≪黒薔薇狂詩曲≫
15 日常への帰還
「チェックメイトだ」 ぞくりとするような深みのある声と共に、長い指が二人の首筋にそっと添えられた。 それはまさしく一陣の風のような。
だけど美貌の吸血鬼はただただ得意げに、にやりと笑った。 「――負けちまった、か……」 小さく、掠れた声が聞こえた。
「全力を尽くした上の敗北だ。俺にできることはもう無いな、見事に完敗だよ」 降参と言うように彼は両手を掲げる。しかしおどけるようなその仕種は、同時にどこか卑屈めいて見えてあたしはちょっとだけ嫌な気分になった。
「隣に同じく。さすがは名にし負う常盤闇の鬼神だ。元より我々が敵う相手ではなかったな」
ルードヴィッヒは相変わらずの傲慢な態度で、当然のようにせせら笑った。秀麗な顔を歪めて笑うその様子は、毎度の事ながら比類なく嫌味に溢れている。 そんなんだから余計に敵を増やすんじゃないかなと思っていると、彼は唐突にあたしを見てたずねた。 「さて下僕よ、これより先はどうするのだ」
望むなら煮るなり焼くなり好きにしてやるぞ、と艶然と微笑むルードヴィッヒにあたしはひくりと頬を引きつらせた。 「べ、別にそこまでしてくれなくてもいいって。あたしは――そうね、もう問答無用で人を連れ去ろうとしないでくれればいいわ」 そう言って問い掛けるように彼らを見る。 けして多くを望みはしない。
「分かっているよ。もうこの件についてはすっぱり諦めるから安心してくれ」 淳哉はあたしの言葉にぶっきらぼうに答えた。
確かにそれはあたしが何よりも望んだ答えだっただろう。
「そういうふうに何もかも諦めたような顔をするのはやめなさい!」 いきなり怒鳴りつけられた彼らは、驚いたようにぱちくりと瞬きをした。
だけど言ってしまったからには、もはやなかったことには出来ない。
「あのね、言っとくけどあたしは別にあなたたちが出世したり、いい病院を探したりするのまで止めさせようとしている訳じゃないのよ」 お母さんをいい病院に入れたいと思うのはけして悪いことじゃない。その為の力を持ちたいと思うことだって誰に非難されるようなことではない。
(こんなこと、あたしが言える立場じゃないのは分かっている……) 嫌味なぐらい傲慢で、白々しいことを言っているというのは百も承知の上だ。
本当に彼らがそれを望んでいると言うのなら、一度や二度の失敗でそんな簡単に諦めて欲しくはないと思った。 「ただし、そういうのは全部自分たちの力でやりなさいってこと。端から人を当てにするんじゃないわ。だってあなたたちは……二人いれば何だって、できるんでしょ?」 だからあたしは胸から溢れる熱をそのまま吐き出すように、ぴしゃりと彼らに言い切った。 こういう風に言ってしまえば、彼らがまた同じ事を繰り返す可能性も無い訳ではない。
(だけどやっぱり我が身が大事なら余計なことを言わない方が良かったかな……) 今更ながら湧き上がる不安におずおずと彼らを窺っていると、 「……ふはっ!」 ――いきなり淳哉が吹き出した。 彼は腹を押さえてけらけらと笑い、やがて参ったとばかりに乱れた髪をかき上げた。 「確かに。言われなくても自分の力だけでのし上がって見せるさ」 そうして彼は吹っ切れたように晴れ晴れと笑った。
あたしはそれを見てほっと胸を撫ぜ下ろした。 (ああ、そうか) 二人からはもはや、何かに必死ですがりついているようなあの狂おしいまでの焦燥感はどこにも見当たらない。 (これで、やっとぜんぶ終わったんだわ) 気が付けば、東の空がだいぶ白ばんでいる。
◇◇◇ 「だからあたしはいったいあんたの何なのよっ」 これだけを聞くとまるで口喧嘩の最中のカップルのような言い回しだけど、それは飽くまで勘違いだ。 純哉と昭仁は短く謝罪の言葉を述べあの場を後にした。
もっともルードヴィッヒはいきなり朝日は苦手だと言い放ち、さっさと棺おけの中に引きこもろうとする。それを慌てて追いかけて、あたしは書斎で彼を厳しく問い質すことになった。 なにしろ聞きたいことは山ほどある。 ルードヴィッヒは始めて顔を合わせた時からひたすらにあたしを『下僕』扱いしていたけれど、よく考えればそれはとんでもない。
逃がすかとばかりに袖を引っつかむと、ルードヴィッヒはその秀麗な顔を嫌そうにしかめやれやれとため息をついた。 「――下僕」
ふんと嫌味に笑って肩をすくめる。
「だけど四ノ宮の言い伝えでは、あんたは本家の人間に仕えるんじゃないの? 始祖の烏有なんとかって人に使役されたって――、」
彼は本棚から一冊の本を引き出すと慣れた仕種で隠し扉を開いた。 「用件がそれだけなら余は日暮れ時まで眠りにつく。さすがに疲れた」
なにしろあの運動量にもかかわらず完全に徹夜だ。 いっそそのまま永眠しろとか思ったけれど、ルードヴィッヒはふいに何か思い出した顔であたしを振り返った。 「そうそう、すっかり忘れておったわ」 彼は面白そうにあたしのあごをひょいっと持ち上げる。 「そう言えば、たしか余はまだ食事の途中だったではないか」
そんなことは思い出さなくていいっ!! あたしは慌てて身を翻し逃亡を企てたけれど、忽然と扉の前に現れたルードヴィッヒに逃げ道を塞がれた。あたしはじりじりと後ずさる。 「ちょ、ちょっと冗談じゃないわよっ」
ルードヴィッヒは眉をひそめてため息をつく。
「下僕の為にこれほどまでに身を削って働いた情け深い余に、きさまは礼のひとつもないのか?」
それを言われるとかなり弱い。
ルードヴィッヒはわざとらしい仕種で呆れたように肩をすくめる。 「恩人に感謝も示せぬようでは、下僕どころか人としてもいささか神経を疑わざるを得んなぁ」 血も涙もない吸血鬼の分際で人の倫理観に訴えかける、その一言が決め手だった。 「わ、分かった。分かったわよっ。あんたに血をあげればいいんでしょ!」 あたしはとうとうやけっぱちになって、そう叫んでしまった。 ルードヴィッヒは途端にしてやったりとほくそ笑むけれど、あたしはせめてもの抵抗に慎重に慎重を重ねて念を押す。 「だけどちょこっと、ほんのちょこっとだからね。吸っていいのはっ」
(だからそれが信用できないんだってっ) 早速後悔が押し寄せてくるけど仕方がない。
「ほら、どうぞ」 そう言うと、ルードヴィッヒはふっと双眸を細くする。空耳のごとく小さな声が「イタダキマス」と呟いたのが、なんだか妙におかしかった。 美貌の吸血鬼はあたしの肩を押さえると、すっと首元に顔を寄せてくる。なんだかやけに背筋がぞわぞわしていたけれど、後のことを考えればそれは微細な問題だった。 あたしはぎゅっと拳を握り締め、目をつぶる。
「――力を抜け……」 吹きかかる甘い吐息にぞくりと背筋が強張る。 ルードヴィッヒは耳朶の下を幾度かついばむと、じらすようにゆっくりと首筋に唇を落とした。どこか冷ややかで湿った感触が、愛撫するように咽喉元に触れては離れていく。 「……っ」 思わず声が出そうになるのを懸命に堪える。 それは味わうように、丹念に丹念に。
次第に足もとがふらつきだす。
そんな動作が幾度となく繰り返され、あたしはふいに強く腰を引き寄せられた。
――そこがあたしの限界だった。 「〜〜〜っ。やっ、駄目! やっぱタンマっっ」 ぶわぁっと全身を粟立てたあたしは我慢できずに彼の胸を突き飛ばす。が、押し出した腕の勢いがもろに自分に跳ね返ってきて、あたしは思わずたたらを踏んだ。そのままバランスを崩して一歩二歩と後ずさるけれど、三歩目に踏むべき床はしかしどこにもなかった。 「あ、れ……?」 ぐらりと視界が傾ぐ。
周囲の光景がスローモーションのようにゆっくりと流れていく。
「ちょ、ちょっとまたこれぇっ!?」 ――そうしてあたしは懲りもせず、再び隠し階段を転がり落ちたのだった。 ◇◇◇ 重い瞼をどうにか開くと目の前に見慣れた天井が見えた。 (あ、雨漏りの染み……) たっぷり数拍間を取って慌てて身を起こすと、あたしは自分が自宅のソファーの上にいることにようやく気が付いた。 「え、ちょっと何これっ」 きょろきょろあたりを見回そうとするも、途端に後頭部に鈍痛が走る。びっくりして手をやると見事なたんこぶが出来上がっていた。ご丁寧にソファーの上には枕代わりに保冷剤まで乗っている。 「ま、まさか夢オチっ!?」 いや、さすがにそんな事は無いだろうと思うけど、それならどうして自分がこんな所にいるのか。 あまりのことにソファーの上でしばし呆然としていると、とことこと足音が聞こえリビングの扉が開いた。 「あ〜、みすずちゃん。ちょうど良かった、起きてたのね〜」
見慣れたその顔に思わずほっと息をつく。それからそんな場合ではないのだと気付き慌てるけれど、彼女はにこにこと呑気な笑顔で先手を打った。 「みすずちゃん、あとでちゃんとお礼を言わなきゃね〜」
あたしは目をぱちくりと瞬かせた。 そう言われて即座に脳裏に浮かぶのは、淳哉と昭仁の四ノ宮兄弟。
「お母さん、二人から伝言頼まれちゃった。『キジンに送るよう言われました。後日改めてお詫びに参ります』だって。いまどき珍しいくらい礼儀正しい男の子ね」 美登里さんはきゃっと恥らうように微笑むけれど、あたしはむしろ頬を引きつらせていた。
(むしろ来なくていいから、本当に――っ) 「あ、そうそう。あのね」 ぽんと手を叩き、美登里さんは今思い出したとばかりに可愛らしく首を傾げた。 「さっき弁護士の稲垣さんから電話があったんだけどね、相続の件どうするか決まりましたか、ですって」
そういえばすっかり忘れていたけれど、あたしは別荘を見るためにあそこまで行ったんじゃないか。 もっともそんな根本的な理由すら霞ませるくらい事件が立て続けに起こって、はっきり言ってそんなことを吟味するどころじゃなかった。 「――それから、みすずちゃん。ちょっと教えて欲しいんだけど」 美登里さんは天使のように愛らしい表情で首を傾げると、無邪気にあたしを覗き込んできた。 「あの二人のうち、どっちがみすずちゃんの本命なのかしら?」 首筋に残る赤い跡を指差して、わくわくと溢れんばかりの期待に満ちた顔を向けてくる。 「……」 なんだかいきなりどっと疲れがでて、あたしは何も言わずにぐったりとソファーに倒れこんだ。 もうこんなことには二度と関わりたくないと切実に思うけど、あたしは夢うつつの中で確かにこの言葉を聞いた気がする。 (きさまを喰らうのは次まで待ってやろう……) 冷たい緑の煌めきが脳裏に瞬いた。 ――事態はこれで終わりという訳にはなりそうもない。 あたしはゆっくりと目を閉じる。
【第二部へ続く】 |
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