第二章 5、「黄昏の光」(1)

 


 ジェムが目を覚ましてから二日が経った。

 熱を測り、咽喉の奥を覗き込み、脈拍を測っていたスティグマはおもむろに顔を上げるとふうと息をついた。

「それでどうなんだ?」

 その様子を後ろから見ていたバッツが間髪入れずに訊ねてくる。バッツだけではない。そこにはシエロにゼーヴルム、それからフィオリも揃っていた。
 彼らはそれぞれの表情で、すなわちバッツとゼーヴルムは真剣に、シエロはいつもどおり飄々と、フィオリだけはどこか複雑そうな眼差しで次の言葉を待っている。そんな彼らの視線を一身に受けながらもぐりの医者はゆっくりとうなずいた。

「…得に問題はないだろう。熱も下がったし、脈拍も安定している。少々顔色が悪いことが気になるが、一応体力も回復したようだ」
「つまり?」
「無理をしない程度になら旅を再開しても大丈夫だろう」

 スティグマの下した判決を聞いて、巡礼の面々は思わず安堵の息を漏らした。

「良かったね、ジェム。これで軟禁生活から解放だ」

 シエロがにやりと笑いジェムの肩をばしばしと叩く。スティグマは嫌そうに顔をしかめた。

「おいおい、誰も監禁なんかしとらんじゃないか。これはれっきとした治療の一環で、静養というんだっ」
「ほらほら、ジェムもにっこりと笑いたまえ。監視人の目から逃れ晴れて自由の身となったんだからね」
「だから人を看守のように言うんじゃない。看護だ看護」

 賑やかなシエロにつられてジェムもうっすらと微笑んだが、その顔はまだどこか浮かないままだった。

 結局あれから、ジェムとフィオリの間の気まずい雰囲気は解消されることは無かった。
 少なくとも世話をするといった自らの言葉を反故するつもりは無いらしく、その後も食事を運んだり薬を処方したりと事細かに面倒をみてくれはしたが、フィオリは一言もジェムとは口をきかなかった。

 ジェムがいくら話し掛けてもすべて無視され、目をあわそうともしない。それならばあの最初の日のように、罵倒し、怒ってくれた方がいくらもましだとジェムは途方に暮れた。

 だがたとえ話を聞いてくれたとしてもジェムには謝罪のほかに彼女にかける言葉は持たず、ただ刻々と気まずい時間ばかりがすぎていくことに変わりは無かっただろう。だから、スティグマから巡礼を再開するお許しが出たときジェムは、残念に思うと同時に酷くほっとした。

 彼女との関係を修復できぬまま別れるのは堪らなく心苦しかったが、自分の存在がただ彼女を苛立たせるだけならば自分にできる最良の手段は彼女の前から早急に消えることだけだ。だったら、このまま彼女と別れてはやく自分の事なんて忘れてもらおう。
 そうとまで考えていたジェムゆえに、だからこそ次のスティグマの言葉には驚愕とした。

「だが、全ての問題が解決したわけではない。原因が分からぬままではいつまた同じ事が起こるとも限らない。と言う訳でしばしの間、わたしも君たちの旅に同行させてもらうよ」
「はあっ!?」

 そのあまりに唐突な発言には、ジェムだけではなく他の誰もが激しく目をしばたかせた。

「それってつまりどういう事だ?」
「どうもなにも言葉どおりの意味だよ。しばらく君たちの旅に着いていく。なに、別にずっと一緒という訳ではない。ジェム君の体調に心配が無いと分かればすぐに離れるとも」
「だ、だが、この村の事はどうするつもりだ」
「言っただろ。もともとわたしはこの村の客分だった。世話になった礼を何もできずに別れるのは辛いが、どうせもともとあとひと月もしないうちに村を出る予定だったんだ」

 飽くまで考えを変えるつもりは無いらしいスティグマに彼らが抱いた感情は、素直な感謝の気持ちよりも戸惑いの方がだいぶ大きかった。
 彼に対しては意固地なまでに疑り深いと一部から評判のゼーヴルムにいたっては無遠慮に警戒の眼差しを向けているほどだ。
 しかし彼らの中で誰よりも一番慌てていたのは、当然の事ながら当事者であるジェムだった。彼はもうほとんど泣きそうな顔でぶんぶんと過剰なほどに首を振った。

「で、でもっ、ぼくにはそこまでしてもらう理由が有りませんっ」
「気にしなくていい。私はただ医者としての倫理観念上、自分の患者を中途半端に診たまま放置することができないだけだ。謝礼も今日までの分だけでいい。あとはわたしの好きですることだからな」

 と、ここまで気前の良い所を見せてくれる。
 いったいスティグマが何のつもりでそのようなことを言うのか。有り体に言ってしまえばいったい何を企んでいるのかと怪しむ気持ちは十分あったが、ジェムの体調もまた同じ程度には気にかかる問題だった。
 ゼーヴルムたちはしばし逡巡していたが取り合えずはその提案を受け入れることに決めた。 だが同意の言葉を述べる寸前、反対を訴える言葉がまったく予想外ところから出た。

「――嫌よ、あたしは嫌っ。スティグマなんでそんなこと言うのっ」
「フィオリ」
「あたしはもう限界。ノルズリ大陸の人間や他の大陸の人間と一緒にいるなんて我慢できないっ。あたし、こんな人たちと一緒に旅なんかしたくない」
「フィオリ、よしなさい」

 たしなめるようなスティグマの呼びかけにさらに反発するように少女は声を荒らげた。

「何故!? どうしてあたしの気持ちを考えてくれないの。あたしがずっとどんな気持ちでいたかスティグマ、分かっているはずでしょう? あたしは絶対に嫌なんだからっ」

 彼女の身を引き裂かんばかりの激しい訴えにジェムは深くうつむいた。その顔は青ざめ傷ついた色を浮かべている。今にも彼女に飛び掛らんばかりのバッツの腕を、シエロが無言で掴んでいた。

 足音も荒く部屋を飛び出したフィオリを反射的に追いかけようとしたスティグマだったが、結局はためらうように扉の傍で足を止めた。小さな舌打ちが残された彼らの耳にも届く。

「…で? いったいどうするつもりなんだ。お前の娘は反対しているようだが」
「どうするもこうするも…。わたしは自分の考えを変えるつもりは無いよ」

 冷めた視線を送るゼーヴルムに、スティグマはわしゃわしゃと髪を掻き乱しため息を吐く。

「あの子も別に本気でああ思っているわけじゃないだろう。ああ見えて結構人見知りでね、少しすねているだけだ。フィオリはわたしが説得する。だから少し待っていてくれ」

 だが説得するとは言うもののまさか娘からここまで反対されようとは思ってなかったらしく、すっかり意気消沈したスティグマはどことなくとぼとぼとした頼りない足取りで部屋を出ていこうとする。しかしがっくりと肩を落としている相手にも、ゼーヴルムの舌鋒は衰えなかった。ゼーヴルムは冬の海を思わせる灰色の瞳をスティグマに向ける。

「きさまが娘を拾ったのは五歳のとき。それから九年だ。貴様がそれとなくたしなめていれば、あの少女がここまで他大陸の人間に憎しみを抱くことは無かったのではないか」
「…つまりわたしが育て方を間違えたと?」
「ありていに言えばそうだ」

 容赦の欠片もないゼーヴルムの言葉に、スティグマは小さく苦笑した。

「そうだな。わたしもあの子には恨みや憎しみそんな真っ暗な感情からは自由でいて欲しかった。親ばかかも知れないけど、わたしはあの子にはずっと無邪気で純粋なままでいて欲しかったんだ」
「ならば―――、」
「だけど、わたしにはあの子の憎しみにはやる気持ちをどうしても抑えることができなかった」

 スティグマは扉の影で暗い皮肉な笑みを浮かべた。

「わたしもまた、復讐者だからな…」





 部屋をノックするが返事はない。
 スティグマはゆっくりと扉を押し、鍵が掛かっていないことを確認すると静かな足取りで暗い部屋を進んでいった。

「…あたしは絶対に嫌なんだから」
「フィオリ」

 とうとつな呟きが闇色の空気を震わす。
 冷え冷えとした室内の空気はまるで少女の心の中を具現したようだった。

「みんなみんな大嫌い。ノルズリ大陸の人間もアウストリ大陸の人間も、軍人も他国人もみんな嫌い」
「フィオリ、わがままを言うんじゃない」

 少女は床に座り込み、上半身だけをベッドにうつ伏せにしている。敷布に顔を押し付けて必死に涙を押し殺しているようだった。細かに震える肩をスティグマはそっと抱きかかえた。

「あたし、今まで一度もわがままなんか言ってないわっ。ジェムの事だって、ノルズリ大陸の人間だって分かってからも、我慢してスティグマの手伝いをしたわ。あたしはずっと頑張ったわ!」
「なら、これからも努力を続けられるな。お前はかしこい子だ。ジェム君が悪いわけじゃないって、ちゃんと分かっているはずだ」
「分かってたってどうにもならない感情はあるのよっ」
「…うん、それは―――、理解できるとも…」

 スティグマは優しい手つきで少女の顔を上げさせると、その頬を濡らす涙をぬぐった。

「だけどどうにもならないと言うだけで終わらせてはいけないよ。嫌いだから厭だから憎いから、ただそれだけで、自分の視野を狭めるような真似だけはして欲しくないんだ」

 スティグマは穏やかな慈愛に満ちた瞳でフィオリトゥーラを見つめている。優しくしかし力強く諭そうとするその瞳はまさしく父性を感じさせた。

「――世界はね、フィオリ、」

 彼は静かに淡々と少女に語りかける。

「世界は、おまえが考えているよりもずっとずっと広いんだ。自分で自分に目隠しをして、狭い部屋の中に閉じこもっているだけではきっと何も見えてこないし変わらない。わたしはね、フィオリにもっと広い世界を知って欲しいんだ。自由に世界を感じ取って欲しいんだ。わたしは、フィオリを愛しているから」

 そう言ってにっこりと愛娘に微笑みかける。その笑顔は愛情といつくしみに満ちていた。
 フィオリは頬をわずかに赤く染めると、泣くのを我慢しているような怒っているような、そんな複雑な表情のままスティグマの胸にしがみつく。

「スティグマはずるいわ…」
「そうだね」

 胸にしっかりと張り付く熱い塊を感じながらスティグマは苦笑した。

「そう言えば、あたしが何でも大人しく言うことを聞くと思ってるのよ」
「そんなことはないよ…」
「みんな嫌いよっ。ノルズリ大陸もアウストリ大陸もみんなみんななくなってしまえばいい。広い世界だってそんなの要らない。あたしにはスティグマだけがいればいいの。スティグマだけが好きなの」
「わたしもフィオリが好きだよ」

 節くれだった無骨な手が優しく少女の髪をなぜる。

「フィオリが好きだからこう言うんだ。だからフィオリもわたしが好きなら、わたしの言うことを信じてくれないか」
「…」

 フィオリはふて腐れた顔ででさらに頭をスティグマに押し付けた。ぐりぐりとこそばゆい感触に、さすがのスティグマも笑いながら抵抗する。

「フィオリ、痛い痛いって」
「スティグマはずるいわ。卑怯よっ。あたしが逆らえないのを知っててそう言うの。…でもいいわ、信じてあげるわ。スティグマがそう言うんだったらあたしどんな嫌な事だって我慢する。あたしスティグマの為だったなんだってできるんだもの」

 フィオリはそう言って、弾けるような素直な笑顔でにっこりと笑いかけた。

「…」

 スティグマはふいに黙り込んだあと、おずおずと、しかし力強くフィオリの身体を抱きしめた。続く言葉は感極まったように細かく震えている。

「フィオリ…、ありがとう。―――すまない」

 フィオリはその抱擁に身を任せるように、うっとりと目を閉じた。

 ―――だから、彼女は気付かなかった。

 スティグマが、何かを必死で堪えるようにその唇を強く食いしばっていたことに…。




 次の日の朝、フィオリはジェムと他の仲間たちに謝罪を述べ、彼らの旅について行くことに了承を願った。当然ジェムたちからは反対の言葉はなかった。