第二章 2、「デッド・ムーン」(3)

 

 スティグマはジェムの部屋を出ると、そのまま真っ直ぐ居間へ向かった。この建物はスティグマが村から借り受けている家で診療所も兼ねている。そのため部屋数もそれなりにあり、ジェムが目覚めるまでの間、シエロたち三人も一時的にこの家に泊めさせてもらっていた。
 向かった部屋には六人掛けの大きなテーブルがありフィオリトゥーラのほかジェムの仲間三人が腰掛けていた。彼があらかじめ呼んでおいたのだ。

 スティグマが席に着くとすかさずお茶が用意されたが、匂いをかいでそれがシエロ特製スペシャルティーだと知れると、口を付けずに受け皿に戻した。入れた当人の他にお茶を飲んでいる人間はおらず、シエロはちぇっと舌打ちする。

「いったいどのような要件で私たちは呼ばれたのだ」

 ゼーヴルムが厳しい視線をスティグマに向けた。警戒心もあらわなその瞳は、くだらない話を始めたらただでは済まないと言っているようでもある。

「もしかするとジェムの話か? もしかするとあいつ、何か重い病気にかかっているのか?」

 何かを察したのか、不安げな表情を見せるバッツにスティグマは苦笑して首を振った。

「そういう訳ではない。ただ気になることがあってな。聞きたいことがいくつかある」

 本題に入る前に、スティグマは隣に座るフィオリトゥーラに目を向けた。

「フィオリ、お前は席を外しなさい」

「え、なんでよ。あたしはいやよ」

 フィオリは驚いたようにパッチリとした目をさらに大きく見開く。

「言う事を聞くんだ。これからジェム君の個人的な事情に関わるような話になるかもしれない。部外者はいないほうがいい」

 反論を許さない厳しい声は、彼が見かけとは裏はらに自分の仕事に誇りと責任感を持っていることをゼーヴルムたちに印象付けた。
 のけ者にされるのが気にくわないのか、少女はぷっくりと頬を膨らませる。

「別に構わないよ。あたりに吹聴して回らないって約束してくれるなら、一緒にいたってね」

 それでも結局は素直に退出しようとしていた少女は、シエロのその言葉にぱっと顔を輝かせた。

「ホント!? 嬉しいっ」

 身を乗り出して、感極まったように向かいの席に座るシエロの手を握る。そしてはっとスティグマを見て、慌てて手を離し彼の傍に身を寄せるようにして腰を据えなおした。

「おい、シエロ・ヴァガンス」

 ゼーヴルムが咎めるように声をかけるが、シエロは平然と組んだ指の上に顎を載せ微笑む。

「そこまで気にする必要はないよ。だいいち部外者の程度で言ったら、俺らもこの娘もそう変わらないじゃないか」

 自分達だってジェムと会ってまだ何ヶ月も経っていない。ほとんど他人同然だ。

「だったら彼女の事だって、ジェムはそう気にはしないさ」

 所詮それは単なる憶測に過ぎないが、シエロはさながら本人の意思を代弁しているかのように堂々と語る。
 ゼーヴルムは深々とため息をついた。

「君たちがそれで良いと言うのならば、こちらも構わないのだがな」

 どことなく引っかかる様子を見せながらも、そう前置きをしたスティグマはゆっくりと話を始めた。

「彼…、ジェム君は暫定的にとは言え、いまや私の患者と言うことになる。しかしわたしは、君たちの旅の理由をまったく知らない。一体どこへ向かっているのか、君たちが一体何者なのかもだ」

「あえて話す必要はないと思ったからな」

 ゼーヴルムが容赦なく切り捨てる。

 実際彼らがスティグマに話した事はといえば、単に自分達が数週間前から旅を続けている仲間だということだけだった。 だが、それはある意味仕方がない判断だとも言える。

 いくら世話になったとは言え、初めて会った人間をそう安易に信用する訳にはいかなかった。なにせ彼らは子供だけの旅の最中なのだ。ただでさえ最近は世の中も物騒になってきたし、油断すれば何時いったいどんな悪人に目をつけられるかも分からない。どこに危険が潜んでいるか分からないならば、度が過ぎるほどに警戒するしか身を守る確実な方法は無かった。

 スティグマもそれは承知しているらしく、あまり気にする様子もなくうなずいた。

「それはいっこうに構わないさ。別に君たちを詮索したいわけではないし、もとよりわたしは他人には興味がない。…だがな、医者としてはいささか気になるところがある」

「それはジェム・リヴィングストーンの症状のことでか」

「もちろんそうだ。彼の憔悴具合は、数週間の疲労がたまった結果にしてはどうにも重症すぎる。普通ならあそこまで身体がぼろぼろになることはないのだよ」

 高熱を出し、三日も意識不明になるなんて一般的に見ても並大抵のことではない。それが病気も怪我もしていない健康な人間に起こったとしたらいささか妙であると言ってしまってもいいだろう。

「それは単にジェムが普通以上に軟弱なお坊ちゃんだった、つーだけなんじゃないのか」

 偏見混じりのバッツの推測もスティグマは完全に否定はしなかった。眉間にかかる眼鏡のフレームを、中指で押し上げながらゆっくりと首を振る。

「あるいはそうなのかも知れないな。だがわたしは、彼の様子がどうも気になっている。もしかすると彼の症状は、精神的なものから来ているのかもしれない。不安や心配事、あるいは悩み、そういった心にかかる重圧が負担となって彼の体をも蝕んでいるのかも知れない」

「何とも憶測ばかりだな」

 嘲るようなセリフに、しかしスティグマは平然と意地の悪い笑みを浮かべることで返礼した。

「わたしは君たちの事情を知らないんだ。確証がなければ推測しかできないものさ」

 ゼーヴルムの眉がぴくりと動いた。

「…だいたい悩みや心配事がそこまで体に悪影響を及ぼすのか? それよりかは、肉体の疲労が原因である方がよっぽど有り得るかと思うが」

「いやいや、心の病をそう馬鹿にしたもんでもないよ。病は気からと言うからね」

 シエロが訳知り顔で肩をすくめてみせる。

「どちらにしてもジェムの奴は軟弱者ということなのか?」

 わいわいと語り始める彼らを横目にスティグマはまたふうとため息をついた。

「とにかく、わたしが言いたかったのはこれだけだ。君たちなら何か心当たりがあるかと思ったのだが、何も知らないようだな。数週間前に会ったばかりなら、それも仕方がないのかもしれんが。まあ、わたしの言ったことは心にとめておいてくれ」

「オーケー。了承した。ジェムが倒れたのは疲れがたまったからだけではなく精神的なものかも知れないと言うことだね。忠告ありがとう。彼のことはちゃんと気にかけとく。大切な大切な、仲間のことだからね」

 シエロが意気揚揚とウィンクをした。

 何はともあれ彼らがそれぞれ了承したのを見て、スティグマは椅子を引く。部屋を出ようとする彼にゼーヴルムが最後に質問を投げかけた。

「ベルクライエン医師、ジェム・リヴィングストーンが動けるようになるまであとどれくらいかかるのか」

「少なくとも明日、明後日は様子を見たい。君たちが出発できるのはどんなに早くてもそれ以降だな」

 不承不承ながらにうなづくのを見てスティグマは補足する。

「それから、今後もこの家は自由に使ってくれて構わない。ここは本当に小さい村だから宿はないし、君たちもジェム君と離れているのは心配だろうからな」

「感謝する」

 そっけないぜーヴルムの返事に首をすくめつつ、スティグマは部屋を出て行った。その後ろをちょこちょことついていったフィオリは、しかし扉の前でいったん立ち止まり彼らを振り返る。

「ジェムの看病はあたしがするわ。だからあなたたちはむやみやたらに病室に立ち入って彼が安静にするのを邪魔しないようにね」

「お前に言われたかねーよっ」

 バッツの怒声を尻目にフィオリは悠々と部屋を立ち去った。




「ぐあ〜っ、むかつく女だな! あいつはよっ」

 ドン、とバッツが床を蹴り付ける。

「女っつうのはあんなふうに生意気な口をきいてしゃしゃり出るもんじゃないだろっ。口笛を吹く女と時を告げるめんどりは、神にも男にも好かれないって言葉を知らねえのかっ」

「いや、その格言は俺も知らないし」

 そう言うとぎろりとバッツににらまれた。どうやらスズリ大陸独特の言い回しらしい。

「あの医者…、どうにも信用が置けないな。いったい何のために我々に関わるのだ?」

 ぴったりと閉まった扉をにらみつけ、ゼーヴルムが眉間に皺を寄せ呟いた。よからぬ兆候ではないだろうかと警戒する彼の不安を、しかしシエロはあっさりと笑い飛ばしてしまう。

「おいおい、そんな深く考える必要はないだろ。単に病人の面倒を見てくれただけさ」

「シエロ・ヴァガンス、そんな楽観的な考えでは長生きできんぞ」

「疑心暗鬼も身を滅ぼすぜ?」

 二人はしばし睨み合っていたが、やがてゼーヴルムの方が先に折れた。目を伏せ小さくため息をつく。

「とにかく、まだしばらくは出発できないと言う言葉には偽りはないとみていいだろう。…まったく。始まりの神殿と言えここと言え、巡礼というのは呪われているな」

「いいんじゃないの? 別に急ぎの旅でもないんだし」

「待てっ、おれはこの巡礼に十年も二十年もかけるつもりはないぞっ」

 バッツが焦ったように反発する。

 八年経てば次の巡礼がスタートしてしまう。もし万が一次の巡礼使節に追いつかれでもしたらとんだ事だ。きっと末代まで語り継がれてしまう。
 誇り高いバッツは、そんな間抜けな結果だけは何としてでも避けたいのだろう。

「だけど今はそうやって愚痴っていても仕様がないよ」

 肩をすくめて苦笑するシエロの言葉に、ぐしゃりと炎色の髪を掻いたバッツはしぶしぶとため息をつく。
 確かに今ここでああだこうだ言っていても仕方がないだろう。

「そうだな、今はジェム・リヴィングストーンの体調が回復するのを待つしかないな。まあいい。…私も、今のうちにやっておかなければならないことが無い訳ではない」

 どこか不穏な呟きをゼーヴルムがぽつりと漏らした。

「あれ、バッツ。どこに行くんだ?」

 いつの間にか扉に手をかけているシェシュバツァルにシエロが首をかしげた。

「寝るんだよ。まだそんな時間じゃないが別にやることも無いからな」

 どこか仏頂面で答えるバッツに、シエロは分かったとうなづく。それからかねてよりの彼の習慣についてひと言いい添えた。

「お祈りすんなら扉の前に札下げといて。そしたらその間は部屋に入らないようにするよ」

「了解」

 最初のうちは色々問題を起こしていた文化の違いも、今は各自ルールを作ることによって解消しつつある。
 手を挙げてさっさと部屋を出て行くバッツを見送りながら、シエロも大きく伸びをした。

「さて、俺もそろそろ寝支度すっかな。それとももう一回茶を入れるか…」

「シエロ・ヴァガンス」

「なんだい?」

 身体を反らしたままでシエロが振り返る。ゼーヴルムは硬い声で彼に命じた。

「今から半時たったら、裏庭に来い」

「えっ、なんでさ?」

 シエロが不満げに顔をしかめる。

「俺そろそろ寝ようかなって…」

「いいから来るんだ」

「はい…」

 有無を言わさぬ口調で言い捨て、ゼーヴルムが部屋を出て行く。それを呆然と見送り、シエロは妙に静まり返った部屋にひとり取り残された。

「これってもしや、愛の告白?」

 笑って冗談を呟いたシエロだが、すかさず「さぶっ」と身体を抱きしめる。自分で言っといてなんだが想像しただけで怖気が走ったようだ。

 だがやがてひとり芝居に飽きたのか、シエロはぶつぶつとゼーヴルムへの文句を唱えながら部屋を出て行く。




 誰もいなくなった部屋で、隙間風に吹かれたカーテンがひらひらとはためいた。

 月の無い夜の闇はますます濃く、深くなっていく。