十二の時に軍人になるべく士官学校へ入ることを決めた。
※ ※ ※ 「……やっぱり読み辛いなぁ」 シエロが去り再び紙面に視線を落としていたジェムは、幾分としないうちに再び息を漏らしていた。 気付かずに購入してしまった自分の自業自得とはいえ、それでも異国の言葉で書物を読むのは容易なことではない。
神話を読む機会が今しかないわけでは無いし、船を下りてから改めて北の大陸の言語で書かれた書籍を購入してもいい。
「えっと、――ふた、『二つに分かたれた獣は』……さら? ああ、『空に上って――姿を変じ』……ええっと……『銀の獣と金の獣になった。やがてそれは、』……それは……?」 しかししどろもどろの朗読はここでついに途絶えた。
実のところ冒頭の三章までは、さすがのジェムでも内容を知っていた。だからなんとか読んでいくことができたのだけど、ここ、四章までくるとそれも不可能だ。 ジェムは見知らぬ文字を前に、不毛な睨めっこをする羽目になったのである。 頭を掻き毟り、うんうんと唸り声を上げる。本人としてはこれ以上ないぐらい必死な様子ではあるけれど、傍からみると何か悪い病気にでも掛かっているように見えなくもない。
「月と太陽」
ジェムはぎょっとして振り返る。 「それって創世記の四章じゃねぇの。違うのか?」 ジェムのすぐ傍らに、いつの間にかひとりの青年が立っていたのである。
おそらくは地元の人間に違いない。 色の白い自分とは違う、良く日に焼けた小麦色の肌。
年はたぶん二十歳前後。理由は良く分からないものの、なにやら不機嫌そうな顔で憮然とこちらを覗き込んでいる。 「うん、何なんだよ?」 彼は胡乱そうな眼差しで前髪をかき上げる。
その理由は彼の髪の色。
ジェムはつい我を忘れてまじまじと男を凝視する。そのぶしつけな眼差しはさすがに常識的にも失礼で、男は不快感もあらわにジェムを睨みつけた……のだが――、 「……とっても綺麗な色ですね」 その不思議な配色に見惚れて思わず漏らしたジェムの呑気なため息を耳にした途端、男は固まってしまった。
「おう。ありがとな」 すると途端に表情が子供っぽくなる。男の左目の下に走る横一線の傷跡がわずかに引き攣って醜く歪むけれど、それは彼の無邪気さを損なうものではなかった。男は打って変わった馴れ馴れしさでにジェムに話しかける。 「オレは半分西大陸の血を引いてるんでな、おかげでこんな金きらした頭に生まれた。だけどあんたの連れはもっと派手な髪色してるみてぇだから、別にそれほど珍しくはないんじゃねぇか」 青年は闊達に笑って自分の髪を引っ張ってみせる。ジェムはその言葉にぎょっとした。 「えっ! もしかするとずっとぼくらを見ていたんですか?」
ひょいっとジェムの手から聖典を奪い取る。 「ずっと甲板で難しい顔をしていた小僧が何を読んでいるのか、気になってはいたんだけどな」 ちっとも進まないからよほど難しい本を読んでると思えば創世記だもんな、と彼はけらけらと笑う。
「ぼくは東の大陸の文字が読めないんですっ」
ジェムが怒鳴ると青年はついっと眉を持ち上げ、それからおもむろに悪戯っぽい笑みを浮かべた。 「だったらオレが教えてやるよ。ほれ、こっち座れ」 何を思ったのだか、青年は勝手にそう決めるなりどっかりとその場に腰をおろした。そうしてぽんぽんと傍らの甲板を叩く。 ジェムは思わず目を丸くしてしまった。いったい何でいきなりそういう事になるのだろう。正直訳がわからない。
「いいから、来いって言ってんだろうっ」 と痺れを切らした男に無理やり腕を引かれ、強引にそこに座らされたのだった。
切りの良いところまで来たところで、ジェムはパタンと本を閉じた。そして青年に向かってぺこりと頭を下げる。 「助かりました。おかげさまで、こんなに進めることができました」 ありがとうございますと、殊勝な態度でお礼を言う。
初めのうちはどうなることかと思ったけれど、意外なことにこの青年の教え方はかなりうまかった。
なにせ彼が怒るのは質問を遠慮したり同じ所を繰り返し間違えたりした時だけ。少し乱暴だけど彼から悪意は感じられなかったし、ちょっと過激なスキンシップだと思えば上等の指導に入るだろうとまでジェムは感じていた。 これはかなりお人よし過ぎる考えで無きにしも非ずだけれど、なにしろ実際ジェムはここ一ヶ月間苦労してきたのと同じだけの分量を今の短い時間で読むことができたのだ。たしかにこれは多少のことなら目をつぶっても良いと思えるほどの快挙だろう。 (誰かについていて貰えばこんなにも早い、か……) 一人でやり遂げようとしていた自分の意固地さを振り返って、ジェムは何とも言えぬ微妙な笑みを漏らす。結果だけ見ればこのひと月をかなり無駄に過ごしてきてしまったような気さえする。 「おうよ、しっかり感謝するんだぜ」 青年はにやりと笑ってジェムの背中を勢いよく叩く。ジェムは思わずよろめいてたたらを踏んだ。 「ガキとは言え、ノルズリ人なんかとまともに話すのは初めてだからな。どんなもんかと思ったが、いい時間つぶしになったぜ。いけ好かないガキだったらぶん殴ってやろうと思ってたけどよ」 豪快に笑いながら告げられたその台詞に、再び礼を述べようとしていたジェムは思わずぎょっとした。 「な、殴るって、そんな乱暴な……っ!?」 ジェムは目をパチパチと瞬かせる。 「だってオレ、ノルズリ人って嫌いなんだよ。グレーンの奴が食わず嫌いみたいな真似すんなって言うから、試しに話してみてやろうという気になっただけで」 なにやらグチグチと言い訳のようなことを口にして、青年は拗ねたように口を尖らせた。
(だけどそういう事って、例え本音でもわざわざ口にはしないと思うんだけどなぁ) 良くも悪くも裏表の無い性格の青年にジェムが唖然としていると、 「だけどお前のことは気に入ったぜ。だから特別にひとついいことを教えてやるよ」 彼はすっと顔を寄せジェムの耳元にそっと囁きかけた。 「無事に陸に降りたきゃな、これからすぐに船室に戻って大人しくしてろよ。上でどんな騒ぎになっても出てくんな」 ぎょっとして顔をあげると、彼は海の色の瞳を楽しげに周囲に向けていた。 「愉快な風が吹いている。――こりゃあ楽しいことになりそうだぜ」
驚くジェムにはもはや目もくれず、彼はその場を立ち去ってしまったのであった。
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