第四章 1、「太陽と月と海」(2)

 


 十二の時に軍人になるべく士官学校へ入ることを決めた。
 
 小さいながら島ひとつ治める領主である父には、自分のほかに子供はいない。
 ギュミル諸島でも、自分たちの島があるダグ島側は軍事国家だ。もちろん徴兵制度が存在しているが、家督を継ぐべき長子は免除される決まりだった。
 
 それでも軍人になると決めたのは、自分が軍に入ることが父の治める島に利益をもたらすと知っていたから。
 だからこれが自分にできる唯一の恩返しだと、周囲の反対を押し切って本島へ向かった。
 
 父は長らく渋っていたが、最後には「好きになさい」と承知してくれた。
 ただしいつでも帰ってきていいと、お前の故郷はここなのだと、そう告げる言葉が何よりもの餞別だと感じた。
 
 それゆえによりいっそう、軍部で力を付けようと、島を護れるだけの地位を得ようと決意を固めた。  


 
 

    ※  ※  ※


 

「……やっぱり読み辛いなぁ」

 シエロが去り再び紙面に視線を落としていたジェムは、幾分としないうちに再び息を漏らしていた。

 気付かずに購入してしまった自分の自業自得とはいえ、それでも異国の言葉で書物を読むのは容易なことではない。
 なまじ自国の文字に精通している分だけ、余計難しいように感じるのだ。

 神話を読む機会が今しかないわけでは無いし、船を下りてから改めて北の大陸の言語で書かれた書籍を購入してもいい。
 だから読むのを止めてしまっても実のところ全然問題はないのだけれど、ジェムは意地になったように本に噛り付いていた。

「えっと、――ふた、『二つに分かたれた獣は』……さら? ああ、『空に上って――姿を変じ』……ええっと……『銀の獣と金の獣になった。やがてそれは、』……それは……?」

 しかししどろもどろの朗読はここでついに途絶えた。
 次の単語がどうにも読めないのだ。

 実のところ冒頭の三章までは、さすがのジェムでも内容を知っていた。だからなんとか読んでいくことができたのだけど、ここ、四章までくるとそれも不可能だ。

 ジェムは見知らぬ文字を前に、不毛な睨めっこをする羽目になったのである。

 頭を掻き毟り、うんうんと唸り声を上げる。本人としてはこれ以上ないぐらい必死な様子ではあるけれど、傍からみると何か悪い病気にでも掛かっているように見えなくもない。
 並の人間ならば敬遠するか、せいぜい見て見ぬ振りを決め込むだろう。しかし――、

「月と太陽」
「へ?」
「その続きは月と太陽だろ」

 ジェムはぎょっとして振り返る。

「それって創世記の四章じゃねぇの。違うのか?」

 ジェムのすぐ傍らに、いつの間にかひとりの青年が立っていたのである。


 

 おそらくは地元の人間に違いない。

 色の白い自分とは違う、良く日に焼けた小麦色の肌。
 シエロよりも若干高い背丈は、それでも大柄な南方人の中では標準的な体格に入るだろう。
 細身だけれどあらわになった青年の胸や腕には逞しい筋肉がついていた。

 年はたぶん二十歳前後。理由は良く分からないものの、なにやら不機嫌そうな顔で憮然とこちらを覗き込んでいる。

「うん、何なんだよ?」

 彼は胡乱そうな眼差しで前髪をかき上げる。
 けれどジェムは、ただ唖然として彼の姿を見つめていた。

 その理由は彼の髪の色。
 一般的にギュミル諸島の人間は色黒の肌に黒、焦げ茶、灰色といった暗い色の目や髪と決まっている。
 しかし今目の前でさらりと指の間からこぼれたのは、陽の光をつよく弾く見事なあかがね色だった。それで彼が生粋の南方人でないことはもはや明白である。
 その上瞳まで南の海を思わせる鮮やかな碧色の虹彩と来れば、それはもはや髪の色の異相と合わさって、並々ならぬ目立ち方だった。

 ジェムはつい我を忘れてまじまじと男を凝視する。そのぶしつけな眼差しはさすがに常識的にも失礼で、男は不快感もあらわにジェムを睨みつけた……のだが――、

「……とっても綺麗な色ですね」

 その不思議な配色に見惚れて思わず漏らしたジェムの呑気なため息を耳にした途端、男は固まってしまった。
 突飛とも言える賛辞の言葉に彼は目を見開き凍り付いていたが、やがて段々と頬に赤みが差しはじめる。そして男はにやりと照れ臭そうに笑った。

「おう。ありがとな」

 すると途端に表情が子供っぽくなる。男の左目の下に走る横一線の傷跡がわずかに引き攣って醜く歪むけれど、それは彼の無邪気さを損なうものではなかった。男は打って変わった馴れ馴れしさでにジェムに話しかける。

「オレは半分西大陸の血を引いてるんでな、おかげでこんな金きらした頭に生まれた。だけどあんたの連れはもっと派手な髪色してるみてぇだから、別にそれほど珍しくはないんじゃねぇか」

 青年は闊達に笑って自分の髪を引っ張ってみせる。ジェムはその言葉にぎょっとした。

「えっ! もしかするとずっとぼくらを見ていたんですか?」
「別にはじめから立ち聞きするつもりでいたんじゃねぇんだぜ。たまたまだ、たまたま。――もっとも、」

 ひょいっとジェムの手から聖典を奪い取る。

「ずっと甲板で難しい顔をしていた小僧が何を読んでいるのか、気になってはいたんだけどな」

 ちっとも進まないからよほど難しい本を読んでると思えば創世記だもんな、と彼はけらけらと笑う。
 最初の雰囲気とはまるで異なる遠慮のない笑いにジェムは恥ずかしそうに肩を狭くして、それでもなんとか本を取り戻そうと手を伸ばす。

「ぼくは東の大陸の文字が読めないんですっ」
「へぇ、そうなのか」

 ジェムが怒鳴ると青年はついっと眉を持ち上げ、それからおもむろに悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「だったらオレが教えてやるよ。ほれ、こっち座れ」

 何を思ったのだか、青年は勝手にそう決めるなりどっかりとその場に腰をおろした。そうしてぽんぽんと傍らの甲板を叩く。

 ジェムは思わず目を丸くしてしまった。いったい何でいきなりそういう事になるのだろう。正直訳がわからない。
 しかし突然のことに躊躇っているうちに、

「いいから、来いって言ってんだろうっ」

 と痺れを切らした男に無理やり腕を引かれ、強引にそこに座らされたのだった。


 

 

 切りの良いところまで来たところで、ジェムはパタンと本を閉じた。そして青年に向かってぺこりと頭を下げる。

「助かりました。おかげさまで、こんなに進めることができました」

 ありがとうございますと、殊勝な態度でお礼を言う。
 それは間違いなく、ジェムの素直な気持ちだった。

 初めのうちはどうなることかと思ったけれど、意外なことにこの青年の教え方はかなりうまかった。
 彼はどちらかと言うと口よりも先に手が出る性質の様で、遠慮なく落とされるこぶしに最初は怯えていたジェムだったけれど、それでもそのうちに彼の事をあまり怖いとは思わなくなっていった。

 なにせ彼が怒るのは質問を遠慮したり同じ所を繰り返し間違えたりした時だけ。少し乱暴だけど彼から悪意は感じられなかったし、ちょっと過激なスキンシップだと思えば上等の指導に入るだろうとまでジェムは感じていた。

 これはかなりお人よし過ぎる考えで無きにしも非ずだけれど、なにしろ実際ジェムはここ一ヶ月間苦労してきたのと同じだけの分量を今の短い時間で読むことができたのだ。たしかにこれは多少のことなら目をつぶっても良いと思えるほどの快挙だろう。

(誰かについていて貰えばこんなにも早い、か……)

 一人でやり遂げようとしていた自分の意固地さを振り返って、ジェムは何とも言えぬ微妙な笑みを漏らす。結果だけ見ればこのひと月をかなり無駄に過ごしてきてしまったような気さえする。

「おうよ、しっかり感謝するんだぜ」

 青年はにやりと笑ってジェムの背中を勢いよく叩く。ジェムは思わずよろめいてたたらを踏んだ。

「ガキとは言え、ノルズリ人なんかとまともに話すのは初めてだからな。どんなもんかと思ったが、いい時間つぶしになったぜ。いけ好かないガキだったらぶん殴ってやろうと思ってたけどよ」

 豪快に笑いながら告げられたその台詞に、再び礼を述べようとしていたジェムは思わずぎょっとした。

「な、殴るって、そんな乱暴な……っ!?」

 ジェムは目をパチパチと瞬かせる。

「だってオレ、ノルズリ人って嫌いなんだよ。グレーンの奴が食わず嫌いみたいな真似すんなって言うから、試しに話してみてやろうという気になっただけで」

 なにやらグチグチと言い訳のようなことを口にして、青年は拗ねたように口を尖らせた。
 初めに声を掛けられた時、彼が妙に不機嫌そうだった理由がようやく分かったけれど、まさか自分がそんな瀬戸際な状況にいたとはどうして想像できよう。ジェムはひくりと口元を引きつらせた。

(だけどそういう事って、例え本音でもわざわざ口にはしないと思うんだけどなぁ)

 良くも悪くも裏表の無い性格の青年にジェムが唖然としていると、

「だけどお前のことは気に入ったぜ。だから特別にひとついいことを教えてやるよ」

 彼はすっと顔を寄せジェムの耳元にそっと囁きかけた。

「無事に陸に降りたきゃな、これからすぐに船室に戻って大人しくしてろよ。上でどんな騒ぎになっても出てくんな」

 ぎょっとして顔をあげると、彼は海の色の瞳を楽しげに周囲に向けていた。

「愉快な風が吹いている。――こりゃあ楽しいことになりそうだぜ」
「あの、待ってください。それって――」

 驚くジェムにはもはや目もくれず、彼はその場を立ち去ってしまったのであった。