第三章 プロローグ「鳥の歌」(1)

 


――誰よりも大切な君    .
誰よりも愛おしい君

この手で守ってあげれなくてごめんね
君を連れて逃げられなくてごめんね
だけどどうか君だけは生き延びて
どうか君だけは幸せになって

たとえすべてを失っても
たとえぼくがいなくなっても


この命と引き換えにしても
  ぼくはそれだけを願い続けるよ
――








      チュピピピ――、

 小さな鳥がこずえを揺らして飛び立った。
 それは、なんと言うこともないありふれた風景。
 いく百いく千の朝に何度も繰り返されてきた光景だ。

 しかしその景色をじっと見つめている少年がいた。

 木の葉を散すこずえに向けられるその瞳。だがその視線は枝葉ではなく、もっと遠い底知れぬ何かを見ているようでもあった。

 まだ十にも満たない幼い少年だ。
 顔立ちにもあどけなさがうかがえる。  しかしその面立ちに不釣合いなほど、少年の目は堅く、そして険しさをまとっていた。

 少年は固く引き結んだ唇を開きかけたが、そこから漏れる吐息が言葉になる前に愛らしい甲高い声が彼の耳を打った。

「おにいちゃんっ」

 ぱたぱたと足音も聞こえる。
 少年はその声に振り返るとにっこりと微笑みを浮かべた。同時に目元も緩み、険しい眼差しは跡形もなく消えうせた。

「どうしたの?」

 少年は膝を折って中腰になると首をかしげた。そうしないと視線が合わないからだ。

 少年の元に駆けてきたのは、彼よりもさらに幼い四、五歳の少女だった。
 いったいどこから走ってきたのだろうか。頬を真っ赤にしぜいぜいと息を切らしているものの、その目は星のようにきらきら輝いていた。

「あのね、あのね。おじちゃんがよんでたよ。すぐに来てっていってたよっ」
「そう……」

 しかし伝えられた言葉の内容に反して、少年は立ち上がると再び視線を森のこずえに向けた。まるで耳を澄ませているかのようにぴくりと動かない。

 ざわりと風が樹々を揺らした。
 まるで森に魂を吸い取られたかのように瞬き一つしない。

「おにいちゃん……?」

 少女は遠慮がちに声を掛けたが、すぐにそれは必死の呼びかけになった。

「おにいちゃんっ、おにいちゃんっ!」

 ――森には怖い妖精がいて、悪い子は連れて行かれて森の一部にされてしまうよ……

 母から、そして村の老人たちから聞かされた話が甦る。
 少女は少年の服のすそを掴みぐいぐいと引っ張った。生地が伸びてしまうのもお構いなしだ。
 このまま少年が森に向かって歩いていってしまうのではないか。そう思うと恐怖でぎゅっと胸が縮む気がした。

 だが少年は、ふと少女の様子に気付くと首を傾げて苦笑した。少女は今にも泣き出しそうに顔をくしゃくしゃにして少年を見上げている。

「どうしたの?」
「あのねっ、あのねっ、森にはこわい妖精さんがいるよ。つれていかれちゃうんだよっ」

 まるで諭しつけるかのように必死な様子で少年に言う。
 少年は子供をしつけるために語られる他愛もないおとぎ話を思い出してくすっと笑った。そして少女の頭を優しく撫ぜる。

「だいじょうぶだよ。ぼくには森の精霊がついているから。怖い妖精に連れて行かれたりなんてしないよ」

 その言葉に少女はほっとしたように笑みを浮かべ、少年と同じように森を見る。

「ねえねえ、いまも精霊さんいるの?」

 さっきまでは怯えの一色だったその目は、今はもう好奇心に溢れている。
 その現金な態度に少年は苦笑しながらもうなずいた。

「いるよ。精霊はいつだってぼくたちのことを見守ってくれているんだ」
「じゃあこわい妖精さんにつれていかれてもたすけてくれる?」
「さあ? 精霊も悪い子は好きじゃないって言ってたからなぁ」

 わざと意地の悪いことを言ってみる。
 怯えた様子を見せる少女に思わず笑みを漏らしながら少年は言った。

「だいじょうぶ。君だけは助けてくれるように精霊にたのんでおいてあげるから」
「ほんとう?」
「本当に」

 少年は力強く請け負うと少女の手をきゅっと握った。

「君だけは絶対に助けてあげるから」

 ふいに強くなる語調に少女は不思議そうな顔をするが、少年はすぐにまた柔らかい笑みを浮かべて少女に言った。

「精霊がね、今日は一日中とてもいい天気だって言ってたよ。だから今日はピクニックに行こう」

 少女はその提案にぱっと顔を輝かせるが、すぐに顔をしかめてうつむいた。

「でもきょうは母さんのおてつだいが……」
「おばさんにはぼくから言っておいてあげるよ。場所は……、そうだな。この前行った原っぱがいいかもしれない。ちょっと遠いけど一人で行けるよね」
「おにいちゃんは……?」

 少女が不思議そうな顔をする。

「ぼくは一度お父さんの所に行かなきゃ。でもすぐにお弁当を持って君のところに行くよ。そしたら一緒にお弁当を食べよう」

 少女はいきおい良く首を縦に振った。

「たまごやきたべたいっ。あまいのがいいっ」
「いいよ。卵焼きも入れてきてあげる。そのかわりぼくと賭けをしよう」
「かけ?」

 首をかしげる。

「お遊びだよ。原っぱについたら、ぼくが来るまでじっとどこかに隠れているんだ。勝手に出てきたり、村に帰ってきたらだめだよ」
「かくれおに?」

 少女が村ではやっている遊びの名称を口にする。少年はうなずいた。

「そう。かくれおに。ぼくに見つからないようにうまく隠れられたら君の勝ち。甘くて美味しい卵焼きを食べさせてあげるよ。そのかわり約束を破って出てきちゃったら怖い妖精さんに連れて行ってもらっちゃうからね」

 少女は一瞬怯えた顔をしたが、すぐに楽しそうにうなずいた。

「わかった。お兄ちゃんもいそいで来てねっ」
「うん。すぐに行くから。がんばって見つからない隠れ場所を探すんだよ」

 少年は走っていく少女に向かって手を振った。


 
 
 

 ぶわっと森から吹いた風が少年の柔らかい胡桃色の髪を揺らす。
 少年はそのあどけない顔から笑みを消すと、腕を下ろしてつぶやいた。

「ごめんね。うそをついて」

 その後姿が視界から消えるまで見送ると、少年は振り返って一目散に走り出した。
 脳裏に無邪気に微笑む少女の顔を思い浮かべ、少年はぎゅっと唇を噛む。

 一緒に行ければどれだけいいか。
 でもそれは、けしてかなわない願いだ。

「だけど君だけは、君だけは絶対に助けるから」

 はるか遠くで何十羽もの鳥が一気に飛び立つのが見える。その姿は青空に突如浮かぶ黒雲のようだ。

 終わりの時が近づいているのが少年にははっきりと分った。しかしそれが分かっていてなお、少年はけして逃げ出すことを許されていなかった。

「ぼくは、――として村を、この森を守らなきゃいけないから」

 それは十に満たない少年の口から漏れるには、あまりに滑稽で重い響きだ。
 しかし少年の目は痛ましいまでに強い決意を湛えていた。

「……君だけは、絶対に守るから」

 走り続ける少年の口からまるでうわ言のように言葉がこぼれる。

「たとえ、この命に換えても……、トゥーラ――、」



 鳥の歌は、もうどこからも聞こえなかった。