月の無い夜だった。 空には紗のように薄く雲がかかっている。そのため、新月に特有のピカピカ光る星の瞬きは見当たらず、闇に沈んだかのような暗く静かな夜だった。 しかし少年の心はそれでも明るく浮き立ち、その胸の内は磨りガラスのランプにも似た柔らかで暖かな光に満ちていた。 「思い上がらないで下さいませ」 とうとつに、低く平坦な声が耳を打つ。 そこに人がいたことに彼はまったく気付かなかった。いや、気付かないのも無理はないかもしれない。それは闇に同化するような黒い装束を身にまとい、影のようにそこにひっそりと立ちつくしていたからだ。 「何故貴方様が寄宿学校に預けられたのか、その意味を考えたことがございましょうか。それはけして現在のように世間の注目を浴びさせるためではありません。己の力を誇示すること。これはけして《あのお方》の望むことではありません。即刻おやめくださいませ」 少年はかっとなった。 「あなたが誰で、いったいどうしてぼくにあれこれ文句をつけるのかは知りません。でもぼくは今、自分のしたいことをしてるんです。やめろなんて勝手なこと言わないでください」 訳が分からないものの、たぶんこの人が自分の家族の使いであろう事だけはうすうす勘付いていた。だが少年はもはや自分の家族と言うものになんの望みも抱いていなかった。むしろ自分を一度捨てた家族なんかに今の自分の生活を邪魔されたくないと、そこまで考えるようになっていたのだ。 怒りで目の前を真っ白にしていた少年だったが、ふいに大きく息を吸い込んで気持ちを無理に落ち着けた。
「もし、あなたが誰かに言われてぼくの所に来たんでしたらその人に伝えてください。今までずっとお互いに係わり合いなく過ごしてきたんだから、今更になって干渉しないでください、と」 それは少年の紛れもない本音だった。
「ぼくに家族は必要ないです。ぼくは家族をはなからいないものと思っています。ただ、自由にさせてくれればそれでいいんです。あなたたちに迷惑はかけません。もうぼくのことは気にしないで―――、」 ばしん、と。 湿った音がした。 少年はその場に尻餅をついて目をしばたたかせる。衝撃に遅れて痛みに気が付いた。無意識に手をやった頬はしびれるような痛みとともに熱を発している。
「なにか、勘違いをしておられませんか」 自分を見下ろす黒い眼。 「誰も貴方様なんぞを気にしたいものですか。何の役にも立たないどころか重大な問題を引き起こしかねない厄介者、穢れた出自を持つ咎人にも近い分際で…。現に貴方様がおられるだけで被害をこうむる人間がいるのです。貴方様の存在自体がすでに『迷惑』なのですよ」 影はゆっくりと少年に向かって歩いてくる。少年は思わず後退りしようとしたが思うように体が動かない。 「貴方様は単に生かされているに過ぎないのです。そのような身の上であるにもかかわらず自由に生きたいなどとはおこがましいにもほどがある。はっきり言いましょう。貴方様が生まれたこと、そのこと自体が過ちなのです」 がんっ、と頭を思いっきり殴られた気がした。
「…っ。なぜですかっ。何でそんなに酷いことを言うんですかっ。ぼくはそんなにっ、そんなに居てはならない人間なんですか!?」 少年は目に涙をいっぱい溜めて、それでも果敢に言い返す。
「その通りです」 少年の目から涙が溢れた。 「貴方様は存在してはいけないのです。ただ情けだけで生かされている、迷惑で、役に立たない生き物なのです。貴方様に求められていることは唯一つ。けして目立たず、誰にも見咎められぬよう、静かに大人しく存在せぬがごとく生きることだけ。しかしそれさえも聞き分けていただけないなら仕方がありません。これは《あのお方》の本意ではありませんが、そのことを今からじっくり教えて差し上げましょう。直接、貴方様の御身体に」 いつの間にかその手に大振りの刃物が握られていることに少年は気付いた。少年は悲鳴を上げようとしたがその直前に口を塞がれる。そのまま地面に突き倒された。 「――ぐうっ…!!」 肩口に灼熱の痛みが走った。身体が自分の意思とは無関係に数度痙攣を起こす。 「《あのお方》はとても慈悲溢るるお方です。これほど危険な存在である貴方様ですら無下に命を絶つことはいたしません。貴方様はただこちらの指示通りに大人しくさえしていてくださればいいのです。そう。何も難しいことではありません」 肩に突き立てられた刃はゆっくりと心臓の上の皮膚を裂き、肌を滑っていく。溢れる血潮が服を濡らしていくのが分かった。 「貴方様がこれから耐えなければならない痛みに比べれば、このうえなく楽なことですよ」 ひどく優しげな声がどこか遠くから聞こえた。 ジェムはゆっくりと息を吐いていく。 「少年は刃物でつけられた傷のほかに、肋骨二本と両腕、それから左足の骨を折られていました」 スティグマが呆然とつぶやくがジェムは首を振った。 「いいえ。これはまだマシなほうです」 力ない仕種だがそれは明らかに否定を意味していた。
「少年は無事に回復をしました。しかし、それ以来なにか暴力を連想するような場面に行き当たると、そして公の場で自分の力を示そうとすると頭の中が真っ白になって指先が震えて吐き気が起こって―――、」 ジェムはぎゅっと目をつぶる。 「納得いかねぇよ…」 ふいに唸るような声がした。 「何でだよ…、なんでそんな酷い目に合わされなきゃいけないんだよっ」 顔を真っ赤にしたバッツが怒りもあらわに問いかける。強く握り締めた拳が抑えきれない憤りを如実に示していた。
「その時少年には、目立たぬように大人しく暮らすことのほかもうひとつ言い渡されたことがありました。―――それは…、少年が遠い昔に用いていた名前を忘れることでした」 ジェムはごくりとつばを飲み下した。 この先の言葉を述べることはひどく勇気のいることだった。
自分は要らない人間じゃない。 その言葉が、崩れ落ちそうになる自分の決意を支える唯一の命綱だった。
「少年の名前はジュエル…。《ジオ・ジュエル・ディオスティエラ=ノルズリ》。これが彼に与えられていたかつての名前です」 ジェムの顔がくしゃりと歪む。 「それは北の大陸の八大王家のひとつ、ディオスティエラの第一王位継承者の名前でもありました」 |