トントン 厚い木の扉が叩かれる。 「ああ、もうっ。やっと居たわね」 強い調子で声をたて、ドアの隙間から顔をのぞかせたのは、ジェムと同年代のアウストリ大陸の少女、フィオリトゥーラだ。 「まったく、どこに行ってたのよ。さっきから何度部屋を訊ねてもいなくて心配してたのよ」 いささか虫の居所でも悪いのか、唇を尖らせ大袈裟に文句を言うフィオリに、ジェムははっと息を飲むとあわてて謝罪の言葉を述べた。 彼女は口で言うほど腹を立てていた訳ではないのだが、ジェムはぺこぺこと頭を下げる。 「…もういいわ。本気で怒ってるわけじゃないから。だけどあなただけならまだしも、スティグマまで見当たらないのだもの。やんなっちゃうわ」
フィオリは愛くるしい顔にどこか物騒な笑みを浮かべつつも水差しから茶碗に水を注ぐ。そしてトレイの中からいくつかの包みを取り出した。 「これは薬ね。一日二回、食後に一袋ずつ。もう食事は済んだ?」 ジェムはうやうやしくそれを受け取った。 「大体、スティグマって目を離すといつも一人でどこかにいなくなって…。いったいどこで何をしているのやら分かったものじゃないわ」 てきぱきと作業を行なう手は休めないものの、フィオリはぶつぶつと独り言のように不満を漏らしている。そのどこか拗ねたような様子が可愛らしくて、ジェムは思わず笑みを浮かべた。
少年は思いっきり、むせた。 「ぐっ、ごほっ…」 フィオリがあわててジェムの背をさする。
「ふぃ、フィオリさん…、これ、恐ろしく苦いんですけれど―――、」 涙目になって訴えるジェム。 「そんなの当然に決まっているでしょうっ。『良薬は口に苦し』と言ってね、よく効く薬は苦いものなのっ」 殺人的過ぎて飲むに飲めない。 「分かったわ。まったくしょうがないわね。だったらあなたの分の薬は次からは、蜂蜜で練って丸薬にしてくるわ。それだったら飲めるでしょう」 少女は呆れたような眼差しを向けるが、当のジェムは心底助かったと言わんばかりにこくこくとうなずいた。だがほっと胸を撫ぜ下ろす一方でふと疑問が湧き上がった。 「あの、ということはこの薬って、全部フィオリさんが作っているんですか?」
ジェムがぱちぱちと目をしばたかせる。まるで幼子のような純真な賞賛に、澄ました顔をしていたフィオリもほんのり頬を赤らめた。 「ま、まあね。もともとあたしが暮らしていた村がそういう事を生業にしていたっていうのもあるんだけど、少しでもスティグマの役に立ちたくて必死で勉強したの」 照れ隠しなのか、あえてそっけなく言いつつもその言葉にはフィオリの真剣な思いが宿っていた。 彼のために。 自分とそう年は変わらないはずなのに、彼女の抱く強い決意がジェムには少し眩しかった。羨望の感情を抱きながらも素直に感心していたジェムは、しかし同時に不思議に思った。
「あの、気を悪くされたらごめんなさい。ぶしつけな質問なんですけど、その、フィオリさんとスティグマさんてどのようなご関係なんですか?」 フィオリは何か考え込むようにしばし黙り込む。ジェムは何か聞いてはいけないことを聞いてしまったのかとどきどきした。
ジェムがその緊張からまた水を口に含んだのと、フィオリが顔を上げはっきりとした声で答えたのはほぼ同時だった。
「あたしとスティグマは将来を誓い合った恋人同士なの」 ジェムは再び口の中のものを吹き出した。
「おいおい、そんなところで何をしているんだい。もうだいぶ夜も遅いぞ」
ちょいちょいと手招きするのは彼らのうちで最年少の浅黒い肌の少年だった。 「君もまだ起きていたのかい? 睡眠はしっかりとらないと背が伸びないぞ」
その小柄な体格から出ているとは考えられないほどの声量に、スティグマは思わず耳を押さえた。 「分かった。分かったからそんな大きな声で怒鳴らないでくれ。今はジェム君のほかに入院している患者はいないとはいえもう夜更けなんだから」
とぼけたような声。 「おまえなぁ、自分の顔の傷をどうやって舐めるっていうんだよ。やれるもんならやってみろって」
そう忠告されて、シエロはやれやれとため息をついた。 「別に女の子でもないから顔に傷が付いたくらいでいちいち騒ぐつもりもないけどさ、確かに疫神に入り込まれるのは困るな。よし、分かった。こうなった思い切ってずばっとやっちゃってくれ」 スティグマは苦笑して手当てを始めた。
「それよりいったいどうしてこんな怪我をしたんだね。喧嘩でもしたのか?」 シエロのこの鋭い傷は間違えようもなく刀傷だ。転んだりしてできるような傷ではない。
「さっきちょっとゼーヴルムと手合わせしててね。それでまあ、このとおり」
バッツが興味津々と言った顔でたずねる。それまで一人静かにお茶を飲んでいたぜーヴルムが顔を上げ口を開いたが、彼がしゃべるよりも早くシエロが一息にまくし立てた。 「いや惨敗だよ、惨敗。もちろん俺のね。手も足も出せないうちにコテンパンに熨されちゃったよ」 自分の敗北をあははと笑い飛ばすシエロにバッツは呆れたまなざしを向ける。 「お前にはプライドというものがないのかよ。大体自分のほうが強いとうそぶいていたのはどの口だ?」 バッツはびしっと指を突きつけるが、ゼーヴルムはつまらなそうに鼻を鳴らすだけだった。 「私は勝敗の見えきった戦闘はしたくない。腕を磨いて出直すんだ
な」 そんな二人のやり取りを笑いながら見ていたシエロはふいにスティグマを見上げた。 「もう治療は終わった?」 同様に思わず見入ってしまっていたスティグマはあわてて治療道具を片づけ始める。 「ごくろうさま。じゃあさ、ベルさん。ちょっとお茶を飲んでいってよ。そんで少しお喋りしようぜ」
スティグマは思わずゼーヴルムをまじまじと見た。これはなかなか意外な話である。男子厨房に近寄らずでお茶どころか生まれてこの方一度も台所に入ったことがないといってもしっくりきそうなものだが。 「お前が入れると人間の飲めるものではなくなるだろうが」 バッツとの口げんかを中断してゼーヴルムが口を挟んでくる。 「うわっ、矛先がこっちに向いたか。でも俺だって入れようと思えばおいしいお茶も入れられるんだよ」 シエロはやれやれと首をすくめた。 「たっく、ゼーヴルムは言い方がきついんだから。まあ、そんなわけで俺には劣れどけっこう美味しいお茶だから飲んでみてよ」
そう言うとゼーヴルムが新しいカップにお茶を注いでくれた。 お茶を飲み干したスティグマはふうと一息つくとふいに探るような目を彼らに向けた。まるで狡猾な小悪党のように唇の片端を吊り上げている。 「…それで、いったいわたしに何が聞きたいんだい」 いくらなんでもお茶会を始めて悠長におしゃべりをするような時間でもない。
「あは、察しがいいね。じゃあ単刀直入に聞かせてもらうよ」 ピンと伸ばした人差し指をくるくると回す。 「あなたはいったい何者なんだい?」 |