねぇよ」

 バッツが呆れたようにため息をついた。

「もしかして、自分が誰だかも忘れたか」
「あらあら、よっぽど疲れていたのかしらねぇ」

 揶揄するような声に続けて、かんらかんらと向かいに座っていた見知らぬおばさんまでが笑う。
 体が地面の起伏に合わせてがたがたと揺れている。ジェムは目をこすり首を振った。寝ぼけていたのは本当だが、記憶喪失になったわけではけしてない。

 そこは乗合馬車の中だった。
 東の神殿の街、ヴィリディスから駅馬車に乗り、彼らは神殿から南にあるカルム湖を目指していた。馬車は森と草原を交互に通り、今はまばらに木が生える広い草地を走っていた。

「なんだかうなされてるみたいだから起こしてやったのに、どうやら余計なお世話だったみたいだな」

 あーあ、とバッツがそっぽを向く。

「うなされ……?」
「いい夢見てんの邪魔して悪かったな」

 ジェムが不思議そうに首をかしげた。

「ぼく、どんな夢を見てたんでしょう」
「……。おれが知るかよ」

 バッツは苛立たしげに鼻面を寄せた。

「あんたたち仲が良いわねぇ」

 どこをどう見て判断したのかは定かではないが、おばさんは穏やかに目元を和ませた。

「これからカルム湖に向かうんでしょう。観光かい?」
「そんなところです」

 すかさずバッツの隣に座っていたシエロがにっこり笑ってうなずいた。そのさらに隣ではゼーヴルムが腕を組み目を瞑っている。
 一見眠っているのかと思いきや、時々薄目を開けて外の様子を確認しているのでこれがなかなか油断ならない。

「カルム湖はアウストリ大陸でも有数の観光名所って聞いたから。すごい良い所なんでしょ」
「有数ったって、あんなんただ大きいだけだわよぉ」

 地元民らしくおばさんはあけっぴろげにそう言うが、それでもその様子はどこか誇らしげだ。

 カルム湖は世界でもっとも大きな湖と言われている。
 その周囲を歩いて回ろうとしたらひと月やそこらでは到底きかない。またその青い水面も美しく澄み渡り、何とも風情のあるその景観にここ近年観光客が跡を絶たない。

 ――と、ガイドブックには書いてあった。

 もちろんそれは昨日の昼間におかしな少年から貰った旅行案内本のことだ。
 受け取った当初は結構途方にくれたものだが意外なところで役に立ったものである。もちろんあれだけの本を持って歩くわけにも行かないので、一冊を残して全部宿に置いて来てしまったのだが。

「あとカルム湖には昔の樹神殿の遺跡があるんですよね」

 ジェムは続いてそう尋ねた。
 食堂の青年はそう言っていたのだが、どういうわけかどのガイドブックを見ても神殿跡の事はひとつも書いていない。

「へえ、よく知っているねぇ。だけどねぇ、あそこは行っても何も見られないよ」
「えっ、そうなんですか!」

 ジェムは目を丸くした。おばさんはしたり顔でうなずく。

「あそこの神殿跡は地元では聖地として祀られていてねぇ、よそ者は当然のことながら地元民でさえ滅多なことでは近寄らせてもらえないのよ」

 ジェムはがっくりと肩を落とした。楽しみにしていたぶん、ことのほか残念だ。

「まあまあ、別にいいじゃないか。カルム湖だけだって十分楽しいよ」  

シエロが大仰に肩をすくめてみせる。ジェムも素直にうなずいた。

「だけど、東の大陸って森がほとんどを占めるって聞いていたんですけど、草原もあるんですね」

 馬車の小窓から外を眺めたジェムが感慨深くつぶやいた。 もちろんちょっと目を凝らせば周囲には森の緑が見えるし、遠くの山々は木立に彩られている。しかし先ほどから、木々の少ない草原地帯を進むことが存外多いように感じられる。

「ここはねぇ、休閑地なのよ」
「休閑地?」

 おばさんはうなずいた。

「さっき畑を通っただろう。かつてはここも森の一部だったんだけどねぇ、切り開いて畑にしたのよ。だけど穀物作ってばかりだと大地の精霊も疲れちまうから、何年か畑をやった後は数年休ませる決まりなんだよ」
「へぇ、そうなんですか」
「ここいらは地面が平たいし、湖もそばにあって水に困らないからねぇ。畑を作るには最適なんだよ」

 実際、アウストリ大陸は世界でも最大規模の穀倉地帯を持ち、全世界で供されている穀物のおよそ五割がこの大陸原産である。

「じゃあ、この草原もあと何年かしたら全部畑になるんですね」

 ジェムは再びまじまじと馬車から外の景色を眺めた。
 かつて森だったものが金の稲穂の海に変わり、そして今は緑の平原だ。これほど短期間にすっかり姿を変えてしまう土地も珍しいだろう。
 そう考えると何とも言えない思いが胸に広がり、ジェムはなんだか憧れにも近い気持ちでもってその景色を見つめた。
 微笑ましいその仕種におばさんは笑って付け加える。

「そんなに森が見たいなら、あと少しでまた緑地に入るわよ。森を抜けてしばらく走ったらようやくお待ちかねのカルム湖さ」

 ジェムはその言葉でさらに身を乗り出したが、そんな浮かれたつ気持ちを遮るように酷く冷たい声が聞こえた。

「だが、のんびりと到着を待っている場合ではなさそうだぞ」

 ジェムははっとして振り返る。
 そう言い放ちおもむろに立ち上がったのは、これまで目を伏せ身動き一つしなかったゼーヴルムだ。その険しい眼差しに、ジェムの鼓動は高鳴った。

「まさか……」
「そう、そのまさかだ」

 重々しく答えるその声にかぶさるように乗客の悲鳴が聞こえた。

「おいっ、あれを見ろ!」

 人々は競うように窓から身を乗り出し、そして息を呑む。
 今はまだ遠く、しかし確かに彼らを追い詰めようとする狼の群れが馬車に迫っていた。

「ちっ、こんなところまで追ってきやがったのかよ」

 バッツが腹立たしげに唸る。
 これは明らかに自分たちを狙ってきたに違いない。

 馬車の中はたちまち阿鼻叫喚の騒ぎになった。迫り来る獣の恐怖に泣き叫び、口汚く御者を急かす。和やかだった馬車旅は、いまや混乱の坩堝と化していた。

「馬車を降りるぞ。狼が私たちを狙っている間に、馬車を町へ逃がそう」

 ゼーヴルムが落ち着いた口調で提案する。残りの巡礼者も反対はしなかった。

「ちょっと、あんたたちやめときなさいっ。あんたたちが犠牲になっても誰もよろこびゃしないよっ」

 青ざめた顔のおばさんが馬車を降りようとするジェムの袖を掴む。懸命に止めようとしてくれるおばさんの気持ちは嬉しくも、巻き込んでしまったことがなんとも申し訳なくて、ジェムはその手をそっと両手で包んだ。

「ごめんなさい。あの狼はぼくたちが目的なんです。ぼくたちが降りればもうきっと追ってこないから……」

 優しく手を振りほどくとジェムは荷物を抱えた。

「カルム湖でまた会いましょう。心配してくださって、ありがとうございました」




 ジェムたちが降りると馬車はすごい勢いで走り去った。
 組んだ手を後頭部に当て、シエロはあ〜あとため息をつく。

 青々とした草が風になびいて揺れている。
 何とものどかな景色だが、程なくすれば獣の荒い足取りと息遣いが彼らを取り囲むだろう。

「まったくしつこいやつらだな。いや、むしろ無粋というべきか?こんなに頻繁にやってこられちゃ、おちおち遊山に洒落込む訳にもいかないじゃないか」
「つうか乗合馬車が使えないのが何より痛いよな」

 バッツがこきこきと手首を回す。

「……お前たちには緊張感が足りん」

 ゼーヴルムが呆れたように息を吐いた。

「そんな様子では怪我をするぞ。もう少し気を引き締めろ」
「だってこの展開、もう飽きちゃったんだもん。これでいったい何度目さ」
「言い訳無用だ。来るぞ」

 すらりとゼーヴルムが剣を引き抜いた。
 シャンッ、と鞘鳴りの音が風に乗る。

 そんな様子をはるか後方から見ていたジェムは、無意識のうちに両手を胸の前で組んでいた。
 争いごとにはとんと不得手な自分は、このような事態においてはただ祈ることしかできない

 彼らが強いことはちゃんと知っている。
 だけど祈りの文句はそれでも胸をついて出るのだ。

 ――どうか彼らが今回も無事であるように、
    怪我一つ負わず、身を損なうこともないように
    どうかどうか……

 狼の遠吠えが草原を走る。
 捧げた祈りが神へと届いたか否か定かではないうちに、戦火は幕を切って開いた。