「俺は、生き物を殺せない」 噛みしめるようにその言葉をもう一度繰り返し、シエロはふうとため息をついた。 「だから、君がどんなに無防備に倒れ伏していようが俺がとどめを刺すことはないから安心しなよ」 あっけらかんとそう言い放つ。そしてすっきりしたと言わんばかりに、シエロはうーんと背中を伸ばし深呼吸する。お茶はやめてベッドかなと部屋の方を見上げた。 「それはどういう意味だっ」 ゼーヴルムの手を振り解き、シエロは肩をすくめる。 「俺って、争い事が苦手だからさ」 あまりに淡々としたその声に、どうやら嘘でも冗談でもなさそうだと言うことを悟って、ゼーヴルムは珍しく戸惑いを見せた。 「それは…、宗教上の戒律が原因か? それとも何か別に理由があるのか?」
そらっとぼけているようなセリフだ。 「…詳しい事情を話すつもりはないんだな」 シエロは苦笑して肩をすくめる。ただ、眩しいものでも見るかのように目を細め、彼は星ばかりが瞬く暗い空を見上げた。 「別にそれは人に限ったことじゃないよ。動物も植物も魔物も命あるものは全て、殺せない。たとえそれにどんな非があろうとも、あるいは、自分が殺されそうになったとしてもね」 不便なものだよ、と笑いかける。だがその屈託のない笑顔は、それによって生まれる苦労や障害を微塵も感じさせなかった。 「だからゼーヴルム。悪いけどそんな訳で、俺は君たちの戦闘には参加できない。生き物を殺す君たちを護れば、間接的にだけど俺も生き物を殺したことになっちまうからね。その代わり、もし君たちだけでは倒せないような強い敵が現れたときは、そのときは必ず協力する。俺もいっしょに戦うと約束する」 それでも駄目かい、と彼は上目遣いにゼーヴルムを見た。 (―――俺は、自分より弱い人間と一緒に戦うつもりはないんだ) シエロのセリフを思い返す。 (まぎらわしい…) ゼーヴルムはやれやれとため息をついた。 「ゼーヴルム?」 なかなか止まない沈黙にさすがに不安になったのか、シエロはおずおずと彼を見上げる。ゼーヴルムはそんなシエロの額をこぶしでごつんと小突いた。
「い、いった〜。ゼーヴルム、今のマジで痛かったしっ。いくらそれが駄目だって、こういう答え方はないでしょうっ。口があるんだからちゃんと言葉で答えてよっ」 恨みがましそうにゼーヴルムをにらみつける。 「私は貴様の手を借りるほど落ちぶれてはいない」 シエロはきょとんと目を丸くした。 「…くっ、ははははっ。ひっどいなぁ、さすがにその言い方はないでしょう」 ゼーヴルムはむすっとそっぽを向く。シエロはその場で笑い転げていたが、やがて差し出されたぜーヴルムの手を取って立ち上がった。 「ところでゼーヴルム」 ゼーヴルムは訝しげに眉をひそめる。 「どうせだったら、シエロって呼んでくれよ。ジェムたちのこともさ、いちいちフルネームで呼ばないで。そっちの方がなんか親しい感じがしないかい?」 ゼーヴルムは短く息をついた。 「そのうち気が向いたら――― 、」 突然黙り込む彼にシエロが不思議そうに首を傾げる。
(見間違いか? しかしあの人影は―――、) ゼーヴルムはそのまま首を振った。 「あっそうだ」 シエロはさらにぽんと手を叩くと足を止めた。そしてゼーヴルムに向けてどこか人を食ったような意地の悪い笑みをむけた。 「忘れてた。少なくともこれだけは、俺も言わせて貰おう。ゼーヴルム、君さ、人には全力でやれって言っておきながら、自分は本気を出さないっていうのはちょっとずるくないかい?」 ゼーヴルムは一瞬虚を突かれ思わず息を飲んだが、やがていつもどおり済ました表情を作るとふんと鼻を鳴らした。 「悪いが、こちらにも都合というものがあってな」 シエロは今度こそ爆笑した。 ただでさえ滅多に人の入らない、それも月のない闇夜では誰もが足を踏み入れることを躊躇するような濃い闇の中。
「げほっ…」 今までどれほど痛めつけられていたのだろう。枯葉の敷き詰められた地面をごろりと転がり、彼は酷くむせる。胃液のすっぱい匂いが吐瀉物から漂い、それがさらに吐き気を催した。 「―――ぐっ」 全身を貫く苦痛に涙が浮かんだ。もはや嘔吐する力もなく、嫌な咳を堪えながら身を丸くする。反射的な防衛本能だ。
「せめて、顔に傷はつけないでおきましょう」 坦々とした落ち着いた声音。だがその声もセリフも何の慰めにもならない。無防備に横臥するその人物の目にはどうしようもない恐怖のみが浮かんでいた。 「何故貴方様がかような行動を取ったのかは、あえてお聞きしません。しかしあまりにも軽率な行動だったとはお思いになりませんか」 へりくだった喋り方だが、そこには敬意の念などは欠片も感じられなかった。逆に慇懃無礼とした響きすら持つ。 「たかだかお情けで生かしてもらっている分際で、思い上がってはいけませんよ。貴方には自由というものは存在しないのです」 丁寧な、どこか優しげでもあるような口調とは裏腹に、踏みつけられた肩にさらに力がかかった。肩が砕けそうなその重圧に、その人物は低くうめく。 「貴方がおいでになるだけでどれだけの人間が迷惑を被っているか、しかとお分かり頂けておりますでしょうか。それとも―――、」 その瞳に初めて暗く冷たい愉悦の光が宿る。 「あれほどお教えしたのに、貴方様がいかなる存在であるか、もうお忘れになられたのですか。また一から教えなおす他ありませんのでしょうか」 絶望と恐怖のみを湛えたその人物の顔が、さらに蒼白になった。怯えの色もあらわに、かたかたと歯が鳴る。
「どうかお戻り下さいませ。気高き血筋につらなる御方。ここに貴方様の居場所はございません。色々準備もございましょう。今から三日の後、再びお迎えに参ります」 地に額を擦りつけるほどに深々と頭を下げる。だが後に続く言葉はあまりにも無残で、残酷だった。 「もし素直にお聞き届け頂けない場合は、そのお命、保証することは致しかねますのでそのおつもりで…」 次の瞬間、風にたいまつの火が吹き消されるようにふっとその姿が消えた。もとからそこに誰もいなかったかのように、痕跡ひとつ残さず消え失せる。 闇と草ずれの音だけが満ちるその場所にただひとり残された人物は、動くこともできず暗い眼差しで空を見上げる。 そっと唇を開けど意思は言葉にはならず、音を乗せない吐息は弾む呼吸と共に吐き出された。 痛みの反射として零れる涙が、唯一の感情の発露だった。
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