第二章 4、「忘却の咎人」(1)

 

 トントン

 厚い木の扉が叩かれる。
 控え目だが明らかなノックの音に、ぼんやりと窓の外を眺めていたジェムは慌てて返事をした。

「ああ、もうっ。やっと居たわね」

 強い調子で声をたて、ドアの隙間から顔をのぞかせたのは、ジェムと同年代のアウストリ大陸の少女、フィオリトゥーラだ。
 彼女は大またで部屋に入ると雑多に物を積んだトレイをサイドテーブルに降ろし、ふうと息をついた。

「まったく、どこに行ってたのよ。さっきから何度部屋を訊ねてもいなくて心配してたのよ」

 いささか虫の居所でも悪いのか、唇を尖らせ大袈裟に文句を言うフィオリに、ジェムははっと息を飲むとあわてて謝罪の言葉を述べた。

 彼女は口で言うほど腹を立てていた訳ではないのだが、ジェムはぺこぺこと頭を下げる。
 その過剰な反応は年の割には考え方が古いバッツ辺りが見れば、男のくせにみっともない、ぐらいの事は言うかもしれない。フィオリもそのいささか大仰すぎる謝りっぷりには少々呆れた。

「…もういいわ。本気で怒ってるわけじゃないから。だけどあなただけならまだしも、スティグマまで見当たらないのだもの。やんなっちゃうわ」
「えっ、彼ならさっき下の階で見かけましたよ」
「そうなの? まったく、あとできっちり言い含める必要があるわね」

 フィオリは愛くるしい顔にどこか物騒な笑みを浮かべつつも水差しから茶碗に水を注ぐ。そしてトレイの中からいくつかの包みを取り出した。

「これは薬ね。一日二回、食後に一袋ずつ。もう食事は済んだ?」
「は、はい」
「じゃあ、今それ飲んじゃって」

 ジェムはうやうやしくそれを受け取った。

「大体、スティグマって目を離すといつも一人でどこかにいなくなって…。いったいどこで何をしているのやら分かったものじゃないわ」

 てきぱきと作業を行なう手は休めないものの、フィオリはぶつぶつと独り言のように不満を漏らしている。そのどこか拗ねたような様子が可愛らしくて、ジェムは思わず笑みを浮かべた。
 そうして薬を口に含んだ次の瞬間。

 少年は思いっきり、むせた。

「ぐっ、ごほっ…」
「ちょっ、ちょっとっ! 何してるのよ、いきなりっ」

 フィオリがあわててジェムの背をさする。
 ジェムもごくごくと手に持った水を飲み干した。

「ふぃ、フィオリさん…、これ、恐ろしく苦いんですけれど―――、」

 涙目になって訴えるジェム。
 むしろ苦いなどという味覚を通り越して、口に入った瞬間身体が拒絶反応を起こした。たぶん、シエロのスペシャルティーにも劣らない破壊力だろう。
 だが、それを聞いたとたんフィオリはきっとまなじりを吊り上げた。

「そんなの当然に決まっているでしょうっ。『良薬は口に苦し』と言ってね、よく効く薬は苦いものなのっ」
「で、でもこれはちょっと…」

 殺人的過ぎて飲むに飲めない。
 目を白黒させるジェムに、フィオリはやれやれとため息をついた。

「分かったわ。まったくしょうがないわね。だったらあなたの分の薬は次からは、蜂蜜で練って丸薬にしてくるわ。それだったら飲めるでしょう」

 少女は呆れたような眼差しを向けるが、当のジェムは心底助かったと言わんばかりにこくこくとうなずいた。だがほっと胸を撫ぜ下ろす一方でふと疑問が湧き上がった。

「あの、ということはこの薬って、全部フィオリさんが作っているんですか?」
「そうよ。あたしが森から薬草を採ってきて調合しているの」
「うわあ、フィオリさんってすごいんですね」

 ジェムがぱちぱちと目をしばたかせる。まるで幼子のような純真な賞賛に、澄ました顔をしていたフィオリもほんのり頬を赤らめた。

「ま、まあね。もともとあたしが暮らしていた村がそういう事を生業にしていたっていうのもあるんだけど、少しでもスティグマの役に立ちたくて必死で勉強したの」

 照れ隠しなのか、あえてそっけなく言いつつもその言葉にはフィオリの真剣な思いが宿っていた。

  彼のために。
  あるいは自分のために。
  できることはすべてやりたい。

 自分とそう年は変わらないはずなのに、彼女の抱く強い決意がジェムには少し眩しかった。羨望の感情を抱きながらも素直に感心していたジェムは、しかし同時に不思議に思った。
 今までは漠然とフィオリとスティグマのことを親子かあるいは肉親だと思っていたのだが、今の話からするともしや違うのかもしれない。彼女たちほど仲の良い家族ならばそこまで気を使ったりはしないだろう。
 ジェムは新しく注いでもらった水を飲みながら、直接その疑問をフィオリにたずねることにした。

「あの、気を悪くされたらごめんなさい。ぶしつけな質問なんですけど、その、フィオリさんとスティグマさんてどのようなご関係なんですか?」
「あら、あなたまだ何も聞いてないの?」
「はい」

 フィオリは何か考え込むようにしばし黙り込む。ジェムは何か聞いてはいけないことを聞いてしまったのかとどきどきした。 ジェムがその緊張からまた水を口に含んだのと、フィオリが顔を上げはっきりとした声で答えたのはほぼ同時だった。
 フィオリはとろけるようなにこやかな笑みを浮かべてこう答えたのだ。

「あたしとスティグマは将来を誓い合った恋人同士なの」

 ジェムは再び口の中のものを吹き出した。





 スティグマが一階の廊下を歩いていると、居間に続く扉から明かりが漏れているのを見つけた。
 そっと扉を開けてみると、そこには一時的に部屋を貸しているジェム少年の仲間たち三人がたむろしていた。

「おいおい、そんなところで何をしているんだい。もうだいぶ夜も遅いぞ」
「あっ、ドクター。ちょうど良いとこにきたな。ちょっとこっちに来てくれよ」

 ちょいちょいと手招きするのは彼らのうちで最年少の浅黒い肌の少年だった。

「君もまだ起きていたのかい? 睡眠はしっかりとらないと背が伸びないぞ」
「おれのことはどうでもいいんだよっ!」

 その小柄な体格から出ているとは考えられないほどの声量に、スティグマは思わず耳を押さえた。

「分かった。分かったからそんな大きな声で怒鳴らないでくれ。今はジェム君のほかに入院している患者はいないとはいえもう夜更けなんだから」
「おれはたまたま咽喉が渇いたから水を飲みに来ただけだ。それよりこいつの怪我を見てやってくれ。さっきから治療するといっているのに聞かないんだ」
「だからさ、そんな大げさなことはいいってば。こんなの舐めときゃ治るって」

 とぼけたような声。
 見ると、金髪の少年がお茶を飲みながら肩をすくめている。その頬には確かに横向きに一本の鋭い傷が走っていた。もうすでに血は止まっているようだが、彼自身が言うほど浅いものでもなさそうだ。

「おまえなぁ、自分の顔の傷をどうやって舐めるっていうんだよ。やれるもんならやってみろって」
「このまま放っておくと傷口が膿むかもしれないぞ。それに傷跡だって残る可能性もある」

 そう忠告されて、シエロはやれやれとため息をついた。

「別に女の子でもないから顔に傷が付いたくらいでいちいち騒ぐつもりもないけどさ、確かに疫神に入り込まれるのは困るな。よし、分かった。こうなった思い切ってずばっとやっちゃってくれ」
「いや、そんな決断しなくても単に消毒して傷口を押さえるだけだよ。再起不能になった手足を切り落とすのと違うんだから」

 スティグマは苦笑して手当てを始めた。
 治療を拒んでいたという割には、シエロはおとなしくなされるがままになっている。

「それよりいったいどうしてこんな怪我をしたんだね。喧嘩でもしたのか?」

 シエロのこの鋭い傷は間違えようもなく刀傷だ。転んだりしてできるような傷ではない。
 そう言うとシエロはあっさり肯定した。

「さっきちょっとゼーヴルムと手合わせしててね。それでまあ、このとおり」
「それってこないだの続きか? おい、いったいどっちが勝ったんだ」

 バッツが興味津々と言った顔でたずねる。それまで一人静かにお茶を飲んでいたぜーヴルムが顔を上げ口を開いたが、彼がしゃべるよりも早くシエロが一息にまくし立てた。

「いや惨敗だよ、惨敗。もちろん俺のね。手も足も出せないうちにコテンパンに熨されちゃったよ」

 自分の敗北をあははと笑い飛ばすシエロにバッツは呆れたまなざしを向ける。

「お前にはプライドというものがないのかよ。大体自分のほうが強いとうそぶいていたのはどの口だ?」
「はは、本当に恥ずかしいよね。ホントにみんなの前でやらなくてよかったよ。バッツ、君も俺と手合わせしてみる?」
「バッツって呼ぶな。俺は敗北者には興味ねえよ。おい、ゼーヴルム、いっちょ俺と戦えっ」

 バッツはびしっと指を突きつけるが、ゼーヴルムはつまらなそうに鼻を鳴らすだけだった。

「私は勝敗の見えきった戦闘はしたくない。腕を磨いて出直すんだ な」
「なにをっ。そんなことやってみなければ分からないぞ」
「分からないことこそが、お前と私の実力の差だ」

 そんな二人のやり取りを笑いながら見ていたシエロはふいにスティグマを見上げた。

「もう治療は終わった?」
「あ、ああ」

 同様に思わず見入ってしまっていたスティグマはあわてて治療道具を片づけ始める。

「ごくろうさま。じゃあさ、ベルさん。ちょっとお茶を飲んでいってよ。そんで少しお喋りしようぜ」
「べ、ベルさん? …ま、まあいい。だが君の入れたお茶は、悪いが丁重にお断りさせてもらうぞ」
「おやおや、案外慎み深い人だなぁ。でも安心していいよ。これは俺が入れたんじゃなくて、ゼーヴルムが入れたお茶だから」
「ゼーヴルム君が…」

 スティグマは思わずゼーヴルムをまじまじと見た。これはなかなか意外な話である。男子厨房に近寄らずでお茶どころか生まれてこの方一度も台所に入ったことがないといってもしっくりきそうなものだが。

「お前が入れると人間の飲めるものではなくなるだろうが」

 バッツとの口げんかを中断してゼーヴルムが口を挟んでくる。

「うわっ、矛先がこっちに向いたか。でも俺だって入れようと思えばおいしいお茶も入れられるんだよ」
「ならばいつも美味いお茶を入れれば問題はない」
「でもそれだと面白くないじゃないか」
「お前以外の誰一人として、お茶に面白さなど望んでいないっ」

 シエロはやれやれと首をすくめた。

「たっく、ゼーヴルムは言い方がきついんだから。まあ、そんなわけで俺には劣れどけっこう美味しいお茶だから飲んでみてよ」
「…分かった。それならばありがたく頂戴することにするよ」

 そう言うとゼーヴルムが新しいカップにお茶を注いでくれた。
 熱いお茶を口に含んでみると、なるほど確かにしっかりお茶の味が染み出ている。濃くてはっきりしたゼーヴルムらしい味だ。
 残りの面々もそれぞれお茶を入れなおし、しばしお茶をすする音だけがした。

 お茶を飲み干したスティグマはふうと一息つくとふいに探るような目を彼らに向けた。まるで狡猾な小悪党のように唇の片端を吊り上げている。

「…それで、いったいわたしに何が聞きたいんだい」
「おや、質問があるって分かったんだ?」
「分からないはずがないだろう」

 いくらなんでもお茶会を始めて悠長におしゃべりをするような時間でもない。
 もしかすると、彼らがいつまでも治療をせずにここに居座り続けていたのもこうやって話をする機会を待つためだったのかもしれない。
 シエロはとぼけた笑みを浮かべているが、スティグマは油断無く目を光らせていた。

「あは、察しがいいね。じゃあ単刀直入に聞かせてもらうよ」

 ピンと伸ばした人差し指をくるくると回す。
 呑気なシエロの笑顔が突如鋭い眼差しを宿した。

「あなたはいったい何者なんだい?」