その日の夕飯はとても楽しいものだった。 もちろんちょっとしたトラブルもあったものの、別に彼らにとってはそう珍しいことではないし、何よりもみんなで取る食事はそれを上回るほど楽しいものだった。 ジェムは結局フィオリの方を見て笑うことはできなかったけど、誰もがその居心地のいい時間に顔をほころばせるようなそんな幸せな夜だった。 「…」 彼は小さく唇だけで謝罪を口にし、獣よけの焚き火に枝を加えた。そして野営地から足を踏み出す。一度だけ彼は振り返ったがその唇は震えるだけで何の言葉も出なかった。 無言で森の中を進んでいく彼は突然広い空間に出た。枝葉に隠された空が唯一伺えるその場所に、さながら闇と同化するようにひとつの黒い影がうずくまっている。
「―――約束どおり、来ました」 ひざまずく名も無き影が、恭しく頭をたれた。 馬はまるで飛ぶように駆ける。立派な体躯の青毛の馬にジェムは乗せられていた。同じ鞍の上には黒衣の影がいる。 「ぼくが…、逃げ出すと思いましたか」 影はいけしゃあしゃあと言ってのける。 「ただしその場合の咎は貴方様だけではなく、あそこにいた貴方様のお仲間にも降りかかることはご承知のことだったでしょう」
ジェムは自分の唇に歯を立てた。甘いようなしょっぱいような血の味が味覚を刺激する。
(ぼくはどうしようもない臆病者だから…) ふっと胸の内で自嘲する。 たぶんこうなるだろうと心のどこかでずっと思っていた。 むりやり押し付けられたとは言え、巡礼と言う初めてできた外を見る機会に自分はこれ以上ないほど浮かれていた。
そしてそれは結局本当になった。 たぶん自分はこのまま北の学院に戻されるだろう。学長は役目を果たさない限り復学は許可されないと言っていたけれどもそんなこと<あの人>の力があればどうとでもなることだ。
(―――何だ。十分ぼくは恵まれているじゃないか) ジェムはかすかに笑った。 九年前のフィオリや、その村の人たちに比べればずっとまし――。
だったら何も悲しむ必要はないのだ。 「う、うあっ」 慌てて手綱を握る腕にすがりついた。 「しっかり掴まっておいでなさい。振り落とされますよ」 無情なほど静かな影の言葉に、ジェムは顔を蒼ざめさせてこくこくとうなずく。
(―――けど、こんな風に危険な目に遭うのもこれで最後なんだ…) そう考えると自然と脳裏にこれまでの旅の情景が浮かんだ。 始まりの神殿の街で仲間たちと出会い、 アウストリ大陸まで自分の足で歩き、 フィオリに会いスティグマに会い、 そうしてここまでやって来た。 その間たったの三ヶ月弱。 辛いこともあったけど楽しかった。哀しいこともあったけど幸せだった。
眼に滲む涙を振り払い、追憶を断ち切るかのようにジェムは相手を見上げた。 「ここから一番近い港より船に乗りノルズリ大陸に向かいます。そこから向かう先は―――、」 だが影の口から出たのは、ジェムが良く知る学院のそばの港ではなかった。 「えっ、あの、北の学院に戻るんじゃなかったんですか」 影は覆面の間からのぞく冷たい眼差しをちらりとジェムに向ける。 「誰がそのようなことを申しましたか」
蒼ざめるジェムを見る影の目はあまりにも冷え切っていた。 「全ては貴方様が導き出した結果。何かご不満がございましょうか」 ジェムは黙り込みうつむくしかなかった。 (それでもまだ、自分は恵まれているんだ―――、) ジェムがそう自分を慰めようとした時―――、
ふいに。 (―――ぼくは、何かしただろうか…) みんなそれぞれ信念をもって巡礼に臨んでいるのに、それを簡単に諦めてしまう自分は一体どんな努力をしただろうか。
(ぼくはまだ、何もしていない…っ!) ジェムは反射的に手綱を掴み、強くそれを引き絞った。
「待ちなさいっ、一体どこに行こうと言うのです。貴方様の居場所はどこにもないはずですよっ」 だがジェムはその言葉を振り切るようにさらに足を速めた。 漆黒に近い闇の中、手探りで森を進んでいくジェムの耳に早くも追跡者が立てるかすかな音が聞こえた。
だがどちらにしても悠長にしている暇はない。闇夜での追跡になれている影と足元すらおぼつかない自分とではどちらに分があるか分かりきっている。このままではほどなくして捕まるだろう。 (どこか、どこかに隠れなくてはっ) それで一体どれほど影の目を誤魔化せるのかは分からない。けれどもこのままなすすべもなく捕まることはできなかった。
―――っ… ざわりと背筋が総毛だった。無音の圧力にうなじがちりちりする。追跡者がすぐそこまで来ているのだ。 ―――早く、隠れなければ…っ ジェムはすぐ傍の繁みをがむしゃらに掻き分けて行く。
突然身体が沈んだ。踏み出したはずの足の先、そこにあるはずの地面はなかった。 (――間違っても逆の方に行くなよ。ちょっとした崖があるからな) 今更になって、スティグマの忠告がよみがえる。だがもはや遅い。ジェムはまるで黄泉の世界へ引きずり込まれるように斜面を滑っていく。 「うあっ、あっ…、うわぁぁぁ―――っ…」 ジェムの身体はなすすべもなく崖を転げ落ちていった。
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