第三章 5、緑の守護者(1)

 



 ――泣かないで。  .
 どうか泣かないでください。
 
 貴方は私の唯一の主。
 
 貴方が戦いに臨む時は刃となって敵を切り裂き、
 貴方を傷つける者あらばこの身を挺してそれを防ぐ。
 
 私は貴方の一振りの剣であり不屈の盾。
 貴方に絶対の忠誠を誓った者。
 
 だからどうか、


 


 
 


 

「――我が君よ……」

 目を開けた時に気付いたのは、そこに彼がいないという事だった。

「あっ、起きたみたいだぞ」

 甲高い、子供の声が耳に突き刺さる。ゼーヴルムは頭を押さえ身を起こした。

「……ここは?」

 多少頭が重い気もするが、それでも思考は明確だ。
 ここに彼がいないのは当然の事だとすぐに思いなおした。ただふと首を傾げて彼はつぶやく。

「今、誰か泣いていなかったか……?」
「世界は広いからね。まあ、どこかしらで誰かが泣いているだろうけど。それより体調はどう? 痺れてたりする所は無い?」
「シエロか」

 顔を上げるとゼーヴルムは気遣うように自分を見下ろす金髪の青年を視界に収めた。その傍にはバッツもいる。
 彼は要領よく腕や足を動かし、自らに損傷箇所の無い事を確かめた。
 最後に指を伸ばしたり曲げたりしてうなずく。

「大丈夫のようだな」

 自分は敵の放った毒蛇にやられ倒れた。
 敵が去って行った所までは確かだがその後の事についてはまったく覚えていない。
 自分で歩いた記憶が無いからたぶんここまで運んで貰ったのだろう。
 周囲に手間をかけさせてしまった事を彼は申し訳なく思った。

「あーっ、まだ起きちゃ駄目でしょうが!」

 事の次第を確かめようと身を起こした時、耳慣れぬ甲高い声が鼓膜を貫いた。
 ゼーヴルムはぎょっとして振り返る。
 身近には無い高音域の声。だがその声には確かに聞き覚えがあった。

「おまえは……」
「フィオリトゥーラ。名前覚えてない? あたしそんなに印象薄かったかしら」

 先日別れたばかりのシルヴェストル(森の民)の少女は不服気に唇を尖らす。

「いや、忘れていたわけではないのだが……」

 呆然とするゼーヴルムの耳をけらけらと陽気な笑い声が打った。

「はは、ビックリした? 俺らもまさかこんなところで会うとは思ってもみなかったよ」


 


 

「たぶんこっちだったはず……」

 ジェムたちは森の中をさ迷い歩いていた。
 頼りになるのは村を見たシエロとバッツの記憶だけだ。

「とりあえず、即効性の毒じゃないのが救いだよな」

 それが不幸中の幸いだ、とシエロは息を吐く。
 ズーオは毒に倒れたゼーヴルムに三日三晩苦しめと言った。と言うことは数時間でどうこうなるものではないのだろう。
 だがそれでも予断を許さないのは確かだ。

 ジェムは顔色を失ったゼーヴルムを心配そうにうかがう。

「大丈夫だよ。地面に踏み固められた跡があるから、まったくの見当違いの場所にいるわけじゃない」

 セルバが励ますように微笑んだ。その時、

  タンッ タタンッ

 彼らの足元に突然矢が突き刺さった。彼らはぎょっとして足を止める。

「待ちなさいっ。そこから先は立ち入り禁止よ」

 幼いが凛とした声が降ってくる。
 聞き覚えのあるその可愛らしい声にジェムははっと顔を上げた。

「フィオリさんっ」
「ジェム!? あら、あなたたちどうしてこんな所にいるの?」

 樹上に勇ましく立っていた彼女は不思議そうに首をかしげた。

 それはこっちの台詞だと思ったが、今はそんな場合ではない。ジェムにはこれはもはや天の助けだとしか思えなかった。
 少年はすがりつくかの勢いで少女に呼びかけた。

「お願いですっ。スティグマさんを呼んでください。ゼーヴルムさんが大変なんです!」

 彼女のいるところには当然、あの人の良い医者もいるはずだから。


 


 

「ホントもう、いったい何事かと思ったわよ」

 その時のジェムの必死な様子を思い出したらしくフィオリは肩をすくめた。

「この村はあたしの生れた村に一番近くてね。スティグマの知り合いもいたからたまたまお世話になっていたの」

 そして置いて貰う代わりに森の番を買って出ていたわけだ。

「では私を診てくれたのはベルクライエン医師ということだな」

 まったくジェムから自分から、彼には世話になり通しである。ゼーヴルムはばつが悪そうにため息を吐いた。

「いや、君の治療を請け負ったのはわたしではないよ」
「スティグマっ」

 フィオリは嬉しそうにぱっと顔を上げる。

「ちょうどこの村にはわたしよりもずっと適任の方がいてね」

 苦笑しながら部屋に入ってきたのは当の話題の主だった。
 スティグマはもはや平常と変わらぬ様子のゼーヴルムを見てかすかに眉を上げる。

「君はもう身を起こせるのかい。いやはや若いというのは素晴らしいことだね」
「スティグマだって充分若いでしょうが」
「まさか。もう君たちには敵わないよ」

 わざとらしく身を縮めるスティグマは巡礼者たちに目を向けた。

「それよりババさまが一度君たちと話したいといっていたよ。ゼーヴルム君も起きたのなら丁度いい。こちらに来てもらおうか」
「いいや。それには及ばない。自分が赴こう」

 ゼーヴルムは首を振った。
 体調はどこも悪くない。治療者の腕がよほど良かったのだろう。
 少々身体がだるいが一度死に掛けたにしては良好な部類だ。

 ゼーヴルムは立ち上がろうと身をひねり、ふと首をかしげた。

「そう言えば、ジェムはいったいどこにいるんだ」

 フィオリとバッツが顔を見合わせる。

「ああ、ジェムね。彼なら……」

 シエロは意味深な表情を浮かべて肩をすくめた。


 


 

 うららかな日の差し込む明るい中庭に、ずっと泣き声が聞こえている。

「ううっ、ぼくのせいでっ、――ひっく」
「そんなに泣くと目玉が溶けちゃうよ」

 セルバが困ったように眉をひそめる。しゃくり上げるたびに震えるその背を細い指が優しくさすった。

「泣きやんで。オババさまだって言ってたでしょう。ゼーヴルムさんはもう大丈夫だって」
「ひっく、はい。で、でも――、」

 ジェムはいやいやをするように首を振った。

 こんどのことは全部自分のせいだ。
 ジェムはそう考えていた。
 自分が無茶な作戦を考えたせいでゼーヴルムは大怪我を負ってしまった。
 今回は偶然助かったが、あのまま命を失っても何もおかしくはなかった。
 自分の短慮が皆を危険に晒してしまったのだ。

 めそめそと泣き続けるジェムをどうやって慰めるか思案に暮れていたセルバは、下草を踏みしめるかすかな音にはっとして振り返った。

「ゼーヴルムさんっ」

 びくり、とジェムの肩が揺れた。

「もう身体の具合は平気なの?」
「丈夫なだけが取り柄だからな」

 苦笑するような返事が返ってくる。平然とした声には力強さが感じられた。本人の言うとおり具合はもう大丈夫なのだろう。

 足音がさらに近付く。
 ジェムは背後に気配を強く感じた。

「ジェム」

 静かな声。

「ジェム、こっちを見るんだ」

 ジェムは振り向けなかった。
 ゼーヴルムは激昂している訳ではなかったし、淡々とした声にも冷たさは感じられない。
 だけどジェムはゼーヴルムの顔を見ることができなかった。
 彼が悪いわけではない。ジェムの方に合わせる顔が無かったのである。

「今回のことは、すまなかったな」

 はっきりとした謝罪の言葉。
 思ってもみない言葉を掛けられて、ジェムはぎょっとして振り返った。
 ゼーヴルムは申し訳なさそうに視線を下げている。

「私の力が足りないばかりに迷惑をかけた」
「そんなっ、むしろぼくのせいでゼーヴルムさんを大変な目に」

 謝るなら自分の方だ。ジェムは慌ててそう言うが、しかしゼーヴルムは言葉を翻さなかった。

「おまえが謝る必要は無い。おまえの提案を問題ないと判断したから私は戦ったんだ。あとは私の能力の問題だ」
「でも、あの時ぼくが考えなしに前に出なければ……」

 ジェムはしゅんと肩を落とす。
 最初の作戦では自分とセルバは洞穴の奥に隠れているはずだった。もし外を気にして出てきたりしなければ、自分たちが狙われることはなかった。
 そうすればゼーヴルムが怪我をすることもなかっただろう。

「まあ、それは否定できないな」

 あの時のことを思い返したらしく、ゼーヴルムは重々しくうなずく。
 そして顔を上げると大真面目にジェムを諭しつけた。

「おまえはもっと自分の身を大事にしなくてはいけないぞ。それから自分の作戦をいい加減に扱うのもいただけない。臨機応変と言うのも大事だが、一度決めたことは最後まできちんとやり通さなければ」

 しかし彼は眼差しを緩めるとすかさず続けた。

「だが果たして何が起こるかわからないのが戦いの常だ。私はそのことを充分承知していた」

 だから一人で責任を負うことはない、とゼーヴルムは言った。

「それにそこまで言うのならば、作戦に実行許可を出した私の自信過剰もまた問題だろう」

 彼は疲れたようにため息を吐く。

「私はまったく成長していないな。今も昔も、自分の力を過信して失態を犯す」
「で、でもゼーヴルムさんはすごい頑張ってくれましたよ!」
「ああ。そしておまえも頑張った」

 ゼーヴルムはジェムの頭に優しく手を置いた。

「もしおまえが後悔をしているなら、反省を活かし次はより良い作戦を考えてくれ。私も、次までにどんな作戦でも安心して任せられるような強い人間になっておくと約束する」
「……ゼーヴルムさん」

 ジェムはずずっと鼻をすすると力強くうなずく。

「ジェム、セルバにも謝らせてっ」

 セルバが飛びつくようにしてジェムの右腕を抱えた。

「あの時ちゃんと護れなくってごめんね」
「セルバさん……?」
「次はちゃんと、護るからっ」

 有無を言わさぬ勢いでジェムに縋りつく。
 その激しいほどに真摯な眼差しに、ジェムはきょとんとしながらもうなずくしかなかった。


 

「ちょっとっ、あなたたちいったいいつまでかかってるの。みんな待ちくたびれているわよ」
「あれ、フィオリさん?」

 フィオリが眉を逆立てながら近寄ってくる。ゼーヴルムがむっと眉をひそめた。

「……しまった」
「え?」
「私を治療してくれたという人が話があると呼んでいた。私はそれを伝えに来たのだったな……」

 どうやらすっかり忘れていたらしく、しくじったという顔で眉間に皺を寄せるゼーヴルムを見てジェムは思わず吹き出した。

「それは大変です。急いでいきましょう」

 そして涙の跡を袖で擦り、室内に入ろうとしたジェムだったが、セルバが動こうとしないことに不思議そうに首をかしげた。

「あの、どうかしましたか?」
「ごめんね、セルバちょっと疲れちゃったみたい。部屋に戻って休んでいるね」
「じゃあスティグマ呼んで来ましょうか」

 フィオリも心配そうに近寄ってきたが、彼女の手がセルバに触れるか触れないかと言うところで、彼は弾かれたように身を引いた。

「あ、ううん。寝てれば治ると、思うから……」

 そしてそそくさとその場を離れる。

「何、あの態度」

 あまりのよそよそしさにフィオリがむっと顔をしかめた。

「やっぱり具合が悪いんでしょうか? あとで様子を見ましょう」
「あんがいあたしの美貌に照れてるだけかもしれないしね」

 彼らはセルバの去った後を気遣わしげに窺いながらもその場を後にした。


 


 


 

 部屋に戻ったセルバは、扉を閉めた途端崩れ落ちるようにその場に膝を着いた。
 口元を手で覆いうずくまる。背を丸めて苦しげに咳を繰り返すと弾みで眼帯が床に落ちた。
 びくんびくんと身体が痙攣するように跳ね上がる。

 発作がどうにか治まると、セルバは荒く乱れる呼吸を堪えながらゆっくりと身を起こした。

「――もう、僕にはあまり時間がない……」

 視線を落とした手のひらにはべっとりと血が付着している。
 覆いが外れた左目が外気に触れるが、セルバはもはや眼帯には目もくれなかった。付け直す時間さえ惜しいと言わんばかりに。

 すがすがしい森の色を宿す翠の右目とは似ても似つかないその左目は、毒々しい真紅であった。