月明かりの無い夜の庭にぽつんとランプの明かりが灯った。ゆらゆらと淡い光を放つ灯火はともすれば宵闇にすくみそうになる心をそっと慰撫するが、その分周囲の闇はより妖しげに深く濃密になっていく。世界を隈なく覆う漆黒に対するには、その小さな灯かりはあまりにも心もとないのだ。
だがそんなささやかな灯かりと星の瞬きを味方に、ひとりの青年が夜の闇の中に立っていた。じっと耳を澄ましているかのように目を閉じ、ぴくりとも動かない。彼の精悍な顔立ちとあいまって、まるで神代の英雄をモチーフにした立像のようである。 だが彼は石膏や大理石で作られた彫刻ではなく生身の人間である。その証拠に今まできゅっと閉じられていた唇がわずかに開き、吐息が漏れた。 「遅いな…」 どこからか聞こえる浮れ烏の鳴き声にすらかき消されそうな小さな声。ため息混じりのその言葉はどこか憮然としたような響きを持っている。
月夜の晩ならその動きで時間を推測できるのだが、新月となるとそうもいかない。
「まさか怖気て逃げ出したか?」
刹那。 ぞくりと全身が総毛立った。 ( ―――気配などなかったぞ!?) 青年は振り返りざま飛び退る。
これでも自分は軍人だ。剣を手にする人間として、背後に人が立たれて気付かないはずがない。 しかしそんなゼーヴルムの心境などかけらも気にかけず、シエロはしてやったりとほくそえむ。 「どうだい、驚いただろう。気配を隠すのは俺の八つの特技の一つだ」 腹立ちまぎれに睨み付けるが、シエロはどこ吹く風で肩をすくめた。 「冗談だ。そうピリピリすんなよ。そんなことよりこんな時間にいったい俺に何のようだい。まさか愛の告白だなんて言わないよな。そんなこと言ったら俺はそれこそ駆け足で逃げだすぜ?」 だがそんな彼の軽口を半ば無視する形で、ゼーヴルムは二振りの剣を取り出し、交差させる形でそれを地面に突き刺した。 「シエロ・ヴァガンス。好きな方を取れ」
鬼気迫るぜーヴルムの視線を受けて、意味する所を察したシエロは頭を抱え天を仰いだ。 「恋文じゃなくて果たし状のほうかよ。それもこんな古風な決闘の形式まで持ち出して…。お前いったい何考えてるのさ」 つまりうやむやのまま中断してしまった手合わせの続きをしようということらしい。シエロは実に嫌そうな顔をするがゼーヴルムは一歩も引かない。それどころか早く剣を取れとシエロをせつく。 「待てよ、待てってば! そんなせっかくジェムも目を覚ましたって言うときに止めようぜ」
シエロは不快そうに剣を覗き込み、さらに眉をひそめる。 「おい、これって真剣じゃないか。いったいどこから借りてきたのさ。刃がついてるぞ」
さも当然と言わんばかりの現役軍人にシエロはため息をついた。 「俺は使わないぞ。だいたい剣を振るうなんて俺の趣味じゃない」 ふところから一本の枝を取り出す。どこに入れてあったのだか、どうやらいまだに持っていたらしい。
「…手加減はしないぞ」 ちぇっと舌打ちする。 「ルールはこの前と同じでいいね。君から剣を手放させることができれば俺の勝ち。俺に一太刀でも浴びせられれば――、」 シエロがぽりぽりと頭を掻いた。 「やると決めたならすぐやるぞ。今度は、余計な邪魔が入らないうちにな」 呆れ混じりのシエロのため息も、ゼーヴルムの強固な意思を曇らせることは出来なかった。
「うわっ」 シエロはそれをなんとか紙一重で避けた。 「ちょ、ちょっとっっ」 それすら避けられると、今度は剣を返しざま垂直に剣を振う。 「待っ、待って。タンマ、タンマ!!」 慌ててその間合いから逃亡を果たし、シエロはぜいぜいと息を切らす。 「どうした、まだ始まったばかりだぞ」
シエロの目に感心したような色が浮かんだ。 それもそのはず。 「失敗した…。ねえ、悪いけどやっぱりこれやめにしない? なんかかなり不毛な事をしているような気がヒシヒシと」
本気で困っているらしいシエロにため息をつき、ゼーヴルムはますます冷たい目線を差し向けた。 「悩むことなどあるまい。ようは貴様が本気を出せばいいだけの話だ」 たとえるならば、それはいかなる表情も消し去りあらゆる感情をこそぎ落としたような酷薄な声。
ゼーヴルムはシエロの困惑も賞賛もこれっぽっちとして信じていはいなかった。
ぎりぎりでの回避。それは言い換えれば、全て最小限の動作という事なのだ。 「いや、だってこっちにも都合と言うものがあってさあ」 シエロはぽりぽりと頭を掻き、首を傾ける。それは奢りも嘲りも無い、ある種無邪気ともとれるようなしぐさだ。だがそのあからさまな言動は、つまりは実力を出し切ってない事を毛頭も隠すつもりが無いということ。
「これ以上手を抜いて立ち合うつもりならば、それは私に対する侮辱と受け取るぞ」
静かなひと言の中に、煮えたぎるようなゼーヴルムの本気を見て取って、シエロはついに投げやるように怒鳴った。「海の民のくせにめちゃくちゃ血の気が多いんだから…」とぶつぶつとぼやきながらとんとんとつま先で地面を叩く。 「ようやく本気を出す気になったか。往生際の悪い奴め」 イーっと子供のような表情を作るシエロだが、その足元は徐々に、しかし確実にまるで踊るようなステップを踏み続けていった。 「―――リック・ラック・スナップ・イッチ…」 シエロの口からかすかに歌のような呟きがもれる。いや、事実それは歌だった。しかしかといって呪歌や呪文などというたいそうなものではない。ヴェストリ大陸の子供なら一度は口ずさんだことがあるようなたわいもない童謡だ。それもシエロが好んでいるというだけの歌。そのリズムにあわせながらシエロは軽やかに足踏みする。 「…何やっている」 いきなり舞い始めるシエロをゼーヴルムは呆れたような目で見据えた。
「準備運動だよ」 シエロはしれっと答えると、からかうような眼差しでゼーヴルムを見た。 「さあ、どこからでもかかってきたら?」 準備は出来たとばかりにゼーヴルムを招くが、その足はいまだ軽やかにリズムを刻みつづけている。はっきり言って不気味なことこの上ないが、そんなことで怯むようなゼーヴルムではなかった。
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