≪黒薔薇狂詩曲≫

back / top


18 夏の最後の薔薇

 

 門真と英梨のことについては自分たちに任せてくれ。
 淳哉はあたしに向かってそう言った。
 不安そうな顔をしていたのを気遣ってくれたのだろう。けして悪いようにはしないからと、指きりげんまんまでしてくれそうな勢いだったけど、さすがにそれは遠慮しておいた。
 でもそうやって約束してくれたのだから、間違っても一族の他の人たちに売りつけるような真似はしないはずだとあたしは信じている。なにより、
『封印の魔物については英梨一人でできるような事ではない』
 昭仁は深刻な眼差しでそんなことを言っていた。そこには必ず何か裏があるはずだと、先ほどからずっと難しい顔で考え込んでいる。
 もっともそれはあたしにはまったく見当もつかない類のことだ。だから、事件究明については彼らに丸投げ――ではなく、任せておくしかないだろう。正直な所、いまだにあの一族には関わりたくないと言う思いもあるけれど、もはやそんなことは言ってもいられない。一応何か分かれば教えて欲しいとは伝えておいた。
 ちなみに不可解な事に、英梨が持っていた封印の呪物と思わしき物は、気付けばどこかになくなってしまっていた。
 あんな危険なものをそこらに放置していくことはできないと、昭仁も淳哉も目の色を変えて周囲を捜索したけれど、痕跡さえ見つけることができなかった。だから二人もとうとう諦めざるを得なかった。
 いったいこれがどういうことなのか、何が起こっているのか。それもまだまったく分からない。
 だけどこうなったらなおさら、一族全体に今回の事を明らかにするよりかは内密に探り出すほうがいいに違いない。それが彼ら二人の下した決断だった。
 もっともそんな事情が無くても、あたしは二人の事を大きな騒ぎにはしたくなかった。
 英梨はまだ目覚めない。それはランがしたことが原因というよりは、たぶん彼が隠し持っていた封印の呪物が精神的にも肉体的にも彼を蝕んでいたからだろうという話だった。そんな彼の傍らには今も門真がぴったりと寄り添っている。
 確かに色々行き違いがあり、とんでもない目に合わせてくれた二人だけれど、けして悪い子では無いという事をあたしは分かっていた。
 自分のした事をきちんと理解して、その上でちゃんとよりよい道を見出してくれたらいいなと心の底からそう思った。
 この別荘から家までは、淳哉たちが車で送ってくれると言っている。彼らは門真や眠ったままの英梨もつれて帰らなくてはいけないし、あたし自身確かにここから家まで一人で帰るのはさすがに大変だ。だから淳哉たちの申し出は非常にありがたく、あたしは素直にその言葉に甘える事にした。
 しかしその前に、あたしにはやることがあった。
 
 
 別荘の周りをてくてくと歩いていくと、建物の西側の庭でようやくあたしは目的の相手を見つけることができた。
 あたしが近付いたのに気がついていないのか何なのか、彼は独り言のようにぼそりと呟く。
「『百居ても同じ浮世に同じ花』か。確かにここは、ちっとも変わらぬな」
 彼は月光に照らされた薔薇園を見て、小さく鼻を鳴らす。盛りの時期はとうに過ぎているはずだけれど、山腹にあり夏でも涼しいこともあってまだ、薔薇は瑞々しい綺麗な花をつけていた。
 きょとんとしてしまっていたあたしに、ルードヴィッヒは言う。
「ちなみに今のは、江戸の頃にいた狂歌師の歌だ。続きは自分で調べろ」
 ルードヴィッヒはあたしの教養の無さを嘲笑うように、もったいぶってそう教えてくれる。つうか人外の癖に無駄に博識ぶるんじゃないよ。腹立つなぁ、まったく。
 しかし漆黒の魔性はそんなあたしにはちっとも興味を持たない様に、淡々と続けた。
「あの女が死んだのも、百年前のこの場所だ。もっとも余にとっては、ほんの百日足らず前のこととしか思えんのだがな」
 あたしははっとして、月光に照らされたルードヴィッヒの白皙の美貌を見上げる。そこには先程と違い微笑どころか何の表情も浮かんでいなかった。
 長い長い眠りについていた彼。
 知識としては百年が過ぎている事を理解していても、実感としてはそれはまだほんの数ヶ月前のことに過ぎない。
 あるいはどれだけの時間が経ってもその瞬間のことは、いつまでも鮮烈に記憶に残り続けると言うことか。
「それって、あなたの以前の――、」
 ふいに脳裏にその姿が浮かび上がる。
 ルードヴィッヒを百年の眠りに閉じ込めたその人。
 儚い美貌と凛とした眼差しを持った四ノ宮の本家の女性。
 なぜ一世紀も前に亡くなった人の姿をあたしは思い起こせるのか。奇妙なことに、その不思議さについてその時あたしはまったく気付いていなかった。
 ただこの美しい魔性の腕の中で息絶えたというその女性を、主と言っていいのか何と呼べばいいのか、あたしは躊躇い口ごもる。
「……いったい、どんな人だったの?」
 ルードヴィッヒがようやくあたしに視線を向けた。
 そこにある冷たく冴え渡った月のように碧い眼差し。
 さすがにぶしつけな質問だったかとあたしは思わず身を硬くするけれど、ルードヴィッヒは構わず再び視線を戻し淡々と語る。
「名を四ノ宮伊織と言った。貴様と同じ――予見の力を持つ術者だった」
「じゃああなたは、その人のことが、……好きだったの?」
 遠くを見るように薔薇園を視界に納めていたルードヴィッヒがまたしてもあたし振り返った。だけどその目には珍しく、多大に戸惑いの色が含まれている。
「はぁ?」
「はぁって、彼女の事を……その、愛してたんじゃないの?」
 今度は先程とはまた違った意味で口に出しづらく、あたしは視線を落としてそっぽを向く。
 百年前の事を知るランは言っていた。その時の主だけは、ルードヴィッヒも無理やり従わされているようではなかったと。
 ならばそれは、彼がその時の主に特別な感情を抱いていたと言うことでもまったく不自然は――。
「阿呆か、きさまは」
「言うに事欠いてそれはないでしょうっ」
 きりりと軋む胸の痛みはあっという間に霧散した。変わりにムカムカと腹立たしさが沸き起こる。ルードヴィッヒは呆れたようにため息をついた。
「あれと余とは単なる同盟者という関係であり、それ以上でもそれ以下でもない。大体あんな我が儘で自分勝手な女を、いったい誰が好きこのんで欲しがる」
 こいつの口から我が儘で自分勝手とは、その人だっていくらなんでも言われたくはないのでは無いだろうか。それとも本当にそんなとんでもない人だったとでも言うことか。
「大体あれはもう死んでいる。死者に対してどうこう思うなどという議論は無意味だな」
「じゃあ、あたしはその人の代わりなの?」
 再びルードヴィッヒがあたしを見る。
 淳哉と昭仁が来てくれた時、どうして素直に喜べなかったのか。その理由をあたしは自分でも分かっていた。
 彼らにとって真に重要なのは、あたしが父――四ノ宮怜一の娘であると言うことだけ。
 そんなつもりはなくても、彼らの目はあたしを通り越して、その背後に父の幻を見ていた。
 門真たちだって、重視していたのはあたしが一族の本家の娘で常盤闇の鬼神に縁があったと言うことだけだった。
 だから、あたしも門真や英梨のことを言えない。
 あたしはまだ、彼らの中に自分自身としての価値を見出せていない。現段階では口惜しいことに彼らの目の中に映るあたしは単なる付属品、あるいは代替品でしかないのだ。
 だからこそあたしは今ここで、彼に問い質しておかなければらなかった。
 門真や英梨に負けないように、勇気を出さなければならなかった。
「彼らはあたし自身の事は見ていないわ。彼らはあたしを通して別の人を見ている。ねぇ、ルードヴィッヒ。あなたも、……彼らと同じなの?」
 あたしは視線に力を込め、逸らすことも揺らぐこともないよう、まっすぐにルードヴィッヒを見続ける。しかし、ルードヴィッヒはあたしの決意とは裏腹に、呆れたような顔で小さく息を吐いた。
「……まったく、貴様は相も変わらず愚かだな」
「なっ――っ」
 ルードヴィッヒはあたしの顎をひょいと掬い上げた。
「貴様はいったいなんだ?」
 馬鹿にするような眼差しに、あたしはふいっとそっぽを向く。
「……っ。どうせ、あたしはあなたにとって餌でしかないんでしょ」
「そう。下僕であり、餌だな」
 ルードヴィッヒはあたしの耳元に囁きかけた。
「極上の、餌だ」
 あたしはびくっと身をこわばらせる。その声は熱く滴るかのように、艶やかに濡れている。
「美鈴」
 ルードヴィッヒはあたしの頬に指を伸ばし、繊細な手つきで乱れた髪をそっと耳にかけた。
「貴様にはきっと知るべくもないだろう。余は高貴にして至高の存在であるが、同時に満たされることのない永久の渇きの中にある」
 漆黒の魔性はあたしの首すじにそっと顔を寄せ、確かめるように匂いをかぐ。
「その飢えを癒すことができる存在は、けして多くない」
 くいっと後ろ髪が引かれ、あらわになった喉元に今度は唇を寄せられる。喉の下をすっと通った鼻筋が掠めた。
「ル、ルードヴィッ――、」
 焦らされていると思うような動きで、細く長い指が肩や背中の線をゆっくりと撫ぜていく。ぞくりと背筋が粟立った。
「だから貴様は、余にとって掛替えのない極上の餌なのだ」
 ぷつっと胸元のボタンが外された。抵抗しようとする意志は低く囁かれる甘い声に簡単に溶かされていった。
「や、あっ……」
 せめてもの抵抗に漏らされる吐息さえ許さないとばかりに、美しい魔物は首筋にきつく唇を押し付け、赤い印を刻んでいく。
「過去になど、何の意味があろうか」
 ルードヴィッヒはボタンの外された襟元――着衣の合わせ目に手を差し入れ、鎖骨の辺りをはだけさせる。夜露を含む大気が胸元を冷たくくすぐった。その冷気にぶるりと身が震える。
「へっ……」
「だからこそ、余は――、」
「へっくしょんっっ」
 ぴたっとルードヴィッヒの動きが止まった。あたしは慌ててポケットからちり紙を取り出し鼻を押さえた。妙に間の抜けた沈黙が、二人の間に横たわる。
「……」
「……」
「……」
「……たくっ」
 魔性はどうにも人間臭い仕種で額を押さえていた。
「……貴様は本当に、他人の食欲をなくすのが得意だな!」
「し、しょうがないでしょっ! ここのところずっと風邪気味でっ」
 あたしは真っ赤になって、きっとルードヴィッヒを睨みつける。
 だいたい薄手の普段着でこんな山中に連れ込まれたのだ。何だか頭痛もしていたし、風邪は確実に悪化の一途を突き進んでいる。
その上ああやって胸元をはだけられたらくしゃみの一つや二つして当然――というか、どうしてああも流されてしまっていたのか。ちょっと自分が信じられないぞっ。
 ルードヴィッヒは顔を赤くしつつも青ざめているあたしを見下ろし、呆れたようなため息をついた。
「……もうよい。貴様は棲み家に戻って体調を万全にしておけ。半病人など口にしても美味くない」
「何であんたに美味しく頂かれるために、体調管理しなきゃいけないのよっ。べつにあたしはあんたに食べられたくなんか――、」
「そうか?」
 からかうような深緑の瞳に覗き込まれあたしは一瞬怯むが、それでも威勢よく言葉を帰した。
「そうよっ」
「ならそういう事にしておいてやろう」
 ルードヴィッヒはにやりと意地の悪い笑みを浮かべる。
「余も青っ洟を垂らした子供相手では、食指の動きようもないからな」
「青っ洟とか言うなぁぁ〜っっ!!」
 耳まで赤くなったあたしは、全身全霊の力を込めてルードヴィッヒに蹴りを放った。






  ※   ※   ※




 ぽんぽんと手の中でそれを遊ばせながら、彼は帰途に着いた。
 人の手が一切加えられていない自然のままの獣道であったが、彼は苦もない様子ですたすたと進んでいく。コンクリートで舗装され排気ガスと人の毒で満ちた街中も彼は嫌いではなかったが、こうした自然の力の深いところではやはり普段は押さえ込んでいる気配を曝け出せるという開放感がある。
 さらに翠深い山の中ではあるが、ここはなんと私有地だ。だからあいたくもない他の人間や、他の魔物とすら顔を合わせる心配は皆無である。
 やがて木立の向こうに古びた庵が姿を見せ、その傍に自分が待たせている相手が立っているのに気がついた。濃色の着物に身を包んだ年若い男だ。
「よお、お出迎えかよ。熱烈な歓迎振りだな」
 皮肉な笑みを浮かべ彼は飄々と近付いていくが、相手はさらに上手で取り澄ました表情であっさりと嫌味を口にする。
「随分と遅かったな」
「うっせぇ。これでも全速力だ」
 思わず素で顔をしかめ、彼は「ほらよっ」と手の中の小箱を投げつける。その人物はこともなくそれを受け止めた。
「なんとか封印が完全に解かれる前に回収できたぜ」
「ああ、それは助かったな。こんな強大な魔物にあんな所で解放されてしまっては、山ひとつ焦土になるところだ」
「それが分かってるなら、あんな年端も行かないような子供にそんなもん持たせるなよ。相変わらずえげつねぇな」
「力を求めたのはあの子だ。私はそれの手助けをしただけだよ」
「よく言うぜ」
 呆れたように肩をすくめた彼に、男は言った。
「大口の眞神よ、四ノ宮の長姫のご様子はいかがだったか」
 ランはつっと男を見やる。
「相変わらず絶品の匂いだったぜ。気は強そうだが、そんなところも含めて可愛らしいお嬢さんだ」
「なれば鬼神は?」
「――ああ」
 長い時を生きてきた狼の霊獣は、ふっと口元を吊り上げる。
「こっちはなんとも微笑ましいご様子だったぜ。柄にもなくすっかり牙を抜かれちまっているようだ。何より今のあいつには隠しようもない弱点がある」
「なるほど……」
 男はすっと視線を上げる。
「では当初の予定通り、期が熟したところで迎えに伺うとしよう。もちろん、お前も手伝ってくれるな」
「どうせオレには拒否する権利なんて無いんだろう。ご主人様よ」
「そう拗ねるな」
 彼――四ノ宮の一族における最高権力者たる真那瀬はふっと口元に笑みを浮かべる。
「もうすぐだ。後もう少しで我らが悲願は達成される」
 彼は手の中の封印の呪物を力強く握り締めた。
「本家の姫君、そして伝説の鬼神。その両者を我が物にするために――、」
 すべては着実に、彼の望みのために動き出しているのだった。


 

【第三部へ続く】

 

 

 

BACK / TOP / BBS


Copyright(C) 2009 Kusu Mizuki.All rights reserved