第二章 4、「忘却の咎人」(3)

 


「あの子は、戦災孤児なんだ」

 瞳を伏せたスティグマは、とつとつと語っていく。

「わたしがフィオリトゥーラと初めて会ったのは、深くて暗い森の中でだった。
 あの子はそこで、たったひとりで泣いていたよ。ぼろぼろの格好で、そしてひどく怯えていた。
 まだ幼かったからね、何があったのか、正確には理解していなかったのかもしれない。わたしも最初は、ただの迷子かと思ったものさ。
 だけど、あの子のつたない言葉に従って彼女の暮らしていた集落にたどり着いた時、わたしは愕然としたよ。
 ―――なぜって? そこには何もなかったからさ。ただ黒々と焼け焦げた無残な廃墟があるだけ。
 村は全て、焼き払われていたんだ」

 まぶたの裏に当時の記憶を蘇らせるスティグマの表情は、痛ましさと共に怒気をはらんでいた。

「単なるこぜりあいの結果にしてはね、それはあまりにもむごいものだったよ。そこに暮らしていた人々は誰ひとり、助かりはしなかった。誰一人として、生きてはいなかった。だからフィオリはその村の、最後の生き残りなんだ…」





「ご、ごめんなさい」

 ジェムは厳しい眼差しを向けてくる少女に慌てて頭を下げた。

「その、フィオリさんを怒らせるつもりは無かったんです。あ、ぼく何か間違ったことをいってしまったのでしたら謝ります。だから―――、」
「軽々しく名前を呼ばないでよっ」
「―――っ」  

 思わず涙が溢れそうになった。

 今まで優しくしてくれていたぶん、フィオリの突然の変わりようがジェムにはひどく悲しかった。
 自分の何が彼女をここまで怒らせてしまったのかは分からない。だけど何か誤解があるのなら解きたかった。自分はほんのひとかけらだって、彼女を傷つけようという気持ちは無かったのだから。

「あ、あの、ぼく…」
「あなたはいいわよね」

 フィオリはぎりぎりと歯を噛みしめる。

「平穏な、恵まれた環境の中で、何にも考えずに豊かな生活を送っていたんでしょ。それはなんとも幸せよね。だからあなたは恵まれない不幸なあたしに同情してくださる。なんてお優しいことかしらっ」

 その憎しみに歪んだ表情は、先ほどまでの無邪気な少女からはとてもじゃないが想像ができなかった。

「ち、違うんですっ。ぼくは本当にそう感じただけなんです。可哀想って思った、ただそれだけなんです」

 ジェムは必死で言葉を返す。彼女に嫌われたくない一心で。

「ただそれだけ? 分かったような顔で同情の言葉を言いさえすればあたしが喜ぶとでも思ったの? 自惚れないでよ。だいたいあなたにいったい何が分かるって言うの? 幸せに、なに不自由なく暮らしてきたあなたに」
「でも、ぼくはあなたがかわいそうで…」

 返す声は力なく震える。

「やめてっ。何も知らないあなたからは、どんな慰めの言葉も聞きたくないし虫唾が走るわ。これ以上ひと言でも口にしたら、あたしはきっとあなたを一生許さないわ」
「フィオリさんっ、待って―――、」

 部屋を飛び出すフィオリを反射的に追いかけようとしたジェムは、そのまま床に崩れ落ちた。彼女に追いすがり、釈明の言葉を述べたいのにこんなときに限って身体が言うことを聞かない。
 だが、たとえ彼女に追いつけたとしても、一体何と言えばいいのか。彼女をあそこまで怒らせてしまった理由がわからないままでは何の解決にもならないだろう。

 失意の中、呆然と床に座り込むジェムは扉の軋む音にはっと顔を上げた。フィオリが戻ってきてくれたかと思ったからだ。だが、その表情はすぐさま再び悲しみに曇った。

「なに床にへばりついてんだ?」
「バッツさん…」

 バッツは不思議そうな顔をドアから覗かせる。ジェムは今にも泣き出しそうな目を彼に向けた。

「いきなりあの小娘が部屋から飛び出してきたから何事かと思えば。ジェム、お前はいったい何しでかしたんだ?」
「…ぼく、フィオリさんを怒らせてしまったんです」

 ジェムはぎゅっと唇を噛みしめた。
 彼女の激しい恫喝を思い出すだけで全身がすくむ。いや、罪悪感と悲しみで思考が麻痺してしまったようだ。ただ頭の中がぐちゃぐちゃで、世界の何もかもに対して萎縮してしまう。細かく震える指先をジェムはぎゅっと握っていた。
 文字通り縮こまって怯えているとしか見えないジェムの様子に、バッツは呆れたような眼差しでぽりぽりと頭を掻く。

「おれなんかは、あんな生意気女はいくらでも怒らせとけばいいと思うけどお前はそうはいかないか。言え。いったい何があったんだ?」

 バッツはずかずかと遠慮無く部屋の中に入ってくると、ジェムのそばにどっかり腰をおろした。そしてまっすぐな目でジェムを見つめる。
 その心強い様子にジェムは思わずほっと安堵しそうになったのだが、いくら頼りがいがありそうでも相手は年端も行かぬ、しかも自分より年下の少年だ。
 いくらなんでも情けなくないか、と彼をすがってしまうことにはジェムも戸惑った。
 だが溺れる者が藁を掴む様に、結局はぽつりぽつりと事の顛末をバッツに話していったのだった。

 ジェムの話がフィオリの生い立ちの所に差し掛かると、バッツはおやと眉を上げた。

「そりゃあの女が戦災孤児だっていう話か。奇遇だな、おれたちもさっき下でドクターからその話を聞いたところだぞ」
「はい。それでぼくが、あの、それをかわいそうだって言ったらフィオリさんが突然怒ってしまって、それで―――、」

 ジェムはぐっと顔に力を込めて、涙がこぼれるのを堪えなければならなかった。気を抜けばそのまま涙が溢れて止まらなくなるだろう。それこそ涙が枯れ果てるまで。

 そんなジェムの様子を黙って見ていたバッツは、不意に疑問を口にした。

「あの女、いったいなんて言って怒ったんだ?」
「薄っぺらい同情の言葉を口にしないで、って…。何も知らないぼくからは、慰めの言葉は聞きたくないと、…そう怒られました」
「ふうん…」

 バッツは無表情でうなずいていたが、そこでふうと息を吐いた。

「あのさ、おれ、あの女のことは気に食わないが、その気持ちは分かるぞ」
「えっ」

 ジェムははっと顔を上げた。

「な、なんで―――、」

 ジェムは呆然とバッツの顔を見つめた。バッツは無造作に頭を掻いていたが、再びため息をついてジェムを見る。

「知りたいのなら教えてやるよ。だけどな、その前にジェム、お前はあの女の村を焼いたのがノルズリ大陸の軍隊だってこと知っていたか」
「えっ―――、」

 どくんと胸が高鳴った。

 心臓を握り潰されたような痛みに全身が強張る。愕然としたジェムの顔からはじわじわと血の気が引いていった。
 これはドクターから聞いた話だが。そう注釈してシェシュバツァルは歴史の闇に埋もれたひとつの出来事を語っていく。


 ―――九年前、アウストリ大陸の辺境にあった小国がノルズリ大陸のとある大国から理不尽な条約を迫られていた。けれどその小国は頑迷にその申し出を拒否したため、結果として見せしめにいくつかの村が大国に焼き払われてしまった。小国も自国の意志が固いことを示すためあえて助けを向けたりはしなかった―――。
 

「…ま、何とも悲惨な話だよな。だけど―――、そのこと自体はそれほど珍しいって訳じゃない」

 淡々と語るバッツの声音は妙に静かで冷静だった。

「昔のアウストリ大陸だけじゃなく、現在だってどこかの大陸で繰り返されていることだ。もちろん九年前と今とじゃ多少は事情も変わってきてるだろうけどな。だけど問題は、―――ジェム、お前の生国も確かノルズリ大陸の列強国のひとつだってことだ」

 違ったか、とバッツは冷たいまなざしを向ける。
 ジェムに答えることは、できなかった。

(…っ)

 ただがんがんと耳鳴りがして頭の中が真っ白だった。何も考えられないはずなのに、バッツの言葉だけが頭の中を鈍く反響している。
 手足がまるで鉛の塊になってしまったように重かった。どこもかしこもまるっきり力が入らない。鼻がつんとして、目頭がだんだん熱くなった。

「それで、おれに気持ちが分かる理由だけどな、今スズリ大陸の半分以上が、ノルズリ大陸の国々の植民地になっているんだ。数ある鉱脈も炭鉱もそのほとんど全てがノルズリ大陸の管理下に置かれている。おれたちの同胞の中には不当に搾取されこき使われている奴らもいる。ジェム、おまえはそれを知っていたか?」

 ジェムは無言で首を振った。バッツの語る一言一言がまるで鋭い針のようにジェムの心臓を刺し貫く。その頬にはいつのまにかぽたぽたと涙がつたっていった。

(なんてことだ…、)

 ジェムは涙を拭うこともせず、ただしゃくりあげる息を必死で飲み込んだ。

「―――っ、ぼくそんなつもりじゃ、無かったんです。そんなことがあったなんて、知らなかったんで…」

 胸の痛みに心が張り裂けそうだった。
 学校では、そんなことまったく教わっていなかった。そんなこと誰も教えてくれたりはしなかったのだ。―――それが、何の言い訳にもならないことは分かっているが。

「教わらなくたって、事実は消えたりしない。たとえ歴史に残らなくても、傷つけられた人間はいつまでだって覚えている。傷つけた側はすっかり忘れてしまってもな」

 そんなものさ、とバッツは年齢に似合わぬ冷めた口調で呟いた。

「ぼ、ぼく、フィオリさんに、なんて謝れば…」

 唇がわなわなと震える。

 たとえ彼女の家族を奪った直接の原因でなくとも、自分がなに知らぬ顔で同情の言葉を口にするのはあまりにも傲慢だった。滑稽だとすら言い換えていいだろう。
 たとえ自分に彼女を傷つけるつもりは無くても、自分の吐いたセリフは彼女の心を傷つけるものでしかなかった。
 自分はあまりにも、愚かで、無知だった。

「別に謝る必要なんてないさ」

 悲しみに打ちひしがれるジェムをさらに突き放すかのように、バッツは無表情で肩をすくめる。

「お前が直接何かしたわけでもないしな。それにどうせ全ては、もう過去の事でしかないんだ。おれも別に、知らなかったことでおまえを責めるつもりは無い。―――でもな、頼むからこれだけは聞いてくれ」

 バッツは眉根を寄せて顔を伏せた。

「どうか、見ない振りはしないで欲しい。知ったからには何か考えてくれ。賛成でも反対でも、反省でも賞賛でもなんでもいい。とにかくなにも無かった振りだけはしないでくれっ。おれ達は、無関心になられることが、一番辛いんだ―――、」

 その声は痛みを堪えるようにかすかに低く震えていた。

 どうかこれだけは、覚えておいてほしい。

 そう言い残してバッツは足早に部屋を出て行った。
 扉の閉まる音をきっかけに、再びジェムの瞳から涙が溢れ出した。
 締め切られた扉の内側で、ジェムはひとり悲しみに暮れた。とめどなく溢れる涙はこのまま永遠に止まらない気がした。

 自分に流れる血が、こんなにも憎くなったことは無かった。