冬の寒さが最も厳しくなる頃。
その年一年の講義がすべて終了すると学生達には待ちに待った冬の休暇がやってくる。苦しい学業から解放され、後はのんびりと年の移り変わりを待つだけになると北の学院の学生寮はとたんに閑散とし始める。
それは多くの生徒が一年の締めくくりを離れて暮らしている家族と過ごすために揃って帰省するからだ。また家が遠くて帰れない留学生や何らかの事情から帰省を見送った学生も、代わり映えのしない寮の自室で年明けを過ごすのを嫌って近場の歓楽街へと足を伸ばす。
だからこの時期に寮に残っているのは、よっぽどの変わり者か何の因果かで年明け一番に補習代わりの課題を提出しなければならない哀れな学生だけである。
――雪はしんしんと降り積もる。
まるで学生のいない学び舎を、次の季節に備えて真っ白に染め直すかのように……、
「ジェム、いるか?」
ノックを省略してとうとつに扉が開け放たれる。大きく開いた扉からは外気とほぼ変わらない冬の冷気が入り込んできた。
威勢良くやってきたのは制服をルーズの着こなした少年。無邪気で活発そうなその眼差しには、同時にどこか悪戯っ子のような光が瞬いている。
「あれ、どうしたの。てっきり帰省したとばかり思っていたのに」
呼びかけられた少年は、早く扉を閉めるようにジェスチャーしもう一人の少年を部屋の中に呼び寄せた。
「まあ、ちょっと事情があってな。それよりお前も毎年の事ながらいるんだなぁ。しかし、こんなに寒くて風邪引かないか」
「今日はちゃんと自室にいるだろう。いつもいつもあんな寒い書庫にはいられないよ」
「そう言いながら右手のコートは何かな。ちょうど行くところか、あるいは帰ってきたところなんじゃないのか」
少年はつかつかと歩み寄ると慌ててコートの下に両手を突っ込む少年の片手をぐいっと引っ張り出した。その手はまるで氷のように冷えきっている。
「当たりだ」
「……」
にやりと笑いかける少年に、ジェムは何も言えず口を尖らせた。
「どうせまた課題をやってたんだろう。そうだ、すっかり言い忘れていたな。ジェム、全教科落第制覇おめでとう」
「お礼は言わないからね。もう、それでなんでぼくの所に来たんだい」
「何でとはお言葉だな。年明けまであと数刻もないじゃないか。年の変わり目に挨拶する相手もいないんじゃ淋しいからわざわざ来てやったんだろ」
「そうか、もうそんな時刻か」
ジェムはあたりを見回し、この部屋には時計がないのを思い出して窓の外を見た。だが、外では雪がちらつき月どころか星のひとつも見えはしない。
ジェムはため息を吐くとコートを上着掛けに吊るした。
「せっかく来てくれたのありがたいけど、ぼくはちょっと忙しいからあんまり君の相手はできないよ」
「いいさ。こっちはこっちで好きにやるから」
少年はそう言うと勝手知ったる様子でジェムのベッドに腰掛けた。
ジェムはもう一度ため息を吐くと早速作業に取り掛かった。
「……大体、何で君はまだ寮にいるんだい。君は毎年実家に帰っていただろう」
彼はアウストリ大陸からの留学生だが、家は大陸のかなり北側、ノルズリ大陸よりにある。帰ろうと思えばそう時間をかけずに帰れるはずなのだ。
作業を行なう手は休めないものの、ジェムは悠悠自適でくつろぐ少年に声をかける。相手は出来ないと言って置きながら、やはりそばにいる人を無視するのは彼にはできないようだ。
「言っただろ。事情があるんだ。今家に帰るとちょっと命の危険がありそうなんでね」
「命の危険って、そんな大袈裟な」
ジェムは呆れたような目を少年に向ける。だが少年は肩を竦めた。
「いやいや、これは結構マジな話さ。ほら、おれの家ってそれなりに裕福なの知ってるだろ。まあ、おれの、というよりは爺さんの家が金持ちなだけなんだけどさ」
ジェムはうなずいた。
彼の実家はノルズリ大陸でもかなり名の知れた資産家だ。
「それもまあ爺さんが一代で築いた泡銭なんだけど、その爺さんがかなりの放蕩人でさ」
「放蕩息子が家を潰すって言うのはよく聞く話だけど、家を盛り立てるって言うのは珍しいよね」
「おお、そういやそうだな。まあその爺さん、何がすごいかって、ぶっちゃけおれの叔父さんと叔母さん大体三十人くらいいるんだわ」
「さ、三十人っ!?」
ジェムはつい手を止めて少年の方を振り向いた。
「すごいだろ。従兄弟にいたって総勢百人近くいるんだぜ。名前覚えるのも一苦労だ」
百分の一の少年は感慨深くうなづいた。
「そんな風に人生遊び尽くした爺さんもそろそろ年貢の納め時でさ、だいぶ身体も弱ってきたんだが、あのクソ爺、一体何をトチ狂ったんだがせっかく増やしたし財産を分散されるのはいやだとかで遺産は孫の一人にまとめて渡すと言い腐りやがる」
「そ、それは大変だね」
「だろ? 分けるのが嫌ならそんなに餓鬼作んなって言うんだ。それから親戚同士の間がかなりぎすぎすしてきてな、まあ、もともとそんなに仲が良い訳じゃなかったんだが。そんでもってな、笑えることにそれから毎年毎年従兄弟が少しずつ減っていくんだよ」
「そ、それって……」
「ああ、そんな深刻な話じゃないさ」
顔を蒼ざめさせるジェムに、彼は陽気に笑った。
「単に裏から手を回して跡目候補の優秀な奴を他の家の養子にさせたり疎遠にさせたりしてるだけで」
「そ、それもかなりとんでもない話だと思うんだけど……」
「と、ここまでが去年の話」
少年は物騒の笑みを口許に浮かべた。
「さらにとんでもない話はな、前回の年明けの集まりであのクソ爺が、オレを遺産を譲る相手の最有力候補だとほざいたことだ」
「ふ、ふへぇえっ」
「もう、みんなの目が殺気ばしって怖い怖い。しかもその理由が若い頃の爺さんにそっくりだなんて、まったくたまったもんじゃないよ。こりゃ洒落じゃなく暗殺されちまうぞと思っておれは今年は帰れないのさ」
冗談じゃないよ、と少年が苦笑して肩をすくめた。
「でも、君だったら本当にお爺様の跡を継いでもしっかりやっていけると思うよ」
ジェムはそんな少年を見つめしみじみとうなずいた。
少年はまるで自分をお調子者のように見せているが、本当はこの難関の学院の中でもかなり優秀な成績だ。
「成績のことはお前に言われたかないよ。まあ、どっちにしてもおれはまっぴらごめんだね。あんなでかい家を切り盛りするなんておれには向いてないんだよ」
「……勿体無いね」
「縁がなかったってだけさ。――それよりジェム、お前さっきからいったい何やってんだ」
「旅の準備だよ」
少年はぽんっと手を打った。
「そう言えば休暇が終わったらすぐ出発って言ってたもんな。しっかしお前も災難だよなぁ」
少年は荷造りするジェムの側に行くと、不意に真剣な眼差しをジェムに向ける。
「あのさ、これはマジな話なんだけどよ。もしお前が巡礼に行くのが嫌なら、おれが学長に直談判してやってもいいぞ。あるいはおれが代わりに――、」
「ありがとう」
少年の言葉を遮るように、ジェムはにっこりと笑みを浮かべた。
「そう言ってもらえてすごい嬉しいよ。だけどね、気持ちだけ受け取っておく。ぼくはこの務めがそれほど嫌じゃないんだ」
どんな経緯であれ、これは初めて自分に与えられた仕事だ。ならば精一杯の誠意を持ってやり遂げたいと思う。
少年はジェムの決心が固いのを知ると、わざとらしく肩をすくめため息をついた。
「やれやれ、残念だ。せっかくお前の代わりに世界を回る大冒険をしてやろうと思ったのにさ」
「ふふ、ありがとう。でもぼくは本当に大丈夫だから」
その時、突如鐘の音が響いた。
ごーん、ごおおぉん、ごーおおん
鈍く低いその音は、普段は始業と終業を告げる学び舎の合図だ。
「おっと、年告げの鐘だ。ジェム、年が明けたぞ」
だが今日に限っては、それは新たなる年を告げる幕開けの音だ。
二人は窓の近くに駆け寄っていく。闇と吹雪でだいぶ見難いが、はるか彼方には真っ白な彼らの学び舎が建っているはずだ。
少年は暗い窓の外に目を向けながら固い声音でつぶやいた。
「――ジェム、約束してくれ。必ず無事に帰ってくると。この学院に戻ってくると」
「……うん、約束するよ。必ずここに戻ってくる。そしてまた二人で肩を並べて勉強するんだ」
ジェムもその言葉にうなずいた。
「じゃあ、この鐘は二人の約束の証だ。絶対にこの鐘の音を忘れるんじゃないぞ。おれもけして忘れないから」
そう言ってにかっと笑った少年はそのままおや、と眉を上げる。
「そう言えばすっかり忘れてた。ジェム、新年おめでとう」
「――おめでとう、新年おめでとう」
ごーん、ごおおぉん、ごーおおん
鐘は長々と鳴り響く。
新しい年の幕開けを祝って。
そして旅立つ少年と見送る少年の、いつまでも変わらぬ友情を祈って。
|