天国観光ツアー

 

     2月8日。

 冷たい小雨の降りしきる中、飛行機は大地を飛び立った。

 あまりにも人気のこのツアー。

 参加できた僕は幸運なんだと思う。

 飛行機は空を目指してぐんぐんと昇っていく。

 地上の景色はだんだんと小さくなっていく。

 川も、木も、車も、建物も。人も。

 自分と大地を引き離す、距離という名の隔たり。

 そんな別離に思いをはせる暇もなく、 飛行機は突然真っ白い雲の中に突っ込んだ。

 窓の外は何も見えない。

 立ち込める白雲。それは白い闇にも似ているとも思う。

 先の見えない純白だ。

 だがそれもいつの間にか。

 青い色がかすめたかと思うとそこはすでに雲の上で。

 抜けるような青空が広がり、あまりにも強い日差しに目が眩んだ。

 ここは非常識なまでに良い天気。

 青空と雲の境目も驚くほどの明瞭だ。

 目前に広がる雲の平野は凪いだ海のように静かでなめらか。

 まるで広大な雪原のようだと。

 僕はふと思う。

 地平線にも似た雲の果てでは雪山のように雲の峰が連なっている。

 ところどころに盛り上がる塊は雲をまとった樹木。

 その陰には小川が流れ小さな家が建っている。

 飛行機はどんどん昇っていく。

 遊具の置かれた児童公園。

 モダンな意匠の美術館。

 何もかもが青くて白い。

 刺すような日差しは凄烈な光を放っているのに、

 雲の上はまるで真夜中のような静けさに包まれている。

 誰もが息を殺して見ているのだろう。

 飛行機の中にあるのは耳の痛くなるような静寂だけだった。

 エンジンの低い唸り声がどこか遠くで歌っている。

 突然。

 がくんと高度が落ちた。

 白い平野がだんだんと近づいてくる。


あ、人がいる


 誰かが叫んだ。

 真っ白い平原にはっきりと人影が見えた。

 そこかしこに人が集まり、小さな集団をつくり、大きく手を振っている。

 顔は逆光でよく見えないが、それでもどの顔もにこやかに微笑んでいるのが分かった。

おーい

 ガラス越しにさえその声が聞こえた気がした。

がたんっ

 前のほうの席で誰かが立った。

 窓にすがりつき何かを叫んでいる。

 見れば何人かがもどかしそうに窓ガラスに触れ、

 眼球を涙で潤ませている。

 天上と地上とに別たれた人たちが。

 今この瞬間だけは同じ高さで向かい合っている。

 思わず手を伸ばした爪の先が、ガラスにぶつかってひび割れた。

 だがそんなことはお構いなしに、

 機体はずぶずぶと雲の中に沈んでいく。

 再び視界は白一色に埋め尽くされ。


  それきり。
   何も見えなくなった。



 飛行機は地上へ帰っていく。

 あまりにも短い邂逅が終わる。

 誰もが名残惜しさに涙を流し、

 ひと目逢えた喜びにため息を吐く。

 天つ国に降り立つ許可を持たない人々は、

 なすすべもなく地上に連れ戻された。

 こうして短い観光ツアーは終わりを告げ、

 僕は久しぶりに硬い大地を踏みしめた。

 空を見上げれば、雲の隙間から太陽の光が差し込んでいる。

 天国を照らすものよりかはいくぶん柔らかいその光。

 これが地上で生きるもののための光だ。


―――だが、いつの日にか


 僕はふいに思い至る。


 いつの日にか、きっと誰もがあそこに行くのだろう。

 そして眩い太陽の光に目を細めながら、

 懐かしい人たちに手を振るのだ。



 天国への観光ツアーに。


 

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