≪黒薔薇狂詩曲≫
05 君臨せしは美しき魔物
ルードヴィッヒと名乗る男は、呆然とするあたしを無理やり地上階まで連れ出すと尊大な態度で命令を下した。 「掃除をしろ」
眉をひそめる。あたしはとっさに自分の耳を疑わずにはいられなかった。 なにしろ本人の主張が正しければこいつは人間では無い。
(何と言うか、思っていたより普通だわ……) まぁ、部屋いっぱいの藁で金を紡げとか言われるよりはだいぶ現実味のある要求だろう。
「な、なんであたしが掃除なんかしなくちゃいけないのよ?」
男は心底驚いたように目を見開く。 「本来ならば主が目覚める前に掃除くらいすませておくのが道理であろう。汚名を返上する機会をやるからキビキビ働け、この下僕」
わなわなと身体が震える。それはもちろん恐怖ではなく、怒りからだ。
「あんた! バンビだか夜のなんちゃらだか知らないけど、どうしてあたしがあんたに下僕扱いされてこき使われなきゃいけないのよっ」 ふんぞり返って自分を見下すルードヴィッヒを、力いっぱい睨みつけてやる。
あたしは単に大叔母が遺したという遺産を確かめに来ただけなのに、どうして訳の分からぬままこんな召使いのような真似をさせられなければならないのか。 全霊を込めた眼力と文句のつけようが無い正当な言い分に、さすがの暴君もふむとつぶやき顎をさすった。 彼はなにやら考えるようにこちらを見ていたが、おもむろに手を伸ばすとあたしに向かってぴんと指先で何かを弾く仕種をする。
「な、何なのよ。今のはっ」
涙目のあたしにルードヴィッヒはあっさりとそう言って向きを変える。今度は棚の上に飾られてあった高そうな花瓶に向けて指を弾いた。 花瓶はぱんっと乾いた音を立ててばらばらに砕け散る。
「きさまの頭も同じように破裂させて欲しいか」 ルードヴィッヒは長い指先をあたしに向けてちょいちょいと動かす。あたしは無言で激しく首を振った。 「ならば下僕は文句を言わず、大人しく勤めを果たすが良い」 そう言って身を翻すと、自分は布を剥ぎ取った豪奢な椅子にどっかりと腰をおろした。
「……」 とにかくあたしは大急ぎで、この理不尽な状況を打開するための策を思いつかなければならないようだった。 ◇◇◇ そうして話は冒頭のシーンに戻るわけなのだけれども、いくら怒鳴りつけても奴にはまるで堪える様子は無かった。
「はいはい、もう何の用ですか。あたしは誰かさんのお陰でとんでもなく忙しいんですけど」 箒を片手に腕を組み、男を睨みつけてやる。
長い間ろくな手入れをされることなく放置されたこの別荘は、あちこち隈なく汚れてガタが来ている。
「下僕、名は?」 今更それを聞くかと内心腹立たしく思いながらも、逆らうと何をされるか分からないので正直に答える。 「片瀬、美鈴……」 ぼそりと答えたあたしの返事に、ルードヴィッヒはむっと眉をひそめておもむろに聞き返してきた。 「…ミミズ?」
ぴきりと額に青筋が浮かんだ。 あたしは小学生じみたその聞き間違いを猛然と正したのだけれども、やっぱりこの男は聞いちゃいなかった。それどころか嫌味な態度でふふんっと鼻を鳴らしみせる。 「ミミズだか煤だか知らぬが下等なきさまには相応しい名だな」
むかっ腹のあまり、ふいっと背を向けて掃除に戻る。 (もう無視だ、無視っ) まったく、こいつの言うことにいちいち付き合ってられるかっ。
何度目かも分からぬ黙殺宣言をそんな風に心に刻んだあたしだったけれど、次の瞬間。その決意はもろくも崩れ去った。
「きゃあっ!?」 体勢を崩し、そのままルードヴィッヒの胸によりかかる。慌てて身を起こそうとしたけれど何故かがっちりと肩を掴まれ動くことができなかった。 豊かな巻き毛が肩や頬にかかる。
「おい」 ぼそりと耳元で囁きかけられ、心臓が激しく暴れる。
たぶんこの声は毒薬。
ルードヴィッヒは耳にかすめるほど近くに唇をよせて、あたしにそっと囁きかけた。 「余は、――腹が減ったぞ」 思わず膝から崩れ落ちた。 ここに来て言うことはそれかい!
あたしはもうどうでも良いや、とばかりにため息をつくとルードヴィッヒの腕から抜け出した。 「そんなこと言っても、あたしが持ってきたお菓子ぐらいしか食べるものは無いわよ。台所はまだ掃除し終わってないし、だいたいガスも水道も通ってないんだから」 本当は電気も来てないので日が落ちた途端真っ暗になるはずだったけれど、その問題はルードヴィッヒが解決した。 あたしがこんなに暗くちゃ掃除ができないと言い張ると、彼は恩着せがましくため息をつき、奇術師がやるようにぱちんと指を鳴らした。 その途端、別荘に明かりが灯ったのだった。 それは照明の光なんかとは違い壁自体が発光しているようにも見える不思議な明かりで、雰囲気としては今流行の間接照明に近いだろう。もっとも光源となるものはどこにも見当たらない。
とにかくビスケットとかそんなもので良ければ用意するわよと言うあたしの言葉に、しかしルードヴィッヒは馬鹿にしきったように鼻を鳴らした。 「余は人間の餌など口に合わん」
台詞は途中で遮られた。
「――えええっっ、ちょっとちょっと!?」 半拍置いて慌てて抵抗するけれども、ルードヴィッヒは暴れる手をあっさりと掴み、あっという間にあたしの襟元を大きく開いた。露わになった鎖骨の辺りが、外気に触れてすうすうする。 「な、何するつもりよっ!!」 あたしは痴漢にでもあったみたいに大声で叫んだ。
「食事だ」
あたしは目を丸くした。ルードヴィッヒの冷たい眼差しがつまらなそうにあたしを見下ろす。 「きさまは己の主人が何者であるのかまだ理解できておらぬようだな。例えきさまが鶏がらのような、いや、洗濯板のような、もといクレーターのような胸であっても雌であることには違いあるまい。大人しくしておれ」
渾身の力でルードヴィッヒを蹴り飛ばす。ついでにドサクサに紛れ素早く身を引き剥がした。 ――先刻、地下に居た際に告げられた言葉を、あたしは忘れた訳ではない。 ヴァンピーアとは、すなわちヴァンパイア。
もっともあたしが知る限り、それはお話の中の単なる虚構の存在でしかない。
(もっとも――、) 今となっては、否が応にでも信じなければならない状況のようだけど。 「やめてよね、血を吸われるなんて冗談じゃないわっ!」 露わにされた襟元をきつく掻き抱いて、あたしは慌ててルードヴィッヒから距離をとる。
「きさま、下僕の分際で余に逆らおうというのか」 絶対零度の響きを持つ問い掛けに思わず怖気づきそうになるも、それでもあたしは負けじときつく彼を睨み返した。 「だ、だからさっきから言ってるでしょう。なんであたしがあんたの下僕になっているのよ。まずその理由を言いなさいよっ」 けれどルードヴィッヒはあたしの質問には答えなかった。
ルードヴィッヒの表情は、これまでとはまるで一変していた。
「……理由だと?」 ふん、と弱々しい嘲笑が聞こえた。彼はついっと腕が伸ばし、指先であたしの顎を持ち上げた。 「そんなもの、一目見て分かったわ。きさまはこの家の新たな所有者であろう。ならばきさまは、――余の持ち物だ」 絶世の美貌が近付いてくる。
ルードヴィッヒはあたしの首筋にそっと顔を埋め――、
玄関先から激しいノックが聞こえてきた。
「だ、誰か来たみたいね。あたし見てくるわっ」 そして一目散にその場を走り去る。
(ちょっとちょっと、冗談じゃないわよ〜っっ) ひんやりとした、けれども柔らかな唇の感触が残る首もとを押さえつつ、なぜだかあたしはその場でじたばたと暴れ出したい衝動に駆られていた。 |
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