「―――あの、あなたはどうして何も聞いてこないんですか?」 勇気を振り絞ったジェムは、思い切って男に話しかけた。 男の言葉に従っておとなしく横になると、それきりジェムと男の会話はぱったりと途切れてしまった。
男はただ黙って火のそばに座っている。 「ぼくが誰に追われているのかとか…、何で追われているのかって―――、」 何も聞いてこようとしない男への興味もあって、おそるおそる尋ねたジェムは静かな声音に問い返された。 「だったらいくらでも聞いてあげますよ。けれど、あなたは本当にその質問に答えられるんですか」 意表を突かれた。 どうしようもなくうつむいて、黙り込んでしまったジェムに男性は肩をすくめた。 「言いたくないのなら、そう簡単に人を試すようなことは口にするものではないですよ」
弱々しくうなずく。 「うっかり言質を取られてしまうと、後から言い逃れはできなくなりますからね」
男性のもっともな忠告をジェムはしゅくしゅくと受け止めた。大体答えられない問題を人に訊ねさせること自体趣味のいいことではない。 「それで?」 気を落としてすっかりしょげかえってしまっていたジェムは、男性の言葉にはっと目線を上げた。 「他に何か聞いてもいい質問はないのですか」 どうやら自分との会話を続けてくれる気があるのだと気付き、ジェムはぱっと顔を輝かせた。 「えっと…、名前とか?」 そのもっとも基本でありながら、だからこそなんともとぼけた問いにジェムは思わず相好を崩した。 「ぼくはジェムです。ジェム・リヴィングストーンといいます」
妙な褒め方をして男性はうっすらと微笑んだ。 「あの、あなたは何といいますか?」 男性はう〜んと首をかしげた。すぐには答えようとせず、戸惑ったように口を開け閉めする。返事をためらうような態度から、彼には何か答えられない事情でもあるのだろうかと心配になったジェムだったが、彼の様子は困っているというよりかは不思議がっているのに近かった。 「オレは確か…、ルーチェ? そう、たぶんルーチェだったと思います」 そのあまりに頼りない返答に思わず目をむく。 「オレはね、どうも人間の名前を覚えるのが苦手でしてね。がんばって覚えようとしてもすぐ忘れてしまうのですよ」
ことの突飛さに反比例するように、男性は大して深刻そうでもなく肩をすくめる。そうして唇の片端をにっと吊り上げると、改めて自信たっぷりな様子でうなずいてみせた。 「でも確かにオレはこの名前で呼ばれたことがあるような気がするんで、これがオレの名前だと思いますよ」
呆けた顔でジェムはうなずく。 「えっと、じゃあ、ルーチェさんはいったいどこからいらしたんですか? ルーチェさんはヴェストリ(西の)大陸の方ですよね」 ジェムの心臓が思わず大きく跳ねた。 「樹神ユークレースが祀られている、東の大陸でもっとも大きな神殿ですね。そこの門下街です。そう、ここからだとだいたい六日ぐらい歩いたところに在るんですけれども―――、」 ルーチェの言葉をさえぎり、ジェムはうめくように呟いた。 「その場所でしたら、ぼくは知っています…」
彼らが一番最初の祈りを捧げる神殿。 その距離は、あとたったの六日間。 感慨深げに呟くジェムをルーチェは不思議そうに見ている。その視線を受けてジェムは慌てて説明した。 「あ、その…ちょうど、ぼくたちもそこへ向かっていたところだったんです」 ルーチェは大げさに眉を動かした。その表情はどことなくわざとらしくなくもない。 「しかし今からあそこに行くとなると、ねぇ―――」
小さな独白の内容をジェムには告げないまま、ルーチェは猫のように目を細めて笑った。 「しかしジェムさん。あなたは結構お喋りな人ですね」
ジェムははっとなって慌てて頭を下げる。さっきから喜んだりあせったりと、慌ただしい事この上ない。そんな彼の様子にルーチェは苦笑してから、そうではないのだと首を振った。 「謝って欲しいわけじゃありませんよ。ただ最初の印象ではあなたは人見知りそうに見えたのに、意外と人懐っこくて驚いただけです。オレの第一印象はほとんど外れたりはしないのでね」 言いよどむ先をおもしろそうにルーチェは促した。ジェムは言いづらそうに視線をあちこちにさまよわせていたが、思い切って言葉を口に乗せた。 「…きっと、ルーチェさんの雰囲気がそうさせているのだと思います」 顔を赤らめうつむくジェムの前で、ルーチェは唇の端を片方だけ吊り上げた。 「オレは自分の性格を、そう親しみ易い方ではないと認識していたのですが」 ジェムはとっさに否定したが、確かに本人が言うように彼はけして気安く話しかけられるようなタイプではないだろう。 例えるならば、よく切れる氷のナイフ。
しかしいつのまにか、そのどこか素っ気無い距離感にジェムは安心を感じるようになっていた。 「じゃあ、せっかくなんで、その親しみやすさを利用してあなたの気に病んでることを相談してみるのはどうでしょうか」 ルーチェはまるで食事にでも誘うような軽い調子で持ちかける。だがそれを聞くや否や、だいぶ明るくなっていたジェムの表情がみるみるうちに曇っていった。 「やっぱり言えませんか」 うつむくジェムの顔は酷く悲しげなものだった。 「いえ、謝る必要はありませんよ」 ルーチェは再びそう言うとしたり顔でうなずいた。 「この場合は言えなくても仕方ないでしょう。仲間にも言えてないことを、多少袖を摺り合っただけのオレに話せというほうが無茶でしたね」 ジェムはぎょっとして顔を上げた。 |