陽天下お風呂場飼育論
  
〜だから河童とは違うんだってば〜

 

 

「おい…」  

 よく晴れた日曜の午後。  

 一人暮らしの生活にも順調に慣れ、忙しい日々の中ではつい滞りがちな家の掃除をこの機会に徹底的にしてみようかと思いついた今日この頃。
 トイレを掃除し、室内を掃除し、台所を掃除し、後は風呂場だけだと扉を開けたとたんに飛び込んできたこの異質な光景。いや、確かに真昼間の風呂場というものはなぜか知らないが妙に白々しい雰囲気をもっているものだが、これはさすがに非現実と言うかなんというか。

「つうか一体なんじゃコリャ?」

 定員一名様限定の小さい浴槽の中いっぱいに、黒っぽい緑の物体が水の中をふよふよとたゆたっている。色も揺れ方もまさしく海で光合成に励んでいる海藻類そっくりなのだが、

「髪だよな…」

 それは明らかに人毛だった。
 初めはかつらでも浮いているのかと思ったのだが、よく見ればゆらゆらと揺れる長い髪の下からは肩や背中、足などの本体もうかがえる。
 ほとんど髪に覆い隠されているが、すなわちこの中に納まっているのはひとりの人間なのだ。足も伸ばせないような狭い浴槽の中でちんまりと体育座りをして頭まで浸かっている。

「まさか死体か」

 何故自分の家の浴槽に死体が入っているのかはわからないが、それならば自分が第一発見者と言うことになるだろう。善良な一般市民は直ちに警察に連絡を―――、そう思った瞬間。

  ぴくりっ

「……」  

長い髪に埋もれた肩がかすかに動いた。

「…もしや、生きているのか」

  びくっ

 今度は明らかに水面が波打つ。
 わずかな沈黙の末、私はおもむろに風呂場掃除用の洗剤を持つ手を上げると、ぱちんとそのふたを開けた。

「…問題。ここに家庭用洗剤溶液A(塩素系)と同じく洗剤溶液B(アンモニア系)がある。これを一度に混ぜ合わせたら一体何が起こるでしょうか。レッツシンキングターイム…」

 ちっ、ちっ、ちっ、ちっ―――、

 答え。毒ガスが発生する。

「では実際に実験してみよう。ちなみにこの二つの溶液を混ぜ合わせたらすぐに私は浴室のドアを閉め退避するのでそのつもりで。では実験スタート」

「ちょっ、ちょっと待ってくださ――いっっ」

 ざばりと派手な音がして浴槽の水が溢れた。
 別に今までだって隠れていたわけではないのだが、浴槽の中から現れ出でたのはずぶぬれの若い長髪男だ。腰まであろうかと言う長い黒緑の髪がべったりと全身に張り付いている。顔立ちは日本人にしては彫りが深いといった所だろうか。人の良さそうな呑気な顔をしているが、それほど不愉快な面でもない。なにはともあれとりあえず、服を着ていた分だけポイントアップだ。ただし、

「…」

 無言でズボンのポケットから携帯を取り出し、短い番号をプッシュする。
 どれだけポイントが上がろうと、人の家の浴槽に勝手に潜んでいたことによって加算された盛大なマイナスポイントが払拭されるわけではない。

「ま、待ってくださいっ。いきなりどこに掛けているんですか!?」
「110番。風呂場に潜んでいたら立派な不審者だろう」
「違うんです。これには訳がっ。ちょ、ちょっとお願い、話を聞いて!!」
「それとも変質者か。住居不当侵入罪は確実だしな」
「だから話を聞いて下さいってばぁっ」

 男が情けない顔でついにはうるうると泣き出したのを見やり、ため息をついてぱちんと携帯を閉じた。

「分かった。武士の情けだ。通報する前に話だけは聞いてやる」
「だけどやっぱり通報だけはするんですね…」
「正当防衛という事にして抹殺するぞ。…ああ、その前に私も参考として聞いておきたいことがあった」
「はっはい。なんでしょうか」

 その不審者は浴槽の中で姿勢よく正座する。顔つきだけは真面目だが妙に間の抜けた光景だ。

「貴様、一体どこから入ってきた」

 1DK風呂トイレ付きの私の部屋は、トイレ以外のどこに居たって玄関が見える。昨夜風呂を使ってから一度も外出していない私に気付かれないように浴槽に潜むのは不可能なはずだ。もしできるのだとしたら、あえてその方法を知り今後の防犯対策に役立てたいところである。

「あそこからです」

 不審者は無邪気に壁を指差した。

「…そこは無理だろう」

 不審者が指差したのは天井近くの換気用の小窓。確かにこの家では唯一鍵を掛けてなかったところだったが、けして小柄とも言えないこの男が通れるような大きさではない。小さな子供か、あるいはよほどスレンダーな女性がせいぜいだろう。

「私は頭が通れば大体どんな隙間でも通れるんです」
「きさま、ひとり万国ビックリショーか…」

 呟きに思わず感心したような響きが混じってしまい、慌てて首を振る。

「分かった。ならいい。次からはちゃんと施錠することにする。それで、おまえはいったい何なんだ。一体何のために私の家に忍び込んだんだ」
「それには聞くも涙、語るも涙の話があるのですが…、一言で言いますとね。

 ずばり、僕は人魚なんですよ」

  ぱちんっ

 私は洗剤のふたを開けた。

「ちょっと待ってくださいっ。信じられない気持ちは分かりますっ。怪しむ気持ちも分かります。ですがもうちょっと話を聞いてくださいっ」
「私は王子に捨てられ泣きながら泡になるような可憐な美少女の人魚しか信じない。ちくしょう。よくも私の夢を壊しやがったな」
「そっちですかっっ! いや、でも生物である以上男の人魚もいるんですっつうかちゃんと美少女の人魚もいますからっ。待って、落ち着いて、お願いします―っ」

 人魚(パチモン)は半泣きで悲鳴をあげた。

「…大体なんでその人魚が人んちの風呂場で体育座りしてるんだよ」

 人魚と言う物は南の海か海底にでも住んでるんじゃないのか。
 何とか冷静さを取り戻しつつも心に負った傷は癒えない。やさぐれながら私は変質者改め自称・人魚をにらみつけた。

「メルヘンじゃないんですから、現代の人魚は地上で買い物もすれば食事だってしますよ。まあ、冬以外はたいていは涼しい夜のうちにしてますけどね。もっとも今日は春めいてきたとは言えまだ冬だから大丈夫だろうと思って外出したら、予想外の熱さにやられまして…」

 なるほど。天気予報では今日は五月中旬並みの陽気と言っていた。異常気象真っ盛りである。

「段々体力もなくなってきて、もうだめだ〜、自分はこのまま干からびて干物になって死ぬんだ〜と思っていたら、ふと見あげた窓から水の気配を感じて悪いと思いながらも浸からせて頂いた次第です」
「なるほど…」

 うんうんとうなずいた。

「貴様の言いたいことは理解した」
「分かってもらえましか」

 自称・人魚はほっと胸を撫ぜ下ろした。

「じゃあ、もう警察に連絡していいな」
「えっ、ちょっ、何でですか!? 僕の事情を理解してくださったんじゃなかったんですかっ」
「違う。貴様の言いたいことを理解したにすぎない。なにより前提条件としての貴様の言い分が正しいとは限らないだろう。だから当然通報させてもらう。大体ジーンズにパーカーと言う人魚が一体どこの世にいるんだ」
「そんな殺生なっ。僕が貝で作った水着なんか着てたら、それこそ警察に通報されちゃうじゃないですかっ。ほら、ちゃんと人魚の証拠だってありますよ」

 そう言って彼はズボンの裾を捲り上げ、両手を突き出す。見てみれば、生っ白くて細い素足にはすね毛はなく代りに鱗がびっしりと生えており、両手の指の間には水掻きがついていた。
 だが私はふんと鼻を鳴らした。

「そんなの何の証拠にもならない。貴様が単に幼少時から水泳をしすぎために水掻きが発達しただけかもしれないし、重度の皮膚病患者なだけかもしれない。で、次の証拠は何だ?頭のてっ辺に皿でもついているのか?」
「それは河童の特徴ですよぅ」

 再び目を潤ませ肩を落としていた自称・人魚だが何とか気を取り直し毅然と顔を上げる。

「じゃ、じゃあこういうのはどうでしょう。僕は人魚ですからいくらでも水の中に潜っていられます。だからあなたが言う時間水の中に潜っていられたら僕が人魚だって信じてもらえますか?」
「…いいだろう。その挑戦受けてたつぞ」
「それって本当は僕のセリフですよね。じゃあ、時間はどれくらいに設定しますか」
「三十分」
「それだけでいいんですか? 一時間でも二時間でも、僕は潜っていられますよ」
「三十分でいい。その代わり、貴様が不正してこっそり呼吸をしないように、浴槽にはふたをさせてもらうがいいか」
「どんとこいですよ」

 自称・人魚は自信たっぷりに笑って胸を叩いた。
 そして人魚は風呂に潜る。身体が浮き上がってこないように狭い浴槽の中でさらに手足をつっぱっていたが、私は水を足してすぐにふたを閉めてしまったのでそれ以上は分からない。

  一分経過。

 私は物音を立てないようにこっそりと部屋に戻り、ダイニングの椅子を持ってくる。そしてふたの上に置いて重石にした。
 さらにガスの元栓をひねって風呂に点火する。
 それから風呂場を出てベッドの上で昨日買った雑誌を読み返し始めた。

  十分経過。

 段々お湯も温まって来たところだろう。だが風呂場からは何の音もしない。

  十五分経過。

 とんとんと内側からふたを叩く音がする。がたがたとふたがゆれるが、椅子が重石になって出られないようだ。

  二十分経過。

 さらに激しくふたが揺れる。浴槽自体も揺れている。だいぶ中で暴れているようだ。

  二十五分経過。

 ついにがたんっと大きな音がした。どうやら椅子がふたから転げ落ちたようだ。
 同時にざばあと水がこぼれる音がする。どたんというのは床に倒れた音だろう。

「まだ三十分たっていないぞ」
「あなたは僕を殺す気ですかーっっ!」

 五右衛門もビックリ、風呂茹での刑。

「きさまが人間じゃないなら殺人罪にはならないので大丈夫だ」
「そういう問題じゃなくってっ…! しかも殺人じゃなくても殺人魚罪にはなりますよっ」
「そんな妖怪法律なんて聞いたことがない。それはなんだ? 尻小玉を抜くと罰金が取られるのか」
「だからそれは河童ですってば…」

 人魚はほろほろと涙をこぼした。
 どうやら少し苛めすぎたらしい。

 しかし妖怪だろうが人間だろうが、一人暮らしの女性の家の風呂場に入り込んでしかもその浴槽に浸かっていたりなんかしたら、釜茹でのひとつやふたつされても文句は言えないではないかと思うのだが…。

「分かった。ならば六億九千六十二歩譲ってきさまが人間ではないと認めてやろう」
「桁が半端じゃない割にはかなり中途半端な数字ですね」
「文句があるなら前言撤回するぞ。だが、いつからうちの風呂場に潜んでいたかは知らないが、いくらなんでもそろそろ体力も回復した頃だろう。何故いつまでも浴槽の中に入っていたんだ」
「それは…」

 人魚が口ごもった。

「このお風呂場の持ち主に、ひとつお願いがあったんですけど―――、もういいです…」
「何だ、気になるじゃないか。言え」
「い、嫌ですっ」
「いいから言えってば」
「言えませんっっ」
「言うんだっ」

 何度かの押し問答の末、人魚はしぶしぶと言った感じで口を開いた。

「実は、このお風呂場の雰囲気がかなり気に入ったので―――、可愛いペットでも飼いませんか、と」
「ペット…、犬や猫か? それとも風呂場ということは金魚か鯉か――、」
「僕です」

 人魚は自分を指差してにっこりと微笑んだ。

「夜鳴きもしないし散歩も必要なし。しつけだって済んでます。淋しい時の慰めに―――、」
「…さて、灯油は一体どこに仕舞ってあったかな」
「灯油って!? 一体何をするつもりなんですかっ!? うああっ、だから僕は言いたくなかったんですよっっ」
「河童の癖に生意気な…。あいにくとヒモを養う余裕はないんでね」
「河童じゃないし、ヒモじゃなくてペットですよ、ペット。人畜無害な愛玩動物ですっ」
「大差ないっつうか余計悪いような気もするんだが…。大体食費だって掛かるんだろうが」

 人畜無害な人型ペット(Not河童)はにっこり笑顔で首を振る。

「いえいえ、そんなことはないですよ。リーズナブルなことこの上ないですよ。毎日魚河岸直送の鮮魚を一キロほど―――、」
「もしもし、警察ですか?」
「キュウリ二十本で結構ですっっ」
「やっぱり河童じゃないか」
「―――もう、河童でいいです…」

 人魚(あるいは河童)はしくしくと泣きながらも懸命にこちらをうかがう。

「それで、僕を飼ってくれはしないでしょうか。むしろ今となっては追い出された方が幸せになれる気がしないでもないので、いっそ断っていただけた方が有り難いのですが…、」

 ほとんど逃げ腰のその生き物の上から下までをじっくり眺め、私はしばし思案する。
 そしておもむろにうなずいた。

「よし。いいだろう」
「はっ?」

 人魚は大きく目を見開いた。

「今…、なんておっしゃいました?」
「飼ってやってもいい、と言ったんだ。多少女々しく口煩くもあるが、私はお前を気に入った。うちの風呂場で飼ってやる。このアパートはペット禁止だが魚類と両生類だったら構わないと言っていたしな」
「両生類はOKって、それって一体どんな大家さんなんですかっ」
「その代わり、ひとつ条件があるぞ」
「条件…」

 人魚はあからさまに怯えた表情を浮かべた。微笑む顔は完全に引きつっている。

「それって一体なんでしょう…」
「週に一度、私の代りに風呂場を掃除すること。それから食事はスーパーで売っている魚の切り身でも文句を言わないこと。分かったな」

 人魚は再び目をぱちくりとさせた。



 ちなみに、それ以来私が家の風呂場を使用できなくなったことは、あえて言うまでもないだろう。


【終】

 

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