第四章 4、悪徳の栄える島(1)

 


 後遺症は根深かった。

 肉体的にではなく、精神的な打撃が大きかった。
 それでも指揮官の意外な協力もあり、ようやく部隊に戻ることができた時
――そこに同期の姿は無かった。
 彼は手柄を立て、一躍部隊長に抜擢されたらしい。

 だが彼が倒したという相手は、あの戦いで自分が倒したはずの将校に他ならなかった。
 そこで初めて自分は敵ではなく、味方に斬られたのだという事に気がついた。

 なぜ彼がそうしたのか、自分には理解できなかった。

 自分を斬り捨ててまで、人の手柄を横取りしたかったのか。
 そこまでしてまで勲功を立てたかったのか。

 相手を恨む気持ちはなかった。
 その代わり、自分の中からあれだけ胸を駆り立てていた出世欲が薄れていくのが分かった。

 自分にはそこまでできない。

 手柄を立てて身を立てたいと思ったのは、守りたいものがあったからだ。そのためにはどんなことでもしようと思った。

 けれどそのために人を騙し、傷つけてなんになる。卑怯者になってまで出世して、はたして自分はそれに納得できるのか。
 そこでようやく、自分の初めの決意を思い出した。

 ――父の自慢の息子になろう。

 己の原点を再確認したとき、ようやく自分の生きる道を見出したような気がした。


 

   ※  ※  ※


 

「――火の民の一族は誇りというものを重んじる」

 全身に鮮やかな刺青を施した砂漠の少年は、唸り声にも似た重々しい呟きを漏らす。

「戦争中でも当然女子どもに危害を与えたりはしないし……魂が抜け、身を守れない夜間の攻撃は恥であるとされている。襲撃は必ず日の出と共に行われ、奪われた財や駱駝を取り返しやすいよう……相手に丸一日の追跡時間を与えてさえいる」

「……つまり?」

 歌うようなからかうような、どこか軽やかな声が続きを促す。少年はその声の主を三白眼の気のある鋭い眼差しで睨みつけた。

「宣言無しの戦争は恥以外の何ものでもなく、奇襲や騙まし討ちにいたっては言語道断だ!」
「結局さ、君は何を言いたいの?」

 少年の言葉に彼は首を傾げて見せる。だがその顔にはほんの僅かに、先を見透かすような薄笑いが浮かんでいた。

「おれの体調が万全でさえあったなら、そんな恥知らず、かつ不快な連中なんぞけちょんけちょんにしてやれたんだっ!」
「まぁ、寝台に突っ伏した状態で言われても単なる負け惜しみにしか聞こえないけどね」
「この糞シエロっ! 海賊を前に指一本動かそうとしなかった貴様には言われたかないわっ!!」

 もはや癒着しそうな勢いで寝付き続けている寝台の上。巡礼使節の一員であるシェシュバツァル・フーゴは、元気な時と少しも変わらぬきんと響く通りの良い声で威勢よく怒鳴った。

 って言うか普通に元気じゃん。と、内心思いつつも、同じく巡礼使節であるシエロは気の無い返事をかえす。

「だって俺、争いごとにはなるたけ関わらない主義だし」
「そんなやる気のない主義主張、どっかに捨てて来いっ!」
「おいおい、君たちまで仲違いはよしてくれよ」

 きぃ、と扉を軋ませて隣室からスティグマが戻ってきた。
 もっともその声にはまるで力がなく、あからさまに気落ちした姿は普段にも増してしょぼくれて見える。彼がこのような態度を見せる場合、十中八九、原因は一つである。

「で、フィオリちゃんどんな感じ?」

 シエロが訊ねるとスティグマは弱々しく大きなため息を吐いた。

「……口を利いてくれない」
「いや、そうじゃねぇだろう……」

 親馬鹿っぷりを遺憾無く発揮するスティグマに、普段はかなりの敬意を払っているはずのバッツも思わずげんなりと突っ込みを入れた。
 シエロは苦笑混じりにスティグマに視線を向ける。

「こういう場合は嘘でもいいから、すっかり落ち着いたとでも言っておこうよ」
「嘘でいいなら、わたしだって『あの子はベッドで安らかに眠っている』とでも言いたいよ」

 もぐりの医者はやれやれと暗い顔を振る。

「しかし残念ながら実際は、部屋の隅に座り込んで落ち込んでいる。今は何を言っても慰めになりはしないんだろうね」
「でも、さっきまでに比べればだいぶマシな状況ではあるじゃないか」
「……まぁ、確かにそうだね」

 スティグマは不器用に口端を笑みの形に吊り上げた。


『船から降ろしてっ! ジェムを探しにいかなきゃ――』

 
 マーテル号を襲った海賊たちが去った後、フィオリの狼狽具合は誰の手にも余るほどだった。


『海に落ちたの――あたしが、あたしが何も考えずに飛び出した所為で……っ!』

 
 目の前でジェムが船から落ちる様を見たフィオリは、それは自分の責任であるとずっと己を責め続けた。このままでは彼女まで船から飛び降りかねないと、スティグマが羽交い絞めにして船室まで閉じ込めた程である。
 フィオリがいるのはシエロたちが今いる船室の続き部屋で、甲板に上がるにはシエロたちの前を通るしか方法は無い。

「ここにいれば外に出るのは無理だし、物音がしても充分聞こえる。さほど心配は要らないさ。むしろ気に掛かるのは――、」
「ジェム君の方だな」

 スティグマは憂いを帯びた顔で俯く。

「今回は本当に申し訳ない。わたしが普段からもっとフィオリを躾けていれば……」
「ベルさんまで止めてよね。俺嫌いなんだよ、そういう安易な自己批判」

 彼にしては珍しくシエロは眉をひそめ、あからさまに不愉快そうな表情を浮かべた。

「くよくよしてたって何一つ好転することは無いだろう。もっと建設的なことを考えなきゃ」
「だが、しかし――、」

 シエロはいつもの楽観的思考を最大限に発揮して、にこっと華やかに笑ってみせた。

「今回だって大丈夫だよ。俺言っただろ、ジェムが他の船に引き上げられたのを見たって」
「そうだな。……確かにそうだ」

 スティグマは晴れ晴れとしたシエロの表情につられ、凍り付いていた表情をわずかに溶かす。だがバッツは相変わらず渋い表情で淡々と正論を述べた。

「――むしろ建設的な考えと言うなら、ジェムを連れて行ったあの船はいったい何ものなのかってことだろう」

 間一髪のところで煙弾を放ち現れたあの船は、しかし巡視船が到着する前に素早くどこかに消えてしまった。勿論、船内に運び込まれたはずのジェムも一緒に。

「楽観視するのは別にいいけどよ、のんびりと構えていてジェムに何かあったら取り返しがつかないぞ」
「……なんか最近、バッツって言うことがゼーヴルムに似てきたよね」
「おれをあの石頭の一緒にするなっ!!」

 バッツはがばっと勢い良く身体を起こして反論するが、すぐにベッドに倒れこんだ。

「ああっ、いきなり頭を上げるから」

 スティグマが慌てて介抱する。寝ている分にはまだマシだが、未だいっこうに頭を起こすことはできないバッツである。彼は口惜しそうに唇を噛む。

「ひと月も船に乗っていれば、さすがに揺れにも慣れると思うのに……。君の症状はあれじゃない? 病は気から、ってやつ」
「おれを軟弱もの呼ばわりするな……」

 呆れたように言うシエロをバッツはきつく睨みつける。だがこの長期に渡る船酔いにさすがのバッツもかなりやつれ、心身を消耗し切っていた。

「そろそろ切実に、対応策を考えなければならないな……」

 ジェムを探すためには、このさき頻繁に船で移動する必要が出てくるかも知れない。その場合、バッツがずっとこの調子ではさすがに不憫だし、色々と差し障りも出てくる。

 
 スティグマが難しそうに唸っていると、トントンとノックの音が彼らの耳に届いた。

「ごめんね、失礼するよ」

 そう言って扉を開けたのは、立派な制服に身を包んだ軍人だった。年の頃は五十前後。気さくな物腰に反し、その身なりからはかなりの地位にいることが予測ができた。

「あれ、こんな人――巡視船に乗っていたっけ?」

 シエロが思わず首をかしげる。
 救助に来た巡視船の乗組員は混乱した船を鎮めるためにマーテル号に乗り込んできたが、こんな人物はいなかった。彼ほどに身分の高い人間であれば、少なからず目立っていたであろうに。

 灰色の髪を撫で付け立派な口髭をたくわえたその人は、どこか茶目っ気を含んだ眼差しをシエロに向ける。

「いやぁ、そこの君の言う通りだよ。僕はついさっきこの船に到着したばかりだからねぇ」
「はっ?」

 寝台に横になったまま、バッツは訝しげな顔をする。

「巡視船から連絡を貰い、全艦全速でここまでやってきたという訳さ」
「あの、失礼ですがどちら様でいらっしゃいますか」

 スティグマがおずおずと訝しげに尋ねる。その男性は人好きのする朗らかな態度でわはははっと豪快に笑ってみせた。

「申し遅れたね。僕の名はエン・ヴィスタ・マレー。ギュミル諸島ダグ島海軍、第三艦隊の提督をやってたりしているよ」
「え……ええっ!?」

 あっさりと告げられたその言葉に、巡礼者たちは思わず目を見開かずにはいられなかった。

 軍治国家であるダグ島において提督とは国のトップである最高司令官、すなわち総督に継ぐ地位である。彼の言った『全艦全速』とは、文字通り彼が艦隊を率いてここまで来たことを暗示している。

 そんな大物官僚が、突然いったいなぜ彼らの前に姿を現したのか。

 もっともその提督様は何食わぬ顔で病床に伏せるバッツの枕元にやってきて、懐から鮮やかな色の柑橘類を取り出した。

「船酔いにはオレンジが効くんだよね。枕元に置いておくといい匂いがして気分がさっぱりするよ」
「あ、あんがと……」

 バッツは思わず果物を受け取る。いまだ驚きの中にいた所為で、普段に無く素直な反応である。そんなのん気な提督の行動は、しかし巡礼者たちをますます混乱させるだけだった。

「えっと、マレー提督殿。どうしてあなたはこんな所にいらしたのですか」

 いったい何が目的なのか。馴れ馴れしくさえある彼の言動に、懐柔されることなくスティグマが慎重に訊ねると、彼はのんびりとした調子でうなずき答えた。

「そうだねぇ、理由はいくつかあるんだけど――ひとつは君たちが巡礼使節だからだね」

 その言葉に彼らは瞬時に顔を強張らせた。そして油断無く身構える。

 巡礼使節の目的は、世界の各地にある五大神殿を巡ること。しかしその目的地のひとつはダグ島と緊張関係にあるノート島の中心、海大神殿である。

 それに関係して、何か良からぬ企てに巻き込まれるのではないか。彼らはそう警戒するが、マレー提督の態度はやはり柔和なものだった。彼はぱたぱたと手を振る。

「いやぁ、そんな怖い顔をしなくても大丈夫だって。ダグ島とノート島は、そりゃまだ油断は禁物だけどさ、現在はそれほど剣呑な状況にある訳じゃないからね。ついこの間もダグ島にノート島の留学生が来たぐらいだし」

 だいたいそんなに緊迫した状態だったらさすがにこんなフラフラしていられないって、と国の上層部に位置しているはずのマレー提督はけらけらと笑う。

 むしろすでにいい年をしている割には気が若いと言うか、どうにも威厳というものからは掛け離れている人間である。バッツなどはげっそりとしていたが、しかし次の台詞は緩んだこの場の空気を引き締めるには充分だった。

「君たちと行動を共にしている巡礼使節のラグーン大尉はね、かつて僕の部下だった。だから君たちに手を貸してあげるよ」

 マレー提督はにこやかに笑みの中で片目だけをキュウと細める。

「――もちろん、無料(ただ)じゃないけどね」

 思いもよらない提案に、三人はぎょっと息を飲んだ。