――泣かないで。 .
「――我が君よ……」 目を開けた時に気付いたのは、そこに彼がいないという事だった。 「あっ、起きたみたいだぞ」 甲高い、子供の声が耳に突き刺さる。ゼーヴルムは頭を押さえ身を起こした。 「……ここは?」 多少頭が重い気もするが、それでも思考は明確だ。
「今、誰か泣いていなかったか……?」
顔を上げるとゼーヴルムは気遣うように自分を見下ろす金髪の青年を視界に収めた。その傍にはバッツもいる。
「大丈夫のようだな」 自分は敵の放った毒蛇にやられ倒れた。
「あーっ、まだ起きちゃ駄目でしょうが!」 事の次第を確かめようと身を起こした時、耳慣れぬ甲高い声が鼓膜を貫いた。
「おまえは……」
先日別れたばかりのシルヴェストル(森の民)の少女は不服気に唇を尖らす。 「いや、忘れていたわけではないのだが……」 呆然とするゼーヴルムの耳をけらけらと陽気な笑い声が打った。 「はは、ビックリした? 俺らもまさかこんなところで会うとは思ってもみなかったよ」
「たぶんこっちだったはず……」 ジェムたちは森の中をさ迷い歩いていた。
「とりあえず、即効性の毒じゃないのが救いだよな」 それが不幸中の幸いだ、とシエロは息を吐く。
ジェムは顔色を失ったゼーヴルムを心配そうにうかがう。 「大丈夫だよ。地面に踏み固められた跡があるから、まったくの見当違いの場所にいるわけじゃない」 セルバが励ますように微笑んだ。その時、 タンッ タタンッ 彼らの足元に突然矢が突き刺さった。彼らはぎょっとして足を止める。 「待ちなさいっ。そこから先は立ち入り禁止よ」 幼いが凛とした声が降ってくる。
「フィオリさんっ」
樹上に勇ましく立っていた彼女は不思議そうに首をかしげた。 それはこっちの台詞だと思ったが、今はそんな場合ではない。ジェムにはこれはもはや天の助けだとしか思えなかった。
「お願いですっ。スティグマさんを呼んでください。ゼーヴルムさんが大変なんです!」 彼女のいるところには当然、あの人の良い医者もいるはずだから。
「ホントもう、いったい何事かと思ったわよ」 その時のジェムの必死な様子を思い出したらしくフィオリは肩をすくめた。 「この村はあたしの生れた村に一番近くてね。スティグマの知り合いもいたからたまたまお世話になっていたの」 そして置いて貰う代わりに森の番を買って出ていたわけだ。 「では私を診てくれたのはベルクライエン医師ということだな」 まったくジェムから自分から、彼には世話になり通しである。ゼーヴルムはばつが悪そうにため息を吐いた。 「いや、君の治療を請け負ったのはわたしではないよ」
フィオリは嬉しそうにぱっと顔を上げる。 「ちょうどこの村にはわたしよりもずっと適任の方がいてね」 苦笑しながら部屋に入ってきたのは当の話題の主だった。
「君はもう身を起こせるのかい。いやはや若いというのは素晴らしいことだね」
わざとらしく身を縮めるスティグマは巡礼者たちに目を向けた。 「それよりババさまが一度君たちと話したいといっていたよ。ゼーヴルム君も起きたのなら丁度いい。こちらに来てもらおうか」
ゼーヴルムは首を振った。
ゼーヴルムは立ち上がろうと身をひねり、ふと首をかしげた。 「そう言えば、ジェムはいったいどこにいるんだ」 フィオリとバッツが顔を見合わせる。 「ああ、ジェムね。彼なら……」 シエロは意味深な表情を浮かべて肩をすくめた。
うららかな日の差し込む明るい中庭に、ずっと泣き声が聞こえている。 「ううっ、ぼくのせいでっ、――ひっく」
セルバが困ったように眉をひそめる。しゃくり上げるたびに震えるその背を細い指が優しくさすった。 「泣きやんで。オババさまだって言ってたでしょう。ゼーヴルムさんはもう大丈夫だって」
ジェムはいやいやをするように首を振った。 こんどのことは全部自分のせいだ。
めそめそと泣き続けるジェムをどうやって慰めるか思案に暮れていたセルバは、下草を踏みしめるかすかな音にはっとして振り返った。 「ゼーヴルムさんっ」 びくり、とジェムの肩が揺れた。 「もう身体の具合は平気なの?」
苦笑するような返事が返ってくる。平然とした声には力強さが感じられた。本人の言うとおり具合はもう大丈夫なのだろう。 足音がさらに近付く。
「ジェム」 静かな声。 「ジェム、こっちを見るんだ」 ジェムは振り向けなかった。
「今回のことは、すまなかったな」 はっきりとした謝罪の言葉。
「私の力が足りないばかりに迷惑をかけた」
謝るなら自分の方だ。ジェムは慌ててそう言うが、しかしゼーヴルムは言葉を翻さなかった。 「おまえが謝る必要は無い。おまえの提案を問題ないと判断したから私は戦ったんだ。あとは私の能力の問題だ」
ジェムはしゅんと肩を落とす。
「まあ、それは否定できないな」 あの時のことを思い返したらしく、ゼーヴルムは重々しくうなずく。
「おまえはもっと自分の身を大事にしなくてはいけないぞ。それから自分の作戦をいい加減に扱うのもいただけない。臨機応変と言うのも大事だが、一度決めたことは最後まできちんとやり通さなければ」 しかし彼は眼差しを緩めるとすかさず続けた。 「だが果たして何が起こるかわからないのが戦いの常だ。私はそのことを充分承知していた」 だから一人で責任を負うことはない、とゼーヴルムは言った。 「それにそこまで言うのならば、作戦に実行許可を出した私の自信過剰もまた問題だろう」 彼は疲れたようにため息を吐く。 「私はまったく成長していないな。今も昔も、自分の力を過信して失態を犯す」
ゼーヴルムはジェムの頭に優しく手を置いた。 「もしおまえが後悔をしているなら、反省を活かし次はより良い作戦を考えてくれ。私も、次までにどんな作戦でも安心して任せられるような強い人間になっておくと約束する」
ジェムはずずっと鼻をすすると力強くうなずく。 「ジェム、セルバにも謝らせてっ」 セルバが飛びつくようにしてジェムの右腕を抱えた。 「あの時ちゃんと護れなくってごめんね」
有無を言わさぬ勢いでジェムに縋りつく。
「ちょっとっ、あなたたちいったいいつまでかかってるの。みんな待ちくたびれているわよ」
フィオリが眉を逆立てながら近寄ってくる。ゼーヴルムがむっと眉をひそめた。 「……しまった」
どうやらすっかり忘れていたらしく、しくじったという顔で眉間に皺を寄せるゼーヴルムを見てジェムは思わず吹き出した。 「それは大変です。急いでいきましょう」 そして涙の跡を袖で擦り、室内に入ろうとしたジェムだったが、セルバが動こうとしないことに不思議そうに首をかしげた。 「あの、どうかしましたか?」
フィオリも心配そうに近寄ってきたが、彼女の手がセルバに触れるか触れないかと言うところで、彼は弾かれたように身を引いた。 「あ、ううん。寝てれば治ると、思うから……」 そしてそそくさとその場を離れる。 「何、あの態度」 あまりのよそよそしさにフィオリがむっと顔をしかめた。 「やっぱり具合が悪いんでしょうか? あとで様子を見ましょう」
彼らはセルバの去った後を気遣わしげに窺いながらもその場を後にした。
部屋に戻ったセルバは、扉を閉めた途端崩れ落ちるようにその場に膝を着いた。
発作がどうにか治まると、セルバは荒く乱れる呼吸を堪えながらゆっくりと身を起こした。 「――もう、僕にはあまり時間がない……」 視線を落とした手のひらにはべっとりと血が付着している。
すがすがしい森の色を宿す翠の右目とは似ても似つかないその左目は、毒々しい真紅であった。
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