第四章 プロローグ「漣は揺に」(1)

 


 

 

 
  ざざーん、ざざーん

 
 水面でちらりと、光の波が揺らめいた。
 低く微かな海鳴りは、潮騒と共に耳に馴染んだ最たるもの。

 
  ざざーん、ざざーん

 
 自分が生まれる遥か昔から遠い未来まで、この音はきっと途絶えることなく続く。

 
 たぶん自分が死んでも、
 永遠に。

 
 


 
 

 蝋燭の火が揺らぐのを合図にしたように、その男はついに尋ねた。

「――それで、覚悟は決まりましたか」
「ああ」

 低く掠れた声は長きに渡って潮風の中に身を置いていた結果。生涯を海に捧げた男には、その身に海鳴りが宿ると言う。

「では契約です。こちらの書面にサインを――」

 帆を張り、縄を綯う。そんな動作を繰り返し硬くなった手には似つかわない、瀟洒な羽根ペンを握る。ペン先をインク壺に浸す際、手が震えカツンと小さな音をたてた。

(……情けないな)

 ふっと自嘲が過ぎる。
 覚悟は決まった。自分はいま確かにそう言ったはずだ。

 ただ一人のために。
 誰よりも大切な一人のために、自分はこの決断を下した。

 もはや後悔はないと納得したはずだ。

 それでもこの指が震えてしまうのは、己の弱さの所為か。それとも、けして消えない罪の意識の所為か。

 罪悪感を押さえつけるように、力任せに羊皮紙に文字を刻む。ペンを叩きつけるようにテーブルに戻すと、目の前の相手はにやりと笑って書面に視線を走らせた。

「いいでしょう。これで契約は成立です。おめでとうございます。たった今よりあなたは――」


 

 ――裏切り者となりました。


 

 耳障りな哄笑に耐えながらぎりりと歯を食い縛る。
 これで自分は誇り高き海の男ではなくなった。それはもとより承知していたこと。
 けれど自分の内より何かが永遠に失われたことが、予想以上に身に堪えた。

(――……)

 胸の中で、この身を縛るただ一人の名を呟く。
 そうする権利さえ、もはや自分には無いのだけれど――、

 書面に走らせた自分の名前。
 黒いインクはまるで汚れた己の魂のように、滲んでいた。


 

     ※ ※ ※  


 

 船乗りと港の女たちの喧騒で賑わう通りを脇に逸れてすぐ。
 人ひとりが足を踏み降ろすのがやっとなくらい細くて狭い階段を下りた先。
 潮風で痛んだ木の扉を開けるとそこには一軒の酒場がある。

 看板はただひとつ、薄汚れた扉に貼られた『オー・ドー・ビー(命の水)』という小さなプレートだけ。
 これでは一見しただけでは何の店だか判別がつかないが、それでもこの店に用があるものにとっては充分なのである。

 この店に訪れる者は、あしげく通う常連でほとんどを占められている。一見の客はお断り、と明言している訳ではないが、それでも異分子を拒むような排他的な雰囲気がこの店には確かにあった。

 オー・ドー・ビーには正確には就業時間というものは定められていない。店主が詰めていれば朝からでも開いている場合もあるし、誰もいなければ宵の口にも店を閉めることさえある。

 今日はすでに店を開けていたが、夕刻に近いとは言えまだまだ日が高く日中と言っても過言では無い時刻だ。店内にはわずかに二人、客が入っている程度。それでもまだいるだけましだろう。

 しかしそんな閑散としたオー・ドー・ビーで、扉に付けられた鐘がふいにカランと音をたてた。
 カウンターの中に詰めていた初老の店主はつっと視線を向けて一人ごちた。

(珍しいこともあるものだな)

 入ってきたのは店主馴染みの常連客では無い。はじめて見る、一見の客だった。
 店主は、マントのフードを外しながらゆっくりとカウンターに近付いてくるその客に声を掛けた。

「ご注文は?」

 客はまだ若い男だった。身体の造りはしっかり出来上がっているようだが、とっくに壮年を過ぎた店主にははっきりと見透かせる初々しさがあった。

 客は軽めの発泡酒を頼んで椅子に腰をおろす。その途端、カタンと硬い音がした。どうやら客は帯刀しているようだ。

 軍人か、傭兵か。
 どちらにしてもこんな時間帯から酒を飲みにくるようではまともな人種とは思えない。

 さもなければ客に、酒以外の目的があるかだ。

「店主」

 客は店主に灰色の眼を向けた。その目の色はギュミル諸島の人間にはよくあるものだったが、年に似合わぬ鋭い眼光は普通のマリティムス(海の民)以上の険しさを纏っているような印象をもたらした。

「ギュミル随一の情報通と評判のあなたに、一つ伺いたいことがある」

(やれやれだな)

 店主は胸のうちで思わずため息をついた。
 若い時分には情報屋の真似事をしていたこともあって、確かに自分はギュミル諸島内の事情には詳しい方だ。
 しかしその手の仕事はこの店を構えたときにすっかり足を洗ったはずだった。
 それでも未だにどこかしらから話を聞きつけた人間が情報を得ようとやってくるのは、泥の中にすっかり身を埋めていた半生に対する代償ということか。

(こちらとしては酒を目当てに来て欲しいもんなんだがね)

 それでもやってきた客を無闇に追い返すことは無い。  店主が無言で手を差し出すと客はしぶしぶといった様子で高額貨幣を差し出した。ほとんど酔狂でやっているようなこの店では、臨時収入であっても貴重な財源なのだ。

 しかし客の尋ねるその内容を聞いて、店主はおやとふたたび目を見開いた。

「――今は、それについて調べるのが最近の若者の流行なのかい」

 客が不思議そうな顔をする。

「ほら、その端の席にいる客。あちらにまったく同じ質問にされた。それについて聞きたいならあの客に聞いてみな」

 そう言うと客は素直に奥の席に座る小柄な客の方に向かう。

(しかし本当に珍しいこともあったもんだ)

 店主はおもむろに髭に覆われた顎を撫ぜる。

(こんな時間に二人も一見の客が来て、しかも同じことを尋ねてくるときた)

若い男が奥の客に声を掛けるのを眺めながら店主は、

(何か事件の前触れかね)
 と独りごちるのだった。