砂上楼閣奇譚
++ pandora1 ++

 

 世界は砂で満たされる
 雨は気まぐれに大地をしめらせ、人々は海を知らない
 乾いた風が地表を走り、ちりちりと音を立てて焼ける砂
 灼熱の昼に、極寒の夜
 生命が存在するにはあまりにも苛酷な環境の中
 それでも
 必死で生きる者達はいる
 神の悪意にもめげず、世界を謳歌する者が……


 
 *  *  *  *
 
 

 この世には、開けてはいけない箱がある。
 
 
 私は崩れ落ちるように足を止め、呼吸を整えた。
 心臓が爆発しそうなほどに高鳴っている。こめかみから顎へとつたう汗の滴がやけに気に障った。
 これまでどんなに身を酷使してもここまで変調をきたす事はなかった。そう訓練してきたからだ。
(なんで……)
 なぜ私がこのような目に遭っているのか。まったくもって理解できない。
 舌打ちをして木の幹を拳で殴りつける。
 そう。
 ≪木≫の幹だ。
 鬱そうと茂った森の中で、私は自分の正気を疑いたかった。
(ここは、どこ……?)
 
 世界は砂に覆われている。
 乾いた沙漠に囲まれ、天を突く山脈が地表を見下ろすこの世界。
 もちろん緑なら点在するオアシスを囲んでいるし、細々とながらも村々には畑がある。場所によっては林だってある。
 しかし、あたりの視界を遮るほど密に空間を埋める木々などというものを私は知らなかった。いや、伝聞でなら一ヶ所にだけ存在していると言う事を耳にしたことはあるが、それがここであるはずがない。だいいち私がいた場所とでは国と山脈一つ隔てている。
 だが今私には目前に広がる光景を否定することは、どうしたってできなかった。
 視覚だけではない。常に聴覚を刺激する葉擦れの音、むっとする濃厚な草の匂いに私はくらくらと目眩を覚える。
(駄目だ)
 私は首を振る。
 それは初めて遭遇する不可解な状況に絶望したわけではない。
 その逆だ。
 私はこんな所で諦める訳にはいかないのだ。私には申し付かった重大な使命がある。
 例えどんな状況下にあろうとも、間違いなく標的を追い詰めなくてはならない。
 私は改めて意志を強く固めると立ち上がった。
 大きく息を吸い込むと、ねっとりと緑の気配を濃厚に含んだ空気に口の中が苦くなった気がした。
 
 
 砂漠でターゲットを追う時は砂を読む。
 時間が経てば風が痕跡を隠してしまうが、それでも砂には足跡がくっきりと残る。素人には分かりにくいかも知れないが訓練された私たちには一目瞭然だった。
 私はじっと足元を見た。
 砂漠とは違い下草に覆われた地面は足跡が判別しにくい。私は諦めて顔を上げた。これほど枝葉が密集した中で道からはずれようとすれば、逆に痕跡が目立つことだろう。
 それに自分が追跡している相手は現在手負いだ。逃亡の痕跡を隠す余裕はないはず。
 もっとも手負いだからこそ死に物狂いで向かってくる相手に、油断は禁物である。仕留めるまでの僅かな隙に逃げられてしまったのだって、こんな小物ならば簡単に片をつけられると供も連れずに単独行動に走った結果だ。
 慢心はすべてを台無しにする。今はただ汚名を返上するために全力を注がなくては。
 用心しつつ見知らぬ道を進んでいた私は枝の折れる音にはっと振り返った。反射的にナイフを投擲(とうてき)する。
 しかし、――やはり私はこの常識を超えた空間に平静を失っていたらしい。それは普段の自分からは信じられないような大失態だった。
 ナイフの向かう先にいたもの。
 それは私が追っていた標的では無い。見知らぬ青年だったのだ。
(しまった……っ!)
 とっさに投げたナイフに手を伸ばすがそんなことで刃の勢いは衰えない。衰えるはずがない。
 私は腕にはかなりの自信がある。銀色の凶器は違えようもなく、呆然とこちらを見る青年の眉間を貫くはずだった。
 だが。
 そうはならなかった。
 外した訳ではない。むしろ青年は避けることもしなかった。
 しかしナイフは青年の手前でまるで戸惑いでもしたかのようにスピードを緩め、停止し、そのまま地面に落ちたのだ。
 それは到底ありえない――あってはならないことだった。
「なんだ……、人間じゃないか」
 ぼそりとしたつぶやき。
 私は息を呑んだ。
 そして顔を引きつらせて後退る。
 人間とは違う。
 これは人ではないものだ。
(魔族……っ!)
 言葉もない私の前で青年――人間の形を取ったそれは、何気ない仕種で草の上に落ちたナイフを拾おうと身をかがめる。そしてそのままこちらを見た。お辞儀をするように身体を二つに折った不自然な体勢で、不思議そうに首をかしげる。
「なに?」
 私は呆気に取られた。
 それどころか相手がナイフを手に取ったらすぐさま攻撃に移るべく構えていた武器を、私は思わず下に降ろしてしまった。
 相手はあまりにも無防備だった。いや、奴が本当に私の思い描いているような存在ならば、いくら無防備であってもそうやすやすと攻撃を喰らったりはしないだろう。先ほどのように。
 しかし、それは無邪気だった。
 自分でもおかしな表現だとわかっているが、そうなのだ。それからは攻撃の意思というか、敵意というものがまったく感じられなかった。むしろ子供のようなあどけなさすら感じられる。
 もっとも完全に油断することはさすがにできず、武器から手は離さぬまま私は「ここはどこだ」と問おうとしたが、それよりも先に向こうが口を開いた。
「人間がどうやってボクの紡ぐ夢の中に入り込んだ?」
「紡ぐ夢……?」
 意味が分からない。
 何かの比喩だろうか。
 私は自分でもわけがわからないまま、なぜかしどろもどろになりつつ言い訳した。
「私はある魔族を追いかけてきた。灰色の毛並みのウェアウルフだ」
「ああ、さっき狼が一匹飛び込んできたと思ったら、追われてたのか。傷だらけだったからどうしたのかと思ってた」
 再びかくんと首をかしげる。だが何か疑問がある訳でもないようだ。たぶん癖なのだろう。 
「あとをつけたんだ。だから人間が入ってこられたんだ」
 エメラルド色の髪がさらりと揺れる。煙った紫の瞳がやけにピカピカ光って見える。
 そう。
 そのウェアウルフを傷付けたのは私だ。だが傷付けることが最終的な目的ではなかった。
「居場所を知っているなら私に教えるんだ。そしたら……」
 そしたら?
 私は何をするつもりだ?
 私は自問する。答えは分かりきったことだった。
(殺す……)
 それは覆すこともできない自明の理。そのために自分は今ここにいるし、それが私の役割。
 だがどうしてだろう。それを今目の前にいる相手に告げることが、どうしてもできなかった。私はただぎゅっと唇を噛みしめる。
「教える? 構わないよ。でももう彼を傷付けることは許されない。ここは魔族にとっての、一種の平和領域(アジール)だから」
「それは、聞けない」
「なぜ?」
 何故。
 私は答えに詰まった。
 そんなことを聞くものは今まで一度もいなかった。
 あたりまえだ。
 聞くよりも先に、私はいつもその命を絶っていた。
 それが使命だから。それしかできないから。そうするべきだから。
 それは私にとってはあまりに当然の事で当然だからとしか答えられない。
 だが私は愕然とした。
 私は今はじめて気付いたのだ。
 それはあくまで私に、私たちにとってだけの『当然』なのだと。
「私は……ゼピュロスの、巫女長だ」
 それが理由。
 それだけの理由。
「もう一度言う。居場所を教えるんだ。そうしたら――っ」
 エメラルド色の髪のそれ、すなわち魔族の青年はかくんと首をかしげた。
「ゼピュロスの、巫女長?」
 私は魔族の顔が恐怖に、憤怒に、憎悪に色取られることを覚悟した。
 魔族にとって私たちは、そう反応されて当然の存在なのだから。
 だがあどけない顔立ちの魔族は表情を変えぬまま、今度は逆の方向にかくんと首を傾ける。
「ボクは芙蓉。でもまわりはこうとも呼ぶ。夢を紡ぐもの。封印の要。世界の礎。それから」
 煙った紫の目が真っ直ぐ私を貫く。
 
「魔王」
 
 私は。
 武器を向けた。
 条件反射のように、その魔族に襲いかかった。
 何を言われたか分からない。
 それでも脳よりも先に身体が反応した。
 だが武器が魔族に触れる直前、
 突風が吹いた。
 木の葉が舞い上がり視界を遮る。
「ぐぅ……」
 息もできないほどの強風に私は顔を歪める。
 魔王が口を開いた。
「攻撃の意思を持つものはここには居られない。でもまた来るといい。ボクはゼピュロスの巫女長が気に入った。入り口はいつでも開けておく……」
 舞い散る木の葉の隙間から、エメラルド色の髪の魔王の口元に笑みが浮かんだような気がした。

 

 

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