第二章 7、「追憶の痛み」(3)

 


  月の無い夜だった。  

 空には紗のように薄く雲がかかっている。そのため、新月に特有のピカピカ光る星の瞬きは見当たらず、闇に沈んだかのような暗く静かな夜だった。

 しかし少年の心はそれでも明るく浮き立ち、その胸の内は磨りガラスのランプにも似た柔らかで暖かな光に満ちていた。
 そこに、一筋の影が差し込むまでは。




「思い上がらないで下さいませ」

 とうとつに、低く平坦な声が耳を打つ。
 ただ一人、夜の庭を散策していた少年ははっと息を呑んだ。

 そこに人がいたことに彼はまったく気付かなかった。いや、気付かないのも無理はないかもしれない。それは闇に同化するような黒い装束を身にまとい、影のようにそこにひっそりと立ちつくしていたからだ。
 だから、何故気付かなかったのかが問題なのではない。何故、このような人物がここにいるのかが重要だった。 彼の前に立ちふさがった影は、ひどく冷たい眼差しで少年を見下ろしていた。

「何故貴方様が寄宿学校に預けられたのか、その意味を考えたことがございましょうか。それはけして現在のように世間の注目を浴びさせるためではありません。己の力を誇示すること。これはけして《あのお方》の望むことではありません。即刻おやめくださいませ」
「何でそんなことを言うんですか」

 少年はかっとなった。
 その影が誰なのか。何故突然自分の前に現れたのか。そんなことはまったく分からない。しかしその理不尽な言いように少年はひどく腹を立てた。

「あなたが誰で、いったいどうしてぼくにあれこれ文句をつけるのかは知りません。でもぼくは今、自分のしたいことをしてるんです。やめろなんて勝手なこと言わないでください」

 訳が分からないものの、たぶんこの人が自分の家族の使いであろう事だけはうすうす勘付いていた。だが少年はもはや自分の家族と言うものになんの望みも抱いていなかった。むしろ自分を一度捨てた家族なんかに今の自分の生活を邪魔されたくないと、そこまで考えるようになっていたのだ。

 怒りで目の前を真っ白にしていた少年だったが、ふいに大きく息を吸い込んで気持ちを無理に落ち着けた。
 ここで怒りに我を忘れたら負けになる。少年は自分にそう強く言い聞かせた。それが彼の矜持を守る唯一の手段だった。

「もし、あなたが誰かに言われてぼくの所に来たんでしたらその人に伝えてください。今までずっとお互いに係わり合いなく過ごしてきたんだから、今更になって干渉しないでください、と」

 それは少年の紛れもない本音だった。
 自分は何も望まないし、望まれたくもない。それよりも、これまでのように放っておいて欲しかった。 だから少年ははっきりこう言った。

「ぼくに家族は必要ないです。ぼくは家族をはなからいないものと思っています。ただ、自由にさせてくれればそれでいいんです。あなたたちに迷惑はかけません。もうぼくのことは気にしないで―――、」

 ばしん、と。 湿った音がした。

少年はその場に尻餅をついて目をしばたたかせる。衝撃に遅れて痛みに気が付いた。無意識に手をやった頬はしびれるような痛みとともに熱を発している。
 その時になってようやく、自分は殴られたのだとわかった。

「なにか、勘違いをしておられませんか」

 自分を見下ろす黒い眼。
 漆黒のそれは奈落へ続く深い穴だ。
 ぞくりと、背筋に寒気が走った。

「誰も貴方様なんぞを気にしたいものですか。何の役にも立たないどころか重大な問題を引き起こしかねない厄介者、穢れた出自を持つ咎人にも近い分際で…。現に貴方様がおられるだけで被害をこうむる人間がいるのです。貴方様の存在自体がすでに『迷惑』なのですよ」

 影はゆっくりと少年に向かって歩いてくる。少年は思わず後退りしようとしたが思うように体が動かない。

「貴方様は単に生かされているに過ぎないのです。そのような身の上であるにもかかわらず自由に生きたいなどとはおこがましいにもほどがある。はっきり言いましょう。貴方様が生まれたこと、そのこと自体が過ちなのです」

 がんっ、と頭を思いっきり殴られた気がした。
 心臓を太い針で貫かれたら、きっとこんな気持ちになるのだろう。
 今までも何度か罵倒や難癖を浴びせられたことはあった。しかしここまで容赦もなく痛烈な否定の言葉を突きつけれたのは初めてだった。

「…っ。なぜですかっ。何でそんなに酷いことを言うんですかっ。ぼくはそんなにっ、そんなに居てはならない人間なんですか!?」

 少年は目に涙をいっぱい溜めて、それでも果敢に言い返す。
 しかし、答えはあまりに簡潔だった。

「その通りです」
「――っ」

 少年の目から涙が溢れた。

「貴方様は存在してはいけないのです。ただ情けだけで生かされている、迷惑で、役に立たない生き物なのです。貴方様に求められていることは唯一つ。けして目立たず、誰にも見咎められぬよう、静かに大人しく存在せぬがごとく生きることだけ。しかしそれさえも聞き分けていただけないなら仕方がありません。これは《あのお方》の本意ではありませんが、そのことを今からじっくり教えて差し上げましょう。直接、貴方様の御身体に」

 いつの間にかその手に大振りの刃物が握られていることに少年は気付いた。少年は悲鳴を上げようとしたがその直前に口を塞がれる。そのまま地面に突き倒された。

「――ぐうっ…!!」

 肩口に灼熱の痛みが走った。身体が自分の意思とは無関係に数度痙攣を起こす。

「《あのお方》はとても慈悲溢るるお方です。これほど危険な存在である貴方様ですら無下に命を絶つことはいたしません。貴方様はただこちらの指示通りに大人しくさえしていてくださればいいのです。そう。何も難しいことではありません」

 肩に突き立てられた刃はゆっくりと心臓の上の皮膚を裂き、肌を滑っていく。溢れる血潮が服を濡らしていくのが分かった。
 痛みとはまったく別にぞくりと背筋が冷たくなる。

「貴方様がこれから耐えなければならない痛みに比べれば、このうえなく楽なことですよ」

 ひどく優しげな声がどこか遠くから聞こえた。





  ※ ※ ※





「気が付いた時、少年は病院のベッドの上でした」

 ジェムはゆっくりと息を吐いていく。
 その顔色は悪く声もひどく弱々しい。それはまるで、一気に百も二百も年老いてしまったかのようだった。

「少年は刃物でつけられた傷のほかに、肋骨二本と両腕、それから左足の骨を折られていました」
「それは、かなりの重症だ」

 スティグマが呆然とつぶやくがジェムは首を振った。

「いいえ。これはまだマシなほうです」

 力ない仕種だがそれは明らかに否定を意味していた。
 そう。理由あって傷付けられるならば、これはまだ納得のいく痛みだ。そこに意味があるのならば、なんとか我慢できる…、我慢できると思える範囲。
 ジェムはぎゅっと唇を噛み締める。

「少年は無事に回復をしました。しかし、それ以来なにか暴力を連想するような場面に行き当たると、そして公の場で自分の力を示そうとすると頭の中が真っ白になって指先が震えて吐き気が起こって―――、」

 ジェムはぎゅっと目をつぶる。



  学院の試験を受けようとするたびに。
  目の前で喧嘩が起こるたびに。
  あの時受けた痛みと恐怖。
  それらが鮮明に蘇る。

  幻覚と呼ぶにはあまりにリアルな悪夢。



「納得いかねぇよ…」

 ふいに唸るような声がした。

「何でだよ…、なんでそんな酷い目に合わされなきゃいけないんだよっ」

 顔を真っ赤にしたバッツが怒りもあらわに問いかける。強く握り締めた拳が抑えきれない憤りを如実に示していた。
 それがもはや取り返しのつかない過去の出来事であっても、自分とは関係ない他人事であってもバッツにとっては理不尽なことへの怒りを抑える理由にはならないらしい。
 バッツだけではない。説明を求める多くの視線に答えるようにジェムはことさらゆっくりとうなずいた。

「その時少年には、目立たぬように大人しく暮らすことのほかもうひとつ言い渡されたことがありました。―――それは…、少年が遠い昔に用いていた名前を忘れることでした」

 ジェムはごくりとつばを飲み下した。

 この先の言葉を述べることはひどく勇気のいることだった。
 声を出そうと口を開くだけで鼓動が荒くなり、のどが渇く。
 頭の中が真っ白になり、吐き気がした。
 だがジェムは怯える自分の心を懸命に叱咤した。これを言わなければ今までの告白はすべて無駄になる。
 ジェムはルーチェの顔を、言葉を必死で思い出していた。

 自分は要らない人間じゃない。

 その言葉が、崩れ落ちそうになる自分の決意を支える唯一の命綱だった。
 そして、ジェムはとうとうその名を口にした。

「少年の名前はジュエル…。《ジオ・ジュエル・ディオスティエラ=ノルズリ》。これが彼に与えられていたかつての名前です」

 ジェムの顔がくしゃりと歪む。

「それは北の大陸の八大王家のひとつ、ディオスティエラの第一王位継承者の名前でもありました」