第二章 5、「黄昏の光」(3)

 

 
「あのぉ、シエロさん?」
「なんだい」

 シエロを探してきょろきょろと首を廻らせていたジェムはぎょっとして上を向いた。
 はらりと木の葉が舞い落ちる。
 木から張り出した一本の枝の上に腰掛けて、シエロはのんびりと足を揺らしていた。

「どうしたんだい? もう食事はすんだのかな」
「い、いえっ。そう言う訳ではないんですが…」

 向こうではまだゼーヴルムが手間隙かけて食事の準備中だ。

「ぼく、ちょっとシエロさんに聞きたいことがあって」
「分かった。いいよ、今そっち行くから」

 シエロはそう言ってあっさり枝から飛び降りた。
 ジェムは思わずぎくりとしたが、シエロはまったく重さを感じさせないほど軽やかにふわりと地面に降り立った。

「着・陸」

 両手を挙げポーズを決めたシエロはそのままジェムを振り返る。

「さて、それでジェムはいったい何が聞きたいのかな」
「えっ。あ、あの…、それは―――、」

 思わずその仕草に見入ってしまっていたジェムははっとした。言いにくそうに口ごもる彼を見てシエロは首をかしげる。

「なにか秘密のご相談かな」
「いえ、あのちがくて…」

 ジェムは酷く縮こまって恐縮そうに言った。

「その、シエロさんは―――、人と違うことが辛くないのかと思って…」
「何? さっきしたご飯が食べられないから可哀相って話?」
「いえっ、そうじゃなくてっ。あの、それもありますけどそれだけじゃなくて、ええと…」

 混乱して焦るジェムを宥めるようにシエロははいはいうなずいた。

「ああ、なるほど。つまり他人と異なっていることを俺がどう感じてるかってことね」

 了解とつぶやいて、しかしシエロはそのままう〜んと首をかしげた。

「だけど俺は別に人と違うことについてとやかく考えたことは無いなぁ。他人は他人で俺は俺だろ? その事についても別段不都合を感じたこともないからなぁ」
「でも他の人と同じことができないって、辛くはないですか?」
「ジェムは辛いの?」

 ジェムは思わず息を呑む。シエロはうんうんとうなずくと、ピンと人差し指を立ててくるりと回す。

「ジェムさ、嫌いな食べ物ってある?」
「えっ」
「これだけはどうしても口にできないって食べ物」

 かなり戸惑いながらも、ジェムはおずおずとその質問に答える。

「えっと…、モツ煮とか」

 モツ。すなわち臓物のことである。安価なこともあってジェムの暮らしていた寮の食堂では結構頻繁に出たのだが、その臭いと原型に対するイメージからジェムはどうしても敬遠してしまっていた。

「モツ煮か…。そりゃ俺は一生食えないなぁ」

 シエロはくすくす笑ってうなずいた。

「たとえばさぁ、ジェムが友達と一緒に高級料理のコースを食べに行ったとするじゃないか」
「え? は、はい…」
「めったに食べれない豪勢な料理。どれもこれも非常に美味しくて舌鼓を打たずにはおられない。けれどその中で一品だけジェムの苦手なモツ煮が出てきてしまった。みんなが美味しい美味しいと嬉しそうに食べているのにジェム一人だけがそれを食べれない。さて、ジェムはどう思うかい」
「ど、どうって…?」

 普通そんな高級料理を出すお店にモツ煮は出ないと思うが。

「辛いと思うのかな」

 ジェムははっとした。ようやくシエロの言いたいことを理解した。

「いいえ。残念だな、もったいないなとは思うけど、辛いとまでは思いません」
「うん、俺にとってもそんな感じなの。人と同じことができないってことはね」

 それはかなり分かりやすいたとえだったが、ジェムにはもうひとつ尋ねたいことがあった。

「でも、シエロさんは寂しくはないんですか」

 シエロははたと口を閉じた。そしてそのまま押し黙っていた彼だがやがてくつくつと笑いだし、額に手を置いた。

「はは、参ったなぁ。だいぶいい所を突いてくるね。いいよ、白状する。確かにそう思うときもあるよ。寂しいと、人と異なることを寂しいと思うときは確かにあるさ」
「やっぱり、そうですか」

 ジェムはわずかに落胆したようだった。

 しかしシエロはだけどね、とさらに続ける。

「俺はそれでも人と違うことが嫌じゃないんだ」

 悲しげにうつむいていた少年はびっくりして顔を上げた。

「え、ど、どうしてですか?」
「だって楽しいじゃないか」

 少年はさらに目を丸くした。

「人間何もかもまるきり同じじゃつまらないだろ。違う国、違う大陸、違う人生、違う明日。それぞれ個性があるから面白いんだ。違う人間だから一緒にいて楽しいんだ。出会えて嬉しいんだ。違うかい、ジェム?」

 シエロは両手を羽のように広げて歌うように言った。

「違うからこそ楽しいんだよ。だって考えてもごらんよ。出会う人、出会う物全部が全部同じものだとしたら世の中はきっと灰色だ。俺はきっと退屈で死んでしまうんだろうな。ワクワクもドキドキもしないつまらない人生だ」
「…シエロさんは、人生が楽しいんですか?」
「もちろん楽しいよ」
「そうですか。それは、羨ましいです…」

 ジェムは肩を落とした。今の自分には人生を楽しむゆとりなんてまったく無い。そうハッキリと言えてしまうシエロがかなり羨ましかった。  だがシエロはちっちっちっと指を振る。

「駄目だなー、ジェム。たった一度の人生なんだから好きなように生きなきゃ。楽しくない人生なんて人生とは言えないよ。羨ましいなら即実践だっ。人間好きに生きた方が勝ちだよ!」
「だがそれで周りを振り回してたら元も子もないだろうが」

 ぼそりと真後ろから声がする。ジェムはぎょっとして振り返った。

「わっ、バ、バッツさんっ」
「ジェム、飯だ。さっさと来いよ」

 バッツはあごをしゃくってみせる。ジェムは慌ててうなずいたがおずおずと気づかうようにシエロをうかがう。バッツはそこでさらに、他人事のような顔で彼らを見ていたシエロをもにらみつけた。

「シエロ、てめえも来い」
「へっ、なんでさ? 行っても俺何もすることないよ」

 首をかしげるシエロに、バッツは顔をしかめた。

「小娘からの伝言だ。チーズに干し果物に香草茶。とりあえず食えそうなものを見繕って貰ったから味見にぐらいは来いとさ。ったく、何でこのおれがつかいっぱしりをさせられなきゃいけないんだ」

 ぶつぶつ文句を言いながら歩き出すバッツの後姿を見ながら、シエロはくすくすと笑みをこぼす。
 困ったように、あるいは苦笑するように。
 だけどその様子はけして嫌がってはなかった。

「ほらね、だから人生は面白いんだ。時にはまったく予想も付かないことが起こる。これは何もかも同じだったらけしてありえないことだよね」

 シエロは心配そうに自分を覗き込むジェムにもにっこりと笑みを向けた。

「ジェムもありがとうね」
「えっ?」
「聞きたいことがあるとか言って、本当は俺のこと心配してきてくれたんだろ。嬉しかったよ」
「あ、あの。えっとぉ…」

 ジェムは思わず赤面してうつむいた。

「ほら、お前らさっさと付いて来い」
「はいはい。今行くよー」

 バッツの怒鳴り声にシエロは陽気に手を振って答えた。
 威勢よく歩いて行くバッツと飄々と彼の後に着いていくシエロ。彼らの向かう先には焚き火の明かりが煌々と灯っている。

 その様子をはるか後方から見るジェムの目は、なぜか眩しげにひそめられていた。