≪人に祈りを、宇宙に実りを≫

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『808ファームの日常』 <1>

 

 こめかみを流れ落ちた汗を手の甲で拭ったら、今度はなにやらむず痒くなってしまった。
 頬を肩に擦り付けると、布地が黒く汚れる。どうやら土がついてしまったらしい。
 もっとも、そんなのはいつものことだ。こびり付く土汚れも、流れ落ちる汗も、彼女にとっては勲章のようなもの。いわゆる尊い労働の証と言える。
「今日もみんな、ご機嫌ねぇ」
 腰に下げた携帯ラジオから流れる音楽の合間を縫うように、彼女――ミノリは晴れ晴れと歌うようにつぶやいた。
 頭上から照りつける光は自分にはいささか眩しいけれど、足元の『子供たち』は生き生きと、元気一杯にその恩恵を受け取っている。
 ナス、トマト、ピーマン、きゅうり、とうもろこし。
 どれもミノリが精魂込めて育てた、愛しい野菜たちである。
 ミノリは首をコキコキと鳴らして再び作業に没頭するが、ふいに腰につけたラジオの音楽が止み、代わりにアナウンサーの硬い声が流れ出した。

『臨時ニュースをお伝えします。本日未明、第七辺境方面地区にて大型旅客船が襲われる被害がありました。犯人は不明ですが、近頃急増している海賊被害によるものと見られており、国際警備部隊は周囲へのいっそうの警戒を呼びかけております……』

「第七地区って隣じゃない。ぶっそうな話ね」
 再び流れ始める音楽を聴きながら、収穫する野菜に鋏を向ける。
「まぁ、こっちまでやってくるなんてことはないでしょうけど」
「ミノリ」
「そろそろ出荷で忙しくなるわけだし」
「ミノリ」
「関税のチェックが厳しくなって荷が出せないとかがなければ」
「ミノリ」
「わたしたちには関係は……って、さっきから何なのよっ!」
 壊れたプレイヤーのように、ひとつ調子で繰り返される言葉。耐え切れなくなったミノリは声の主を怒鳴りつける。なぜこの男は、独り言くらい言い終わるまで待っていてくれないのか。
 振り返った先にいたのは、背の高い黒髪の男だった。頭身の高さの割には貧相な印象はなく、かと言ってごつい印象を受けるほどに筋肉過剰なわけでもない。顔立ちも体格もスマートであるが、如何せんぴくりとも動かない表情筋が男に冷たく近寄りがたい雰囲気を与えていた。
「返事がないから、聞こえてないのかと思った」
 だが、ミノリはそんな人好きのしない印象など一顧だにせず、男をねめつける。
「聞こえてるに決まってるじゃない。そもそもだからって、そんな何度も名前を呼ばなくてもいいでしょうに」
「そうだな」
 どこか噛み合わない会話に、ミノリはわずかに肩を落とす。それでもこの程度でいちいち気を落としていたら身が持たないと、ミノリは気を取り直した。
「それで、ソルト。警備主任のあなたがいったい何の用事? 海賊船でも襲ってきた?」
 冗談めかしてそう尋ねるが、ソルトと呼ばれた男は無表情で首を振った。
「いや、しばらくここを離れるので、その報告を」
「離れる?」
 ミノリはきょとんとした顔で首を傾げた。そうするとただでさえ童顔の気がある顔が、ますます女子学生のように見えるのだが、ミノリ自身はそれに気付いていない。
「有休の届出って貰ってたっけ?」
「いや、仕事としてだ」
 変に集中力が途切れてしまったので、いっそ一休みしようとミノリは腰を上げる。汗を拭きながら歩き出すと、その後ろをソルトが雛鳥のように付いてくる。もっとも大きさを言うならば、ミノリが雛鳥でソルトがドーベルマンとでもしたほうが妥当であるが。
「何かトラブルでもあったの?」
 農園の出口に向かいながら、ミノリはソルトを見上げて尋ねる。座っていても立っていても、ソルトの顔がだいぶ上にあるのは変わらない。相変わらず首が痛くなると、ミノリはいつも意味なく八つ当たりしたい気分に駆られるのだが、大人のたしなみとしてあえてそれを口に出すことはしない。
「先ほど、緊急信号を受信した。平均運行速度で約一日の距離に難破船があるらしい。近隣には他に救難に向かえる船はないようだ」
「ああ、まぁここも“ド”辺境だしねぇ」
 ミノリは思わず苦笑してうなずいた。壁のパネルを操作しながらソルトに答える。
「分かったわ。そういうことなら行ってらっしゃい。最近はここら辺も物騒みたいだから、気をつけるのよ」
 緊急信号を受信した場合は、そこからもっとも近い人間が救助に向かわなければならないと、国際法で定められている。この広い『海』では、例え救護船などに助けを求めてもなかなかそれに気付かない、あるいは間に合わないことも多々あるので、気付いた人間がそれを助けるというのはギブ&テイクとして理にかなっている。
 それを考えれば、この場合は『ミノリたち』が救助に向かうのが、順当なところだろう。
 もっとも彼にしてもれば、普段の職分を越えた思いがけない出張である。戻ってきたら労ってやろうなどと考えながら、パネルの操作を終えたミノリが扉を開けると、途端に尋常でない言い争いの声が遠くの方から響いて耳に飛び込んでくる。
「えっ、な、なに……?」
 ぎょっとして思わず足を止めるミノリに、ソルトは何食わぬ顔で答えた。
「そう言えば、先ほどからずっとプラムとシナモンが何やら言い争いをしていたな」
「ちょっ、あなた、そういう事はもっと早く言いなさいよっ」
 ミノリは野菜籠を小脇に抱えたまま、慌てて廊下を走り出す。ソルトもその後を平然とした顔で追いかけた。
 ゆっくりと閉まっていく扉の向こうではパネル操作に従って、赤く照り輝く人工太陽がゆっくり東壁面より消えていくのだった。




 廊下を進むに従って、言い争いの声はどんどん大きくなっていく。
 慌てて走るミノリであったが、廊下の角を曲がった途端、出会い頭に誰かとぶつかった。
 そのままひっくり返るミノリであったが、身を守るよりも先に小脇に抱えた野菜をとっさに庇ってしまう。いわゆる条件反射だ。そんな彼女を背後に追い着いて来たソルトが、卒なく支えた。
「うわっ。悪いっ、局長。大丈夫っすか!?」
 ミノリがひっくり返りかけたのは体格差があるためで、ぶつかった相手は数歩よろめいて壁に手を突いたものの転ぶようなことはなかった。ミノリと衝突したのは、背の低いそばかす顔の青年だった。
「うん、平気。ソルトが支えてくれたから」
「そっか。でもちょうど良かった。姐さんと嬢ちゃんが喧嘩して、オレじゃあ止められなくって」
「分かってるわ、スコッチ。いま、向かってる最中だから」
 そう言って、ちょうど良いとばかりに野菜籠をスコッチと呼ばれた青年に押し付けて、ミノリは再び走り出す。思わずそれを受け取ってしまった彼も、籠を両腕に抱えたまま併走して付いてきた。
「そういえば局長。こんな時になんですが、頼みがあるんっす!」
「なぁに」
 走りながらそう声をかけるスコッチに、ミノリもまた足を止めること無く聞き返す。
「オレ、ここに来てからトラクターとコンバインの修理くらいしかしてないんっすけど! オレ、もっと格好良い機体を弄りたいっす」
「トラクターもコンバインも、格好良いじゃない」
 間髪入れずミノリは切り返す。低い駆動音を立てて動く物々しい巨体、機能美に溢れる無骨なフォルム。どちらも農作業に欠かすことの出来ない、大切な相棒であるとうっとり目を細めさえする。
「いや、そうじゃなくって!」
 そんなミノリの煩悩を妨害したスコッチはじろりと睨み付けられて、慌てて「もちろん格好良いことは同意しますが!」と言い添える。
「でも、オレの本職は農業機械の整備士じゃなくてですね」
 涙目になって訴えかける彼に、ミノリはぴたりと足を止めた。急停止に追いつけず、数歩行き過ぎたスコッチが慌てて戻ってくる。
「スコッチ、私たち808ファームは慢性的な人手不足。お互い、本意じゃない仕事を任されることもあるわ。でもね、スコッチがしている仕事はスコッチにしかできないからこそお願いしているのよ」
 ミノリはにっこりと笑ってスコッチの肩をぽんと叩いた。
「まぁ、ここに配属された以上は、運が悪かったと思って諦めて。あ、ついでにストレス解消にはほうれん草が効くらしいわよ」
 そうして再び走り出すミノリの背後では、すげなく希望を却下されたスコッチが膝を付いて落ち込んでいる。
「う〜ん、そんなに農耕車整備が好きじゃないのかしら。でも、だからって整備してくれる人が誰もいないと困っちゃうのよね」
 ミノリは走りながら、併走するソルトを振り返る。
「ねぇ、ソルト。あなたも『本職』ではない仕事を任されるって不満かしら?」
 全力疾走するミノリに付いて行っているとは思えないほどに、ソルトは静かに首を振る。
「いや、自分は今の仕事のほうが性に合っている」
 淡々とした感情の起伏を伺わせない台詞ではあるものの、彼が世辞や嘘を付けるほどに器用ではないと知っているミノリは照れたようにうなずいた。
「そっか、ありがとう」
 飽きもせずに続く言い争いの声は、その内容がはっきりと聞き取れるほどに近付いている。
 ミノリは廊下の突き当たりにある扉に手を当てると、それを押し開いた。

 

 

 

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