夢見鳥の唄 1
「凶器とは『絶対凶悪人類撲滅文房器具』の略」




忘れないで
今は遠く離れていても
見知らぬ空の下にいても
あの時たしかに私たちは
このなつかしさの中にいた



(……歌が聞こえる?)
 はっ、と目を開けた時には授業の終わりを告げるチャイムが高らかと鳴り響いていた。
「あちゃあ、しまったなぁ」
 がやがやと席を立ち始める生徒たちの中で、俺はひとりふっとアンニュイなため息をつく。
 空が青くても、檸檬が黄色くても思い悩んでしまう青春まっしぐらなお年頃だ。
 何に心痛めても、当然といっちゃあ当然かもしれないが、この絶望感は間違えて核爆弾のスイッチを押してしまったと仮定した場合と同じぐらいに自分を責めたてる。
 つまり何が言いたいのかというと、今日もノートは真っ白だった。
 定期テストも近いというのに、これは真剣にやばい。俗に言うところのマジでヤバイ。
 さて、この未曾有の危機を回避するためにはいったい誰にノートを借りるべきかだろうか。俺の脳みそがスーパーコンピューターも真っ青な速度で計算を始める。サッカー部の田中か。いや、それともバスケ部の新堂か。悪友の顔がいくつも思い浮かぶ。
「でもあいつらみんな字ぃ汚いしなぁ」
 もちろん自分のことは棚に上げている。教科書を机にしまいながらそう呟いていると、突然、背後から衝撃が走った。
 
  ばきいぃっ!!
 
 目から星が飛び出した。眼前におがくずでもあれば実に良い感じの火種になっただろう。つまりはあまりの痛さに叫ぶことも出来ない。これは今の棚上げに対する天罰か? だとしたら神様もかなりの即決判断明朗会計で結構なことだ。
「……て、てめぇっ! いったい誰だ、何しやがる!!」
 だが相手が神であれ犬であれ関係ない。かなり本気で怒鳴り振り返ると、そこにはノートをかまえた女神、……ではなく女子生徒がひとり。いまだ向けられたままのその角でどうやらおれは殴られたらしい。明るい色をしたほわほわの髪が二つに結わかれ肩の上で揺れている。本人の言によると天然らしいがそれもあやしいものだ。
「ミサトっ、お前か! いったいどういうつもりだよ」
 うっかり涙がにじんでしまった目で睨み付けると、女子生徒は弁解の言葉を述べるどころかふふんと鼻で笑いやがった。咽喉を反らし、腕を組み、完璧見下しモード全開。むしろ見上げながら見下すとは敵ながらなかなか器用なものだ。愛くるしいとも言えなくもない童顔が、今は憎たらしくも勝ち誇った色に染め上げられている。
「シンヤ、あんたまた寝てたんでしょう。そんなに寝てると脳みそが溶けるわよ」
「な、何を根拠にそんなこと言うんだよ!」
 反論したのは脳みそ溶解説ではなく快眠疑惑について。まあ、疑惑も何もまさにその通りなのだが、当然の事のようにそう決め付けられては腹が立つ。大体こいつの席はおれよりも前にある。授業中振り向かない限り知っているはずがないのだ。さてはこやつ、エスパーなのか。今まさに天然記念物となろうとしている超能力少女ではあるまいな。
 ミサトはにやりと笑って、つんつんと自分の頬を指し示した。物好きな男子生徒からは薔薇色と賞賛されている頬。別におれはなんとも思わんが。
「ほっぺた。ノートの文字が転写されてるわよ」
 おれは慌てて軽い痺れの残る頬に手をやるが、よく考えてみればそんなはずがない。ノートは真っ白で転写される文字など初めから書かれてはいないのだ。
 まんまとしてやられた。おれはきりきりと歯軋りをしつつ、クラスメイト兼悪友の女子生徒を睨み付けた。
「おのれ……、よくも騙しよったな」
 コノウラミハラサデオクベキカ……!
 しかしミサトはすました顔で、一時は凶器(絶対凶悪人類撲滅文房器具の略)と化していたノートをおれの方へ突き出した。さらに見せつけるようにしてパタパタとあおいでいる。
「あら、せっかく人が親切にノートを見せてあげようと思ったのにいいんだ。あっそ」
「すまん、おれが悪かったっ」
 あっさりとひるがえされた手首をおれは慌てて掴んだ。
 情けないと笑いたい奴は笑えばいい。人はノートの前ではかくも無力なものなのだ。





「しっかし、シンヤ。あんた最近授業中はいっつも寝てるわねぇ」
 がりがりと必死でノートを書き写すおれの横で、ミサトが呆れたようにため息をついた。
 次の授業まであと六分。
 少々無謀ではあるが、おれは持てる潜在能力の全てを発揮してでも、この休み時間の間にノートを全て書き写すつもりでいた。
 おれは給食の嫌いなおかずはまず一番に手をつける性質だし、何よりも次の休み時間までにミサトの気が変わらないとも言い切れない。
 こんなに憎たらしい奴だが、ミサトはこれでも成績はクラスでもトップだったりする。イコール、ノートが見やすいって事は人類の共通認識だろう。だがノートが見やすいから成績が良いのか成績が良いからノートが見やすいのか、どちらが正しいのかは永遠の謎だ。似たような命題で卵が先かにわとりが先かというのもある。
「夜更かししてテレビでも見てるの?」
「別にそんなわけでもないけどよ」
 書き損じた文字を消しゴムで消すついで、にだるくなった手をぶんぶんと振る。さすがに一時間分の内容を十分で書くのは骨の折れる作業だ。休み時間のたびにこんなことをしていたら、文字通り手が疲労骨折を起こしそうである。いや、その前に腱鞘炎をおこすほうが先か?
「授業中に歌が流れてくんじゃん。あれを聞いてるといつも、ふうっと意識が遠くなってさ」
 しかし自分のほかには誰も眠くならないのだろうか。もしおれだけが特別眠くなるのなら、これは一種の睡眠障害というやつかもしれない。
 首をかしげているとミサトが変な顔でこちらを見ていたので真似して顔を歪めてみたが、身を張ったボケはあっさりスルーされる。これはこれで悲しいものである。
「はぁ?」
「はぁ、とはなんだよはぁとは。流れてんだろ、女の声で。授業中とか休み時間とかによお」
「シンヤ、あんた耳大丈夫?」
 耳といいながらも指しているのは微妙に頭部だ。なんとなく馬鹿にされている気がして、おれもまたむっと顔をしかめた。
「気付いてないのか? おまえこそ耳おかしいんじゃねぇの。だってあんなにはっきり流れてんだぜ」
「失礼ね! じゃあ聞くけど授業中にそんなの流していったい何の得があるって言うのよ」
「わかんねぇけど……、今流行りの情操教育ってやつじゃねえの?」
 おれの言葉にはぁ〜とミサトは深々とため息をついた。眉をひそめると外国人のように両手をかかげて首を振る。
「あんた馬鹿日本一決定ね。スペシャリスト馬鹿ね。考えても見なさいよ。授業中に見境なく音楽流したらうっとおしくてしょうがないじゃない。集中できないわよ、馬鹿」
「そんなもんか?」
 おれは家で宿題をやる時にはお気に入りのハードロックをがんがんにかけて気合を入れているので、いまいちミサトの言うことに納得がいかない。しっかしスペシャリスト馬鹿とは何だ。アマチュア馬鹿とか、馬鹿国家試験一級とかもあるのか?
「じゃあ、おれの聞いてた曲はいったい何なんだよ」
「そんなの、あたしが知るわけないでしょうがっ」
 噛み付くようにして、おれの疑問は一蹴された。いわゆる逆切れ。分からないならお前だってアマチュア馬鹿だな。あんまり馬鹿にしないで貰いたい。と、言うか馬鹿を競うならもっと馬鹿にしてもらったほうがいいのか? …………いや、やっぱりそれは嫌だ。
「大体あの曲、あの歌って。いったいどんなのよ。ちょっと歌ってみなさいよ」
「そ、それは……」
 口ごもるおれをミサトは訳知り顔であざ笑う。不思議の国のアリスに出てきたハートのクイーンだってこんな酷薄そうな顔はできないだろう。
「わかった。口にできないほど恥ずかしい歌なんだ」
「ばっ、ちげえよ。そんなんじゃねぇ!!」
 おれは顔を真っ赤にして否定する。
 大体恥ずかしい歌とはどんな歌だ。逆にこっちが聞きたい。
「じゃあどんな歌よ。気になるじゃない」
「ちょっと待てよ」
 カラオケボックスや自分の部屋でならともかく、教室内であらたまって歌うとなるとかなり抵抗がある。つうか気恥ずかしい。嘘だと思うなら、今度学校でやってみればいい。あたりの視線がかなり痛いはずだ。
 しかしこのままでは埒があきそうにないので(下手するとノートを取り上げられるかもしれない。それは何より恐ろしい)、おれはぎりぎりの譲歩として小さな声でメロディラインだけを口にした。何度も何度も聞いた歌なのでほぼ完璧暗記してしまっているのだ。
 だがミサト王女様はお気に召さなかったらしい。首をはねよ! と言う代わりにテイク・ワンと叫んだ。
「そんなごにょごにょと口の中でだけ歌われたってわかんないわよ。もっとはっきりと、教室中に響き渡るくらい大きな声で歌うのよ!!」
「できるかっつー――の!!」
 音楽の成績がいつもアヒルさんな人間に無茶を言うな! ……もちろんアヒルは音楽に限ったことではないけれど。一年を通してみると一匹ぐらいは醜いアヒルの仔が混じってそうなぐらいの子沢山。
 不満顔のミサトを計らずも教室中に響き渡るぐらい大きな声で突っ込んでしまったとたん、のっぺりとした、しかしやけに通りのよい声が背後からかけられた。
「何をだ?」
「きゃっ、篠崎センセェ!!」
 変に甲高い声を出してミサトがわたわたと髪の毛をいじる。
「元気がいいのは結構だが、もうチャイムは鳴っているぞ」
「はぁいっ」
 素早い動きでミサトが自分の席へと帰っていく。まるでハムスターかハツカネズミかモモンガのようだ。いや、別に頬袋はないのだが。
 他の生徒もがたがたと席につき授業の準備を始めた。
 結局話はうやむやのまま終わり、俺はほっと息をついた。しかし机の上に目を戻したとたんそれはそのままため息へと変化した。
 ノートは半分も写せてなかったのだ。