緑の匂いを濃厚に含んだ風が、月光を思わせる艶やかな金髪を優しくなぶる。
「あ〜、気持ちいい。極楽の西風とはまさにこの事だね」 吹きそよぐ翠風を全身に受けながら、シエロはうっとりと目を細める。それはまるで美しい音楽に聞き惚れているような様相だ。 「あんまりボケッとしてっと真っ逆さまに落っこちっぞ。つうか西風じゃなくて南風だろうが」
バッツは声高に怒鳴ったが、反射的に枝を掴む手に力を込めたのもいたし方がないことだろう。 何せ彼らがいるのは地上を十数メルトル下に見下ろす、高い木の上。
バッツは思わず身をすくませるが、一方のシエロはそんなことは気にも留めず、むしろ地上に居る時よりもはしゃいだ様子で身を乗り出すと地上を指を差した。 「あっ、見てごらんよ。あんな所に村があるっ。これじゃあ、昨日は野宿なんかしないで村に行ったほうが良かったね。まったくついてないなぁ」 確かに木々の隙間にちらほらと屋根が見える。其処から幾筋かの煙も上がっていた。人間が生活している証拠である。さらに遠くには彼らの目指していたはずの湖が、きらきらと薄日を湖面で反射していた。 だがバッツはそれに愛想なく答え、代わりに奇妙に浮かれた様子のシエロを半眼で見上げた。そして思う。
そう、確か――、 「……煙と何とかは高い所が好き、か」 真に至言である。シエロは怪訝そうな顔でバッツを振り返った。 「ん? なんか言ったかい」
バッツはじっとりと睨みつけるが、シエロはくすっと笑って肩をすくめた。 「さあね。一応怒っているのは確かだけど。でも大体人の頭の中なんて、いくら言葉を尽くしても理解出来るものじゃないしさ」
バッツは深々とため息をつくと、緑に覆われた下界を見下ろす。果たして自分は、こんな所でいったい何をしているのか。
バッツは再びやたらと楽しげなシエロをちらりと見る。
――数刻前。 夜が明けたばかりの頃合いだ。辺りは夜露にびっしょりと濡れ、木々の間には乳白色の朝靄が立ちこめる。
「来てくれ。向こうの洞穴でジェムが呼んでいる」
とっくのとうに目覚めていたバッツが首をかしげる。彼は朝は礼拝という仕事があるため、他の仲間よりもずっと朝が早い。
「今すぐだ。だから朝食はここでは食えんな。一応向こうに移動してから考えてはみるが」
眠たげな声で即座に異論を唱えたのはシエロだった。
「何でこんな朝っぱらから移動しなくちゃいけないのさ。用があるならジェムがこっちに来ればいいじゃん」
セルバがちょこんと首をかしげた。寝ている間も着けっぱなしだった眼帯の位置を細かく調整しながらも、その顔はどこか心配そうだ。 「もしかしてなんかあったのか? ジェムは大丈夫か」 ぎょっとした顔のバッツを落ち着かせるように、ゼーヴルムは無造作に首を振って見せた。 「いや、別に何か緊急の事態が起こったと言うわけではない。ただジェムが皆に言いたいことがあると言っていただけだ」
あくびを噛み殺しながらシエロは顔をしかめた。 「昨日勝手に出て行ったのはジェムじゃん。それなのに人を呼びつけようだなんて、厚かましいにも程がある。俺は行かないからね」
寝不足で機嫌が悪いにしろ、まったくもって彼らしくない言い様にバッツとセルバは目を見張る。ゼーヴルムも苛立たしげに眉をひそめて言った。 「シエロ、我が儘を言うんじゃない」
シエロは口元を歪めてにやりと笑う。 「あ〜あ、だんだん腹が立ってきちゃったよ、俺。どうしても一緒に来いって言うんだったら、いったん巡礼を外れるよ。ジェムに伝えて。来て欲しかったら、俺の所まで頭を下げに来い、ってね」
金の髪の青年は子供のように、ふいっ、とそっぽを向く。 「じゃあちゃんと伝えてね。それでは行くよ、バッツ」
ぐいっと腕を引かれたバッツが慌てて叫ぶ。 「何でって、君は俺と一緒に来ることになってるの。つべこべ言わずにこっちに来るっ」
シエロとずるずると森の奥に引きずられて消えていくバッツを、図らずも見送ってしまったセルバである。彼はおずおずとゼーヴルムを見上げた。 「えっと、どうするの?」
ゼーヴルムはシエロたちが向かった方面とは逆を向く。足早に歩き始める彼をセルバは慌てて追いかけた。 顔を伏せるゼーヴルムはそこでようやく小さく息を吐いたが、その行為の示す本当の意味にセルバはまだ気付かなかった。
ゼーヴルムとセルバが森をしばらく歩くと、突如崖の下に着いた。 「ジェム・リヴィングストーン」 ゼーヴルムがそう呼びかけると、そこに刻まれたひび割れの一つ、小さな洞穴からジェムが顔を出した。
「ゼーヴルムさん、セルバさんっ」 彼はちょこちょこと二人の前に走り出てきて頭を下げる。 「お手数をかけてしまってすみません。シエロさんとバッツさんはどうなりましたか」 ゼーヴルムは答えず、森の向こうを顎でしゃくる。 「伝言だ。来て欲しければ、自分で頭を下げに来い、とさ」
ジェムはおもむろにため息をついたが、それはどちらかと言うと安堵に近いものだった。セルバはここに来てようやくことの不自然さに気が付いた。二人のやり取りに不思議そうに首をかしげる。 「ねぇ、これはいったいどういう事なの? セルバにも教えて」
ジェムは若干青ざめた顔つきで周囲を見回していた。がさがさと周囲の茂みが音を立てている。
「予想以上に早いな」
ジェムとゼーヴルムはこのことを最初から予想していたかのように、冷静にこの事態を受け止めている。もしやこうなる事を知っていて彼らは自分をここに連れてきたのか。
「ごめんなさい。ぼくにも確証があった訳ではないんですけど――、」
ゼーヴルムがジェムの出てきた小さな洞穴を指し示す。入り口に比べたら中はまだ広い方だが、それでも三人が入ればいっぱいになってしまうだろう。 「えっ!? ちょっと待ってよっ。そんな所に入っちゃったら逆に逃げ場がなくなっちゃう……っ」 セルバはさらに目を見張りぶんぶんと首を振るが、ゼーヴルムは有無を言わさずその腕を掴んだ。 「心配するな」 彼は真剣そのものの灰色の眼差しで、まっすぐセルバを見た。 「無駄死ににはさせない」
三人の巡礼者がその小さな洞穴に飛び込んだ途端、その生き物たちは素早く茂みから飛び出した。 わずかに緑みを帯びた灰色の体毛。身の丈に合わない長い尾に鋭い牙。先日カルム湖行きの行合い馬車を襲ったのと同じ、モリオオカミの群れだ。だが本来黒色のはずの瞳は今は血に濡れたように真っ赤である。 狼たちは警戒するように洞穴の周囲を囲み熱心に臭いを探っていたが、自分たちが懸念するようなものは存在しないことを知ると我先にとその狭い穴蔵に跳びこんだ。 ――悲鳴は一切、聞こえて来なかった。 いったいどれだけ時間がたったのか。五分か十分か。あるいは一時間、二時間かも知れない。
その牙は血に染まっており、口元には肉片が散っている。腹を満たした為か、その顔はどことなく満足気でこのまま毛繕いの一つでも始めそうだ。 だが、獣がひしめくその場所ににわかに人間の足音が届いた。獰猛なモリオオカミたちはふっと顔を上げるが、その正体に気付くと警戒の仕種を解いた。
「ふん、どうやら首尾よく獲物は仕留めたようだな」 朽葉色の髪の男だった。
だが狼たちはその男をデザートにしようという気はさらさらないようで、それどころか群れの長ででもあるかのように一歩引いた態度を取っている。 男は狼の群れを横切ると、巡礼者たちが逃げ込んだ洞穴を覗き込んだ。
「この様子では骨も残さずに食われたな」 男はにやりと口元を歪めた。その顔は食事を終えたモリオオカミたちそっくりで、しかしそれ以上に醜悪だった。 「手こずらせおったが、しかしワシの手に掛かればちょろいもんよ」 男は満足気に皮の弛んだ顎を撫ぜる。そしてふと思いついた顔で足元にひれ伏す狼たちを見た。 「おい、畜生ども」 顔を上げたモリオオカミはまるで忠実な猟犬のように一糸乱さぬ姿勢で男の言葉を待つ。 「上手にできたご褒美だ。解放してやる。何処となりと行くが良い」 男はぴしりと手にした鞭を鳴らす。するとそれを合図にしたように、狼たちはいっせいにその場から走り去った。それは足枷を外され、這う這うの体で逃げ出しているようにも見える。その目は黒に戻っていた。 山野の獣を支配下に置き、自在に操ることができるこの男は『操魔獣術』と呼ばれる特異能力の保有者、いわゆる術者だった。
ただし本来ならば今回の依頼は『殺し』ではないはずだった。 「おい。こんなところで何をしている」 一仕事を終えたことで油断していた男は突然声を掛けられて慌てて振り返った。しかし相手を確認したところで再びにやりと笑みを浮かべる。 「これはこれは、ジャマル・ガーゼイ殿ではありませんか」 親しげな呼びかけだが、そこには嫌味たらしさがありありと滲み出ている。 「なんとものんびりなご到着ですな」 男がジャマルと呼んだのは、仕事の相棒だった。ただしいつも二人で組んでいる訳ではなく、今回に限り依頼主に言われて嫌々協力関係についているというだけの間柄だ。実際男はジャマルを心底嫌っていた。 ジャマルは禿頭の大男だった。その身体には巌のようにがっしりと筋肉が張り付き、赤褐色の肌はよくなめした分厚い皮革を思わせる。その肌のあちこちにはまるで勲章のように傷跡が走り、特に顔面を縦断する大きな傷は男の厳しい顔つきをさらに凶悪に見せていた。 (まったく、相変わらずの野蛮人ぶりだな) 自分の容貌は棚に置き、男は頭の中で唾を吐いたが、それでも余裕たっぷりの表情でジャマルを見上げる。ジャマルはすんと鼻をひくつかせた。 「血の臭いがする。ズーオ、貴様はいったい何をやらかした」
操魔獣術士ははん、と鼻を鳴らす。
「貴様の仕事は標的を殺すことではない」
彼らの受けた依頼は、巡礼の『妨害』だった。
もちろんズーオも最初は脅すだけでいいだろうと思っていた。獣をけし掛ければすぐに泣き出し巡礼を諦めるだろうと高を括っていた。
ズーオは半ば自棄になり毎日のように獣を放ったがそれでも駄目だった。とうとう痺れを切らしたズーオは無関係の人間を巻き込むのを承知で乗合馬車を襲い、とどめとばかりに風魔鳥まで差し向けたが結局逃げられてしまった。 ここまで素人にしてやられるなんて、まさに玄人の名折れ。みっともないことこの上ない。もはやズーオの怒りは心頭に発していた。 しかし、今のズーオはにまにまと満足げな笑みを浮かべている。 「だが死んでしまえばそれまでよ。これでもうがきのケツを追い回す必要はない。はんっ、最初っからこうしていれば良かったんだ」
ジャマルは苦々しげな顔付きで崖に穿たれた洞穴を指し示す。対照的にズーオは得意げにうなずいた。 「もっとも大半は獣の腹の中だろうがな。こんな所を三人ばっかしがうろついておったんでな、モリオオカミをけしかけたら愚かにも自ら袋小路に逃げ込んでくれたわ。骨も残っとらんだろう」 呵呵大笑に身をよじるが、ジャマルは、待て、と顔をしかめた。 「巡礼者は四人だろう。あとの一人はどうした」
轟、と突然、森の奥から巨大な火球が二人に襲いかかった。 ジャマルはズーオを突き飛ばし己も素早く身を捩る。火球は二人を掠め、崖にぶつかり破裂した。
「な、何者だっ!?」 尻餅をついたズーオが目を真ん丸に見開き、キーキーと甲高い声を張り上げる。 「何者かって? そうだな。あえて言うなら、怒れる巡礼者、ってとこかな」
森の奥から二つの人影が現れる。 「バッツ、自己紹介長くない?」
後ろからど突かれたらしく、背の高い方の影がたたらを踏みつつ彼らの前に姿を現した。
「ハジメマシテ。ようやくお目にかかることができたね」
ズーオが顔を青ざめさせ怒鳴った。 その顔には見覚えがあった。なにせこれまで自分たちがずっと追い回していた相手である。 「無論そうとも。これまで俺たちに素敵な贈り物をありがとう。でもさすがに飽きてきたんでそろそろご遠慮願おうか」 「おれたちの堪忍袋の緒が切れる前にな」 小柄な少年がぱちりと指を鳴らすと、真っ赤な火球が彼の手の中に点る。金髪の青年はにこやかな笑顔で、ピンと立てた人差し指をくるんと回した。 「残念ながら、今回ばかりは罠に掛けられたのは俺らではなくあんた達の方だよ」 はっと後ろを振り返ると、洞穴の中からまったく無傷の巡礼者がぞろりと出てくる所だった。 「では、そろそろ教えてもらおうか」 冷たい冬の海を思わせる灰色の眼が鋭く彼らを射た。 「なぜ我々を付け狙うのかを、な」 ゼーヴルムはカチッと剣の鍔を鳴らした。 |