《――風であり鳥であり空の一部である者の名において。わが求めに応じ、風霊よ! その清き翼はすべてを拒絶する盾となるっ》
シエロの鍵呪(キー・スペル)に反応して不可視の防御壁が彼らの周りに展開する。ジェムにとってはアウストリ大陸に入ってから幾度となく聞いた呪文だ。
この呪文が完成すればもはや何者も彼らを害することはできない。結界が無事張られたのを確認して、その外にいるゼーヴルムとバッツは再びそれぞれの得物を構えなおした。後は何も心配することなく戦いに没頭できると言う気持ちの表れだろうか。
いっぽう唯一にして最も重要な仕事を終えたシエロはやれやれとつぶやきその場に腰を下ろした。
「さて、あとは彼らが無事邪魔者を退散させるのを待つだけだ」
一度結界が完成されれば中に居る人間ができることはもはや無い。シエロは早々にくつろぐ体勢に入ったが、ジェムはいつもの事ながら何とも落ち着かない様子で外の戦闘をうかがっていた。
「ジェム、君も座れば? そんなんじゃ疲れるだけだぜ」
「シエロさん……、ゼーヴルムさんたちは大丈夫でしょうか?」
「まあ、そう心配することはないでしょう」
あっさりそう答えると、腕を引いてジェムを自分の隣に座らせる。
「対処法もだいぶ分かってきたからね」
襲い掛かる魔物や獣を幾度となく撃退していくうちにひとつ判明したことがあった。
襲来する群れが単なる獣であろうと魔獣であろうと、そこには中心となるボスがいるということだ。それは群れのリーダーである場合もあるし同じ系列の妖獣である場合もある。
だがどちらにしてもその一匹を倒せば、群れは散り散りになるのだった。
個体それぞれが強い魔物の群れを退治するのはなかなか骨の折れる作業だが、その場合は一度にやってくる数はさほど多くない。 面倒なのは獣の群れの時だ。 だがそれも、この法則を見出してからはだいぶ楽になった。とりあえずボスを一匹見つけて仕留めればそれで終わる。
「だけど何で、これほどまでにぼくたちは襲われるんでしょうか」
ゼーヴルムたちが群れの中心を探しながら、狼を一匹一匹屠っていくのを恐々と目の端に捕らえつつジェムはそうつぶやいた。
「それは俺らが巡礼使節だからじゃないの?」
「でも、それだけじゃ説明できないと思うんです」
不思議そうに首を傾げるシエロにジェムはかぶりを振った。
「今回は偶然腕の立つ人がメンバーに多かったから良いけれど、すべての巡礼がこの調子であるならそんな巡礼が成功するわけ絶対にないんです」
ノルズリ大陸の巡礼者は優秀な生徒が集う学院の生徒の中から選ばれる。他の大陸の巡礼者がどのような基準で選ばれるのかは分からないが、仮にも神殿を巡る子供たちだ。そう荒事に秀でた人間が選ばれるとは思えない。
もしそうなら、大人の護衛がつけられるなど何らかの対策が採られているはずだ。
つまりはそれだけこの巡礼が異常だということである。
「ふむ、そうだね。魔物や獣の群れにこれだけ頻繁に襲われるということは確率的に有り得ないことだ。何らかの作為性が感じられなくもないね」
ふむふむと納得するシエロにジェムもうなずく。
「要するに、何故ぼくたちがこのような目に合っているのか推測できれば、その理由さえ分かれば巡礼はもっと楽に――っ、」
ジェムは言葉の途中ではっと息を呑むとシエロを振り返る。その唐突な動作にシエロはいささかぎょっとした。
「えっ、な、なにさ?」
「シエロさん……、あなたは今――、」
「っしゃあっ、やったぞ!」
耳をつんざく歓声に、ジェムとシエロは反射的に声の方を目をやった。
見るとバッツが巨大な狼らしき獣の首根っこを掴み、嬉しそうにこぶしを頭上に掲げている。
「ああ、バッツが大元の獣を退治したのか」
三々五々に散っていく獣たちを見てシエロがほっと息をつく。そしてぱちんと指を鳴らすと精霊魔法の防御壁を解除した。
「っはあ〜、つっかれたなぁ」
さすがに疲労を覚えたのか、敵の屍を投げ捨てたバッツがずるずるとその場に座り込む。
「莫迦め、調子に乗って暴れるからだ」
「てめえっ、そう言っていつもいつも良い所を持っていくつもりだろうがそうはいかねえぞ。親玉の獣を倒したのは、今日はおれだからな!」
眉をひそめるゼーヴルムに向かって、バッツは得意げに自分を指し示す。
どうやら彼らの間では妙な勝負が繰り広げられているらしい。一方的にバッツが盛り上がっているだけの様でもあるが。
呆れたように息をつくゼーヴルムも今回はさすがに疲れたようで、剣の血糊を拭う動作もいささか精彩を欠いていた。
「しっかし、すでに馬車も行っちゃったよねぇ」
シエロが背伸びをして遠くをうかがう。しかしどれほど目を凝らしても、馬車はとっくの昔に遠く安全な所まで走り去っている。
「このまま歩いて湖まで行かなきゃいけないのかよ」
バッツの口からやれやれとため息が漏れる。
さほど遠くないところに森林地帯が見えるとは言え、目的の湖はそのさらに向こうらしい。自分たちの足ではどれくらい掛かるのかと考えるとそれだけで気が重くなる。
「まあ一応、こんな見晴らしの良い所でボケッとしているのも無用心だし。ほら、とりあえずあそこの森まで行こうぜ。さあ、バッツも立って」
「おまえなぁっ、少しは休ませろよ! てめえらは防御結界の中でのんびり休めたかも知れねえけど、こっちはずっと戦ってたんだぞっ。ちっとは感謝して、思いやりという物を形で示せっ」
「いや、休憩は形をもたないと思うけど……」
むくれてその場を動こうとしないバッツに、シエロは困ったように頭を掻く。
「別に疲れてるならいくらでも休んでくれて構わないけど、ここはやめておいた方がいいと思うよ。なんだか悪い予感がするんだよね」
「悪い予感……?」
ゼーヴルムが眉をひそめて振りかえる。
「嫌な風が吹いている。……根拠はないんだけどさ」
しかしシエロは落ち着かぬ様子で周囲をうかがっている。そしてはっと背後を振り返ると顔をしかめた。
「ほら、言わんこっちゃない……」
ジェムたちもつられたように振り返ったが、そこに見えたのは空にかかる黒い影だ。
「渡り鳥……、ですか?」
連なって飛ぶ姿は確かにそう見える。バッツも不思議そうに首をかしげた。
「だがそれにしては大きいな」 「渡り鳥なんて、そんな可愛いものじゃないよ」
シエロは首を振る。
手のひらを額に当て、彼は空を仰いだ。
「アレは、――風魔鳥だ」
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