第三章 4、ビースト・ダンス (1)

 

 呆けたように目を丸くするジェムの前で、ゼーヴルムは困惑気味に眉をひそめ、問いかけた。

「もうそろそろ気が済む頃かと思ったが、まだ泣き足りないのか?」

 ジェムははっとして、ぐしぐしと拳で涙を拭い取る。別にゼーヴルムが思っているような理由で泣いていたわけではない。まあ、どちらがマシかは微妙なところだが。

「涙を堪える必要はない。状況が許すならば、泣きたいだけ泣けばいい。それは悪いことではない。……本当ならば今回も、気が済むまでは邪魔をせずにおきたかったんだがな」

 ため息混じりにそう呟き、彼はちらりとジェムの傍らを見て言った。

「隣に座っても構わないか」
「え、ええ……」

 思いもよらない言葉に唖然とするジェムの隣に、ゼーヴルムは前言に違えず、無造作に腰を下ろした。

 どうしてここに彼がいるのか。
 ジェムにはどうにも理解できなかった。
 何だかだんだん狸や狐に化かされているんじゃないかとすら思えてくるが、不機嫌そうに眉間に皺を寄せた顔はやっぱりゼーヴルム本人に違いない。

 なんとも混乱しながらジェムはランプと焚き火、双方の明かりに照らし出されたゼーヴルムの横顔をそっと窺った。
 彫りの深い精悍な顔立ちに鋭い灰色の瞳。多様な人生経験と頼りがいを感じさせる面差しだ。

 年の差はたったの五つ程度だが、果たして五年後自分がこんな風になれるかというと望みはかなり薄い。

 もともと気落ちしていた上に、そんな落差をまざまざと実感させられてジェムは思わずため息を漏らすが、そんな視線に気付いたのかふとゼーヴルムが視線を上げた。

「どうかしたのか」
「い、いえっ。なんでもないです」

 慌てて視線を焚き火に戻し首を振ると彼は、そうか、と一言つぶやきまたもや口を閉ざす。

 この人本当に何しにここに来たんだ、といぶかしむ思いでいたジェムだが、ふいにゼーヴルムが口を開いた。

「ジェム、私はやはりどんな形であれ命のやり取りをする覚悟のない者が戦いの場に出ることは好ましくないと思っている」
「……っ」

 ジェムはぎゅっと唇を噛みしめた。
 悲しみよりも、むしろ苛立ちが心を支配する。

 なぜゼーヴルムは自分が強くなることに賛成してくれないのか。
 みんなの役に立ちたいという気持ちさえ否定されているようで、それが何より悔しかった。

「――何で、何でそんな風に思うんですか……っ」

 腹立たしいような泣きだしたいような、そんな思いでジェムは彼を見据える。
 だがゼーヴルムはジェムのそんな激情をやり流すように、かすかに目を伏せた。

「わたしは軍人だ。これまでに何度か戦地におもむいた事があるが、あそこは例外なく悲惨な場所だった」

 恬淡とした語り口。彼の眼差しは赤々と燃える焚き火を通しどこか遠くを見ているようで、ジェムは途端に何も言えなくなる。

 
 

   風は血臭を運び、砦を焼き尽くす炎は煤と煙を吹き上げる。
  当たり前のように人が死に、亡骸が物のように積み上げられる世界。
 死は常に自らの隣にたたずみ、隙あらばこの身を引き込もうと手ぐすねを引いて待ち構える。

 
 

「――まさに狂気の世界だな。あそこは命のやり取りをする覚悟を持った者だけが、その信念とともに居すわることを許された場所だ。これは単に私の我が儘に過ぎないのだろうが、私はお前のような人間にああいった空気に触れて欲しくない」

「ぼくが……、弱い人間だからですか?」
「お前が心優しい人間だからだ」

 震える声音にゼーヴルムはかすかに表情を和らげた。

 ジェムのように人の痛みを我が事のように感じてしまう人間は、正気のままでは数日と耐えられないだろう。第一ジェムがそんな殺伐とした空気に馴染む必要はどこにもない。

 戦場で剣を振るう事と、問答無用で襲い掛かる魔物や獣を撃退すること。
 この二つは本質からして異なっている。
 けれどそこにある血生臭さだけはまるで変わらない。

 そこから遠ざけるためにはどうすればいいか。
 なら始めから戦闘に関わらせなければいい。安全な、何の憂いもないところで待たせておけばいい。

 しかしそんな彼の思いとは裏腹に、ジェムは涙の滲んだ眼でゼーヴルムを睨みつけた。

「でもそれじゃあっ、ぼくはいったい何をすればいいんですか!?」

 かっとジェムが叫んだ。
 手が、唇が、声が、わなわなと震える。

「ぼくは大人しく、みんなに守られていればいいんですか!? 何もできずただ怯えていればいいんですか!? 足手まといにしかなれないのなら、優しさなんて弱さと何も違わないっ。そんな優しさなんてぼくはいらないっ」

 声を荒立てて、いっそ責めたてるような激しい問いかけだった。

 ジェムはゼーヴルムの腕をひったくる様にして掴むと、顔をくしゃくしゃにしかめ、うーうー、と唸る。
 その様子はまるで小さな子供が癇癪を起こしているようだった。

 
 これではただの子供っぽい我が侭だ。
 ジェムは自らの言動をどこか冷静に自嘲する。
 しかしそれが分かっていてなお、ジェムはどうしても自分の無力さを許せなかった。

 確かに自分は身も心もか弱く、無力な人間だ。
 それは否定しないし、だからこそジェムはまるで壊れ物ででもあるように、皆に大切に大切に扱われているのだ。

 でも懸命に戦う皆の姿はジェムにとって憧れだった。
 いつかは自分もああやって誰かを守りたいと、あんな風になってみたいと羨望を超え、嫉妬じみた思いすら抱いて皆を見ていた。  

 自分も何かをしたいのだと、心の底から渇望していた。

 何もできない自分という存在が、何よりも歯痒くて仕方がなかった。 

 
 

 一方身を切るようなジェムの訴えにゼーヴルムは困惑を隠せずにいた。
 まさかあの大人しいジェムが、こんな激しい思いを抱えているなんて思いもしない。
 ゼーヴルムはどこかとまどうような、驚いたような眼差しさえ浮かべてジェムを見おろしていた。

(ああ、そうか……)

 自分の考えが間違っていたとは思わない。
 力在る者が力無い者を守るのは当然であり、義務だ。
 弱き者を思いやる意志を持たない力はただの暴力に過ぎない。自分は常日頃から、それを心がけてきたはずだ。

 だが確かに自分は庇護という名のもと、ジェムを抑圧していたのかもしれない。
 目に留まる悪意総てから遠ざけることと、守ることは必ずしも同じではない。
 害意はなくとも、相手の成長を阻害していたのならばそれもまた一種の暴力になるだろう。

(過保護は、私の方かも知れないな……)

 彼は視線を落とすと、小さくため息を漏らした。

「……すまなかったな」
「えっ」

 ぽそりと呟かれた謝罪にジェムははっとして顔を上げる。

「どうやら私はお前を侮りすぎていたようだ。お前は小さな子供ではないというのにな」

 彼は不器用な仕種でジェムの頭に手を載せた。そしてふいに思いつく。

「詫びとして、少し昔話をしてやろう」

 面白くも無い話だがと呆気に取られるジェムを相手に、ゼーヴルムはぽつりぽつりと言葉を重ねる。
 それはけして物慣れた風ではなかったが、低く擦れた声音は不思議とジェムの耳を惹きつけた。

「今からもう五、六年前になるかな。私は初めて戦場に出た。ちょうど今のお前と同じぐらいの年だ。その頃の私は、血気盛んで向こう見ずな子供だった――、」  

 
 
 
 

 当時のゼーヴルムはまだまだ未熟な少年だった。

 血沸き肉踊る戦場に憧れ、自分の力を過信して分不相応な手柄を立ててやろうと意気込む。
 もっともそれは初めての戦いに臨むどの兵にも言えたことではある。

 彼の初陣の舞台は船上だった。

 その時の彼の上官は軍人とは思えない位に穏やかな人格者で、ゼーヴルムを含めた新兵らは彼からけして無茶をすることの無いように、とくどいくらい言い含められていた。
 しかし血気に逸った少年がそんな言いつけを聞くはずがない。
 いざ相手の船と接舷して敵味方入り混じっての白兵戦になった時、彼は誰よりも一番に飛び出した。

 彼にとっての最大の不幸は、経験はともかく腕っ節に関してはすでに一人前だったことだろう。
 もともと剣技には人一倍自信を持っていたし、同年代の少年の中で敵う者はいなかった。実際彼は厳めしい男たちに混ざり一人、二人と敵を切り捨て、初陣の子供にしてはなかなか好調な戦歴を残していた。

 だが彼は突然、背に焼け付くような痛みを感じ剣を取り落としてしまう――。

 
 

「私はそのとき、背後から切られたんだ」

 ゼーヴルムはそっと肩口に手を置き、自嘲するように笑みを漏らした。

 今になってよく分かる。
 初めての実戦に興奮し、いい気になって剣を振り回す子供。目先の功名心に視野を奪われ、さぞや背中が隙だらけだった事だろう。
 あまりの未熟さに自分でも失笑を禁じ得ない。

 ともかく若かりし頃のゼーヴルムは、そのままバランスを崩し海面に転落したのだ。

「本来なら、沈んで海の藻屑となる所だっただろうな。しかし私は運良く味方の船に拾われ無事帰還することができた。もっとも、なんら問題なく、という訳にはいかなかったが」

 その戦いはゼーヴルムが参加したものを最後に一時停戦となった。まだ完全に緊張状態を解く訳にはいかなかったが、戦い続けた兵士たちには休暇が与えられ、負傷したゼーヴルムも療養という形でいったん故郷に戻った。

 十分に休養を取ったため、怪我は完治したし身体もまた剣を握れるまで回復した。
 しかし、心はそうはいかなかった。
 
 

「私はそれ以来、剣を振るうことが怖くなってしまったんだ」
「ゼ、ゼーヴルムさんがですか!?」
「そう。私ともあろうものが、だ」

 悲鳴のように声を張り上げたジェムに、ゼーヴルムは珍しく、どこかおどけたような口調でうなずく。

 
 
 自分の油断が引き起こしたこととはいえ、突然走った激痛、海面に叩き付けられ塩辛い波にもまれる恐怖心。それらは経験の足りない少年にさえ、死を予感させるに十分だった。
 傷の痛みと防具の重みで泳ぐこともままならず、このまま暗く冷たい海の底に沈んでしまうのではないかと、身も凍るような恐怖が全身を支配した。

「お前と同じだな。剣を握るとそれらがまざまざと思い出されて、ろくに剣も振るえない。手習いを始めたばかりの子供にさえやられる始末だ」


 剣をとって構える。技を振るう。

 それは彼にとってよく馴染んだ動作のはずだ。だが相手に向かって剣を振るおうとすると、ふいに誰かに背後から切りかかられるような錯覚に襲われ、途端に身が竦んでしまう。
 それではまともに戦えるわけもない。

 己のあまりの不甲斐無さにゼーヴルムはすっかり自信を失くしていたが、そんな彼のもとに上官が怒鳴り込んできたのはそう間もなくだった。
 なぜ彼がここに、と驚きを隠せないゼーヴルムだったが、少年はさらに目を見張ることになる。

『この根性腐りの臆病ものがっ!!』

 一応尊敬に値する人物ではあったが、軍人にしてはあまりに覇気が足りないと常々見縊ってすらいた上司だ。しかし彼は普段の穏やかさなどかなぐり捨てて、無理やりゼーヴルムを部屋の外に引きずり出すと、剣を投げつけてこう怒鳴った。

『戦場というのは命と命のやり取りをする場だぞ。それぐらいの覚悟も貴様は持ち合わせてなかったのかっ。立て。立って剣を振るってみろ。私が稽古を付け直してやる。それも出来んようならとっとと釣竿にでも持ち替えて、無人島で釣りでもしていろっ。二度と戦場に戻ってくるなっ!』

 その時の鬼のような迫力をゼーヴルムは今でも夢に見る。

 一応これもある種のショック療法と言うのか。
 とにかく日が暮れるまで、少年はぎったんぎったんに叩きのめされたのだった。

 
 
 

 その時のしごきの激しさを思い出してか、ゼーヴルムは眉をひそめてため息をつく。

「それからどうなったかと言うと、まぁ見ての通りだ。元通り剣が振れる様になるまで並大抵の労ではなかったが、その時の努力は無駄ではないと思っている」

 とんでもない逸話に目を丸くしているジェムをちらりと見て、ゼーヴルムは小さく笑って尋ねた。

「ジェム、どうして私がそのまま剣の道を諦めなかったか、分かるか?」
「え、それは、才能があったから……?」

 むざむざ捨ててしまうには、彼の技能はあまりにもったいない。彼の現在の活躍振りからジェムは推測するが、しかしゼーヴルムはそうではない、と首を振った。

「私は剣を振るう以外に能のない人間だったからだ。今も剣を取り上げられてしまえば、できることはいくらも残っていないだろう。だがジェム、お前はそうではないな」

 ゼーヴルムはまっすぐな強い眼差しでジェムを射る。

「人を傷つけることだけが戦いではないとセルバが言ったように、私も戦場に出るだけが戦いではないと思っている。ジェム、人にはそれぞれの戦い方があっていいんだ」

 それは良く切れる剣を鍛えることでもいいし、効率の良い戦法を編み出すでもいい。戦いを回避するよう知恵を働かしてもいい。
 少なくとも剣を振るい、戦場に立つことだけに固執しなくてもいい。

 守ることと戦わせないことは違う。それはもう分かっている。
 だがやはりゼーヴルムは、ジェムに敵の血を浴び泥に塗れるような真似はさせたくなかった。

「まずは色々なことを試してみろ。剣を振るうのはそれからでも遅くない」

 真摯な眼差しを真正面から受けて、ジェムは戸惑ったように口を開きおずおずとうなずいた。

「……分かりました」

 ジェムは顔を上げてゼーヴルムを見る。
 納得できないこともある。自分の考えにそぐわない部分もある。だけど、そう言ってくれるゼーヴルムの気持ちは何より嬉しかった。

「じゃあぼくはこれから、ぼくにもできる戦い方を考えてみます。わざわざ、来て下さってありがとうございます」
「……礼を言うほどのことではない。むしろ行かなくば承知してもらえなさそうな雰囲気だったしな」
「え?」
「いや、なんでもない」

 不思議そうな顔をするジェムに、ゼーヴルムは憮然と首を振る。そしてそのまま話を続けた。

「ジェム、私は戦うための剣を教えることは承服しかねるが、身を守るための方法を教える分にはやぶさかではない。けして容易いことではないが、やってみるか?」

 ジェムは表情がぱっと明るくなった。

「はい、お願いします! それから、あの、さっそくなんですが、ぼくちょっと試してみたいことを思いついたんです。聞いてもらえますか?」

 ゼーヴルムはかすかに目を見開いたが、それでも鷹揚とうなずいた。

「いいだろう。言ってみろ」