第二章 7、「追憶の痛み」(4)

 


 この世界で最も勢力を誇る土地、《ノルズリ》大陸。

 しかし実質的にその中心となっているのはたった八つの王国だった。

   《聖なる湿原》『セントキッシンジャー』
  《影の大地》『テール・ドンブル』
  《主の庭園》『キリルライサ』
  《輝ける黄土》『オールブリアン』
  《紅の地》『クラースヌゥイ』
  《銀の箱庭》『ジルバガルテン』

 そして《理想郷》『ディオスティエラ』

 最も古くから存在し、伝統と権威を合わせ持つこの八つの王国。彼らには他の王家との差異を明らかにするために、ひとつの特権が与えられていた。
 それは、上級王位継承者に限り特別に大陸の真名、すなわち《ノルズリ》を名乗ることを許される権利である。






 誰も、何も言えなかった。
 ただ呆然とした眼差しをジェムに向けている。

「おまえがディオスティエラ…、八大王家の継承者だって?」

 ようやくにしてバッツが顔を引きつらせつぶやいた。信じられないと言わんばかりに歪んだ口元はどこか笑っているようでもある。

「そうです。王家の一員にして、皇太子殿下の兄にあたります。…可笑しいでしょう? ぼく自身、まったく自覚なんてないんです。そんなすごい家の血を引いているなんて…」

 ジェムもまた同意を示すように広げた両手を見ながら苦笑した。首をかしげ、困ったように笑うジェムの顔はどこにでもいる少年のものでしかない。

   ジェムは嗤う。  

 そう、本当に信じられない。
 自分は王様の顔すら見たことないのに。

 他人事としか思えないその事実は、まるで悪夢にも似て現実味に乏しい。

「じゃあ、もし今の王様が急に死んじゃったらジェムが王様になるのかな」

 不思議そうな顔をしたシエロがふとジェムに訊ねた。
 まったく想像にしがたいことではあるが、第一王位継承権というのはすなわちそういうことである。
 けれどジェムは慌てた様子で首を振った。

「いいえっ、それだけは絶対にありません。今のぼくは王位継承権を完全に放棄しています。その権利がないんです。たぶん次の王様は皇太子殿下が継ぐはずです」
「だがそうなると、へたすればディオスティエラからは王がいなくなるな」

 ジェムははっとスティグマを見た。
 視線を落としたスティグマは左手で口元を覆い独りごちる。

「わたしはディオスティエラ出身ではないが、一応ノルズリ大陸出身だ。話くらいには聞いたことがある。公式には、あそこの王には兄弟がおらず、今五歳になる王子が一人いるだけのはずだ。ノルズリ大陸の法律では例え王位継承者でも十二歳になるまでは王位につくことができない。王がいない間は代わりに議会がたつことになっているから、国がなりゆかないということはないだろう。だが、弱体化することだけは免れない」

「ノルズリ大陸の八大王家の一つが急激に勢力を失ったとなれば、それだけで世界の情勢は大きく変化するだろうな。パワーバランスがいきなり崩れるわけだから、世界は混乱し下手をすればかつてない規模の戦争が起こる可能性もある」

 ゼーヴルムもそれに追従した。
 ジェムは顔を青ざめさせると、からからに乾いた唇を噛みしめ俯いた。肩がかすかに震えている。
 だがそれは、世界を変えかねない重大な事態に関わることに臆したからではない。

 自分はまかり間違っても、世界の表舞台に立ちたいとは思わない。
 しかし事態はそれを許さない。自分の意思とは関係なくそれを強制させられるかもしれない。

 そのほんのわずかな可能性でさえ、彼にとって恐怖の対象だった。
 今にも泣き出しそうなジェムの耳にふぅとため息が届いた。

「お前らなぁ、そうやってジェムを脅かすんじゃねぇよ」

 傲慢なほど明らかな、闊達な声。
 視線をやればバッツが呆れた表情を浮かべ年長者二人を見ている。

「そんな滅多なこと、そうそう起こるはずもないだろ。王様って言うのはな、でっかい城の中にいて強い兵隊たちに守られてんだ。そんなに簡単におっ死んだりはしねえよ」
「そうそう。そんな確率は今のところは限りなく低い」

 うんうんとシエロもうなずいた。

「だから大人は頭が悪いって言われちゃうんだよ。疑心暗鬼に取り付かれて悪いほうにばっかり考える」
「だいたい、王様になるかどうかなんてジェムが自分で決めることだろ。いくらジェムが王様の子供だからって、他人がどうこう決められるものじゃ―――、」

 がたんっ

 バッツの口上の最中、激しく椅子が鳴った。何事かと集まる視線を振り切るように、荒い足取りで部屋を出て行く。
 あっけに取られる彼らの前で扉が音を立て閉まったとき、顔をしかめたバッツがぼそりとつぶやいた。

「…あの小娘、いちどきっちり締めてやらなきゃいけないな」

 刺青に彩られた顔を歪めて指をぽきぽきと鳴らす。
 その視線はフィオリトゥーラが座っていた椅子に向けられていた。

 彼女の生い立ちからして、今のジェムの告白を平然と聞いてはいられないだろうというのは分かる。
 しかし、いくらなんでもあそこまで露骨な反応をするのはいただけない。
 保護者であるスティグマも眉根を寄せ労しげなため息をついた。

「そうだな。誰かがはっきり言ってやる必要もあるかもしれんな」

 ゼーヴルムも軽くうなずき同意を示すが―――、

「フィオリさんを責めないであげてください」

 はっと視線が集まった。
 その先ではジェムが力ない仕種で首を振っていた。

「彼女は悪くないんです。だってそうでしょう? ぼくは彼女の仇も同然な八大王家の血を引く人間だし、ぼくの出自自体けして世間に認められるようなものじゃない…。彼女が気を悪くして当然なんです――、」

 彼女の苛立ちも悲しみも、至極正当なもの。
 それを責めることは、誰にもできやしない。
 すべての責め苦を受け負うべきは自分であると主張するジェムの顔は、しかし酷く沈んでいる。

「ジェム、それが君の原罪かい?」

 ふっ、と小さな、けれどその場の空気にはけしてそぐわぬ笑い声がした。壁際から部屋の中央へ軽い足取りで数歩進むと、シエロは周囲を見回して平然と言った。

「わかった。じゃあ彼女と話をつける役は俺が請け負うよ。みんなは気にせず話を続けてくれ」

 すうっと目を細め、口元に薄い笑みが浮かぶ。彼はフィオリのあとをたどるように扉に向っていった。

「えっ? いや、待つんだ。そういうことは保護者であるわたしが―――、」
「あなたじゃ意味がないから言ってるんだよ」

 引きとめようと手を伸ばしたスティグマの肩を逆につかみ、シエロはその耳元でそっとささやいた。

「あんたじゃ傷の舐めあいにしかならない。そういうことはジェムにでもやってあげるんだね」

 目を見張るスティグマに意味ありげな視線を向け、シエロはいま一度ジェムに微笑みかけた。

「俺はジェムの決断を信じているよ。思うとおりにやればいい」

 そう言って彼はさっさと部屋を出て行った。




 

「……。なんつうか…、あいつもかなり勝手な奴だな」

 残された人々の顔に浮かぶのはまるで狐につままれたような表情だ。怒るよりも先に呆れてしまう。

「あのっ…」

 呆然と扉を見ていたジェムがふいに声を張り上げた。
 振り返ったスティグマは、はっと目を見張る。

 そこにあったのは思わず息を呑むほどの凄み。
 言い換えるならば『覚悟』とも言えるだろう。

 ゆっくりと呼気を整えたジェムは、妙なまでに真っ直ぐな視線を彼らに向けた。

「えっと、シエロさんは出ていってしまったんですが、皆さんには一つ決めていただきたいことがあるんです」
「決めるって、何をだ?」

 バッツがきょとんと不思議そうな顔をする。
 ジェムはちょっとだけ笑みを浮かべるが、それでもまだその表情は悲しみのほうが勝っていた。

「それは、この先の巡礼にぼくを連れて行くか否かです」

 舌打ちの音が聞こえた。
 彼にしては珍しくはっきりと意思の通ったその声に、ゼーヴルムは首を振って見せる。

「馬鹿馬鹿しい。私たちが、お前が王家の一員だというただそれだけの理由で巡礼に参加させない狭量な人間に見えるか?」
「違います。そういうことを思って言ったわけじゃないんです」

 ジェムは慌てて否定する。

「だけど、ぼくを連れて行くことはかなりリスクが大きいことだと思うんです。ディオスティエラ王家はぼくが特定の人間と親しくなるのを好みません。三年前、ぼくが戒めを受けたあの時―――、」

 ジェムは目を伏せると唇をぎゅっと噛んだ。

「ぼくを祝ってくれていた友人たちもまた、巻き添えを食らい、精神的にも肉体的にも後遺症を伴う重傷を負って学院を去らなくてはならなくなりました…」

 今でもまだ、あの時の事を思い出すと申し訳なさで胸が詰まる。
 彼らは何も悪くなかった。
 ただ、自分と一緒に居た、それだけがために取り返しのつかない目に合わせてしまった。

 理由ある痛みならまだ耐えることができる。
 しかし自分のせいで理不尽な苦痛を与えられてしまった彼らの苦しみはいかほどのものだっただろう。

 ふと見れば、握り締めたジェムの拳がかすかに震えている。
 ジェムの心の傷は、実際に肉体に与えられた痛みよりもそのことに起因するものの方が深いのかもしれない。

 ジェムは涙の滲んだ瞳を彼らにぐっと向けた。

 あんなことは、もう二度と繰り返してはならない。 
  何としてでも、たとえ何を犠牲にしてでもそれは避けなければならなかった。



  『  もう。  二度とあんな思いはしたくない。  』


 それはジェムがこの告白をする際、たったひとつ心に定めたことだった。

「…あの時と、まったく同じことが皆さんにも降りかからないとは言い切れません。ぼくは皆さんに迷惑をかけることだけは絶対に、絶対にしたくないんです」

 その決意を告げる瞳は、思わずはっとさせられるほどに強い光を宿している。
 ジェムはきっと唇を引き結び、答えを待った。
 ぴんと張り詰めた緊張が部屋に満ちる。 ふいに、

「ジェム」

 ゼーヴルムが声をかけた。
 振り返る先で、続く言葉は彼にしては珍しいぐらいに優しい響きを持っていた。

「ひとつお前にいいことを教えてやろう」
「…いいこと、ですか?」
「私たちは強い」

 首をかしげたジェムは息を呑んだ。

「軍人である私は当然であるとしても、シエロもまたその私と渡り合えるぐらいには強く、自己申告が正しければそこのバッツも一通りは使えるらしい」
「自己申告とは何だっ、自己申告とは! こっちはいくらでも相手してやる準備はできてっぞ」

 バッツが威勢よく吠えたてる。が、ゼーヴルムはそ知らぬ顔で話を続けた。

「たぶん三人力を合わせれば、さらにもう一人分くらいは面倒も見られる。お前の級友の学生達とはまるで状況が違っている。だからジェム、お前は私たちのことは気にしなくていい。自身がどうしたいのか、言ってみろ」
「ぼっ、ぼくは…、みんなに迷惑がかからないように―――、」
「だから最初っから迷惑はかからないっていう前提の話だろうが? わっかんねぇやつだな」

 呆れた眼差しをバッツが向ける。
 ゼーヴルムも、スティグマもジェムを見ている。

 わなわなと身体が震えた。
 見開いた眼いっぱいに溜まった涙が、つぅっと頬を流れ落ちた。

「…ぼく、ぼくは―――、」

 長い間、胸の奥に閉じ込めていた思いがようやく言葉になろうとしていた。