第三章 4、ビースト・ダンス (4)

 

 自ら敵対者と名乗ったジャマルは、巡礼者の中でもっとも上背のあるゼーヴルムよりもさらに頭一つ分は背が高い。バッツにしてみればまるで巨人を相手にしているかのようなものだろう。

 しかし少年は刀を大きく振りかぶると声を高くして怒鳴った。

「ふざけるな!! 得物を抜けっ」

 そして気焔を上げて切りかかるが、それは素手で簡単にいなされてしまう。

「お前のような子供に向ける刃は持ち合わせていない」
「っ! おれはガキじゃないっ」

 バッツは顔を朱に染め怒りを顕にするが、対するジャマルは淡々とした態度を崩そうとはしなかった。

 腰に毛皮を巻きつけているジャマルは、その上に二振りの斧を下げている。それが彼の本来の武器なのだろう。しかし今ジャマルはそれに触れようともしていない。そのことがさらにバッツを苛立たせていた。

 どんな相手でも一度刃を交えた限りは、一歩たりとも引くことなく全力を持って立ち向かう。

 それは彼ら《火の民》の掟であり誇りでもある。
 気高き砂漠の民であることを強烈に自負しているバッツは、当然その教えに違えたことは一度もなかった。

 敵に背を向けることは死よりもなお恥じすべきことだ。
 だからバッツは例え相手が自分よりも強いと分かっていても、けして逃げたり諦めたりはしない。
 そうすることで彼はこれまでの大抵の勝負事には勝ってきたし、例え負けたとしてもそれは納得のいく敗北だった。

 しかし今回はその理屈が通じない。
 おのれがそうと望んでも、まともに剣を合わせる事もできないのだ。まさに赤子同然にあしらわれている。

 ジャマルはその気になれば力任せにバッツから刀を奪い取ることだって不可能ではないだろう。
 だいたいまだ充分に身体の造りも出来上がっていないバッツと、見るからに鍛え上げられた肉体を持つジャマルでは純粋な腕力からしても勝負になるはずがない。
 そうはしないということは、彼はあきらかにバッツに手心を加えていた。

(冗談じゃないっ)

 バッツはぎっと唇に歯をたてる。
 相手が誰であれ、それが命のやり取りである以上真剣に戦うのが武人としての礼儀だ。
 バッツも馬鹿ではない。
 自分がこの男に力量で劣ることはちゃんと理解している。しかしそれでもこの男と刃を交えることを選んだのは自分自身だ。
 ならば手を抜くのは他でもなく己に対する侮辱である。

 バッツは憎しみすらこもった目で、刀を掠めることすらできない相手を睨みつけた。
 一方ジャマルは続けざま振り下ろされるシャムシールを軽くあしらいながら眉をひそめる。

「繰り返し言うぞ。お前のような子供とは戦いたくない。ここで素直に旅を止めさえすれば、もうお前たちに付き纏うような事はしないと誓おう」
「ほざけっ!」

 バッツはその小柄な身体から出ているとは思えないような腹に響く声で一喝した。

「そんな脅しに屈して、己に課せられた役目を放棄するような軟弱な男と思うなよっ。おれは誇り高き火の民、シャイフ=アサドの息子、フーゴのシェシュバツァルだぞっ」
「では、どうあっても巡礼を諦めたりはしないと?」
「当然だ!」

 砂漠の少年は吠えたてるようにして男に噛み付く。
 ジャマルは思い悩むように瞼を伏せていたが、細く息を吐くと突然、真正面から振り下ろされた刀を両の拳で挟んだ。

 がんっ、と鋼同士を打ち合わせたかのような音がする。

 バッツはびっくりして刀を引くが、そんな不自然な体勢であるにもかかわらず、それはまるで固定されたかのようにぴくりとも動かない。

 刀をかかげるバッツとそれを押さえつけるジャマル。
 ふたりは真正面から対峙する。

 刀を取り返そうとやっきになるバッツを見下ろし、ジャマルは静かに呟いた。

「火霊使い……」
「ああ?」

 バッツは柄悪く顔を上げる。

「お前は本来火霊使いのはずだ。なぜ力を使わない」

 たとえ純粋な力量では敵わなくても、バッツには精霊の愛し児としての能力がある。それを最大限に用いれば例えジャマルが相手だとしてまずまずの勝負ができるはずだ。
 淡々としつつも明らかに疑念を含んだジャマルの言葉に、バッツは馬鹿にしたように鼻を鳴らした。

「あんまりおれをみくびんなよ。これは一対一の神聖な戦いだ。だったらそれが精霊であれ誰であれ、他人の手を借りるつもりはさらさらねぇよ」
「……なるほど。矜持だけはすでに一人前か」

 ジャマルは小さく呟くと、すっと腰を落とした。バッツが何事かと思う間もなく、みぞおちに鋭い蹴りが叩き込まれる。

「ぐあっっ」

 バッツはひっくり返って背中から地面に落ちる。さらにそのままの勢いで後ろに滑っていった。喉を胃液が込み上げてくる。バッツはうずくまり数度むせた。
 そんな彼を冷めた眼で見下ろしながら、ジャマルは自らの得物の柄に指を這わせる。

「よかろう。そんなお前に敬意を表す。どこからでも掛かって来るがいい」
「上等だっ。あとで吠え面かくなよ!」

 ぐいっと口元をぬぐったバッツは不敵に笑う。そして両手に斧を構えたジャマルに何の躊躇もなく踊りかかった。  


 
 


 

 普段はどんな戦いにも参加しようとしないシエロがゼーヴルムたちに混ざるのを見て、そして両手に斧を持った大男にバッツが飛び掛るのを見て、ジェムはなんだかひどく嫌な予感を覚えた。
 自分は戦いのことなんてまったく分からないが、もしかするとこれはとてもまずい状況なのかもしれない。
 ジェムは無意識に眉をひそめ唇を噛みしめた。

 このまま何者かに狙われ続けるよりは、いっそここで白黒つけてしまった方がいい。
 普段彼らがたいした苦もなく襲撃を退けるのを見て、今回も何の憂慮もなく実行に移したのだがそれは大きな間違いで、自分の軽はずみな考えが取り返しのつかない結果を導いてしまったのかもしれない。

 ジェムは手に汗を握り思わず身を乗り出すが、ふいに後ろから肩を引かれ振り返った。

「……セルバさん」
「駄目だよ、そんなに前に出ちゃ」

 セルバはどこか憂いを帯びた表情で首を振る。

「いくら彼らが心配だからって、こんな所にいたら巻き添えをくっちゃうよ。安全な所にいないと」

 洞穴の奥にはシエロの結界が張ってあるから、そこにはどんな敵も入ってくることはできない。だがその絶対防御もこの入り口付近までには効力がない。ここにいることは無防備な状態を敵に晒すことと同じだった。

 ジェムは小さくうなずくが、それでもその場所を動こうとはしない。

「分かっています……。でも、もう少しだけでここに居させて欲しいんです。この計画を立てたのはぼくだから――、ぼくにはことの全てを見届ける義務があると思うんです」

 ジェムは決意を宿した眼差しで外の様子をうかがう。

 ゼーヴルムは剣を持つ者は剣によって殺される覚悟を持たなければならないと言った。
 それは単なる心構えの問題もあるだろうが、その本当の意味は自分の行動に責任を持つということだ。
 ジェムが選んだ戦いは自ら手を下すものではない。しかしそれでも戦うことを選択した以上はその責任を取る必要がある。

 自分一人で責任の全てを担うのはとても恐ろしいことだけれども、それでもジェムは今は一歩も引くまいと決めていた。

「だってこの戦いで誰かが傷つくとしたら、それはぼくの所為です。それを目の当たりにするのは辛いことだけど、だからこそぼくは絶対に目を逸らしちゃいけないんです……」
 
 ジェムはまっすぐに顔を上げると、戦い続ける仲間の姿を懸命に眼に収め続けた。
 
「……ジェムは、誰かを傷つけてしまうのが怖いんだね」

 ぽつり、とセルバは呟いた。

「そしてその痛みから目を逸らさない勇気がある」

 彼はぐいっとジェムの腕を引くと自らの背後に立たせた。

「でも、それならせめてここにいて。セルバもね、大事な人を護れないのが一番怖いんだ」

 もっとも自分は目を逸らしてしまった人間だけど。
 セルバは冗談めかしてそう言うが、強く腕を掴んだ彼の指先がかすかに震えていることにジェムは気付いた。
 ふいに彼の口から独白のような言葉が漏れる。

「十年近く前……。セルバはまだ子供で何の力もなかったから、大切なものをみんな失くしてしまったよ。それはもう取り返しのつかないことだけど、こんな自分でもまだ守れるものがあると知ったから、僕は今ここにいる――、」
「セルバさん……」

 心配そうに自分を見上げるジェムに気付いてセルバはにっこりと微笑んだ。

「ごめんね、変なことを言って。さあ、そろそろ結界の中に戻らなきゃ。ゼーヴルムさんたちならきっと大丈夫。絶対に負けやしな――、っ!?」

 洞穴の奥を振り向いたセルバが、唐突に仰向けに倒れた。はっとして窺えばセルバの上腕には鞭が巻きついている。それによって彼は引き倒されたのだ。

「はんっ、切り札は最後まで取って置くものだな」

 操魔獣術士の金切り声が聞こえる。
 ジェムは慌てて駆け寄ろうとしたが、セルバの鋭い制止にたたらを踏んだ。

「ジェム、来ちゃ駄目だっ」

 しかしその声を掻き消すように、セルバに崖上から飛び降りてきた四足の獣が覆いかぶさる。
 ジェムは悲鳴をあげた。


 

 ※ ※ ※


 

 ズーオは焦っていた。

 使獣は後からあとから参戦した巡礼者の一人によって邪魔をされ、こちらの手元には戦闘用ではない小物が数匹残るのみである。

 今は懸命な鞭さばきによって相手を近寄らせずにいるが、相手がいつそれを掻い潜ってこちらに向かってくるが分かったものではない。

 自分が得意とするのは姿を見せない遠隔攻撃かせいぜいこの鞭が届くぎりぎりの中距離攻撃。
 接近戦など考えたくもない。

 ズーオは必死に周囲を窺った。何か戦いを有利に運ばせられるようなものはないか。忙しく周囲を見回すズーオは、ふと目の端に止めた光景に相好を崩した。

(おお、これならば……)

 そしてさりげない仕種でごそりと懐を探った。


 

 ※ ※ ※


 

 シエロはうまく使獣の注意を引き付けていた。
 自分から任せろと言っただけあって、彼の手際は見事だった。相手を翻弄しつつも視線を集中させ、ゼーヴルムたちの方に注意が向かないように巧みに動きを誘導している。
 もっとも、ようは敵を挑発するのが得意なのだとも言える。

(やはり、敵には回したくない男だな)

 かつての手合わせを思い出しゼーヴルムはひそかに嘆息する。
 しかしこの分なら背後を心配する必要はあるまい。
 ゼーヴルムは敵の大本、操魔獣術士に意識を集中した。

 今は鞭の動きが多少厄介だが、それもいつまでも続くはずがない。相手が疲れ始めた時を狙えば、いっきに畳み掛けることも可能だろう。
 ゼーヴルムは慎重に頃合を見計らい、相手が一度鞭を手元に引き戻した瞬間、敵の動きに合わせ一息にその懐に飛び込んだ。ズーオが驚いたように目を見張る。

(行けるか――、)

 ゼーヴルムはそのまま実行に移そうとしたが、次の瞬間ズーオの顔がにやりと笑み崩れるのを見てぎょっとした。

 ズーオは懐から出した何かをゼーヴルムに投げつける。
 始め、それは黒い縄かと思った。
 だがそれはかすかに身じろぎすると真っ赤なあぎとを開く。鋭い牙が視界に飛び込んだ。

(――蛇!?)

 ゼーヴルムはとっさに剣を翻し、それを切り捨てようとしたがその動きを遮るように操魔獣術士の金切り声が耳を貫いた。

「はんっ、切り札は最後まで取って置くものだな」

 はっと視線を上げたゼーヴルムの目に飛び込んできたのは、ズーオの鞭に繋がれ引き倒されたセルバの上に一匹の獣が圧し掛かる光景だった。
 ジェムの悲鳴が耳を穿つ。


 彼の中で目の前の光景にもう一つのイメージが重なった。
 それは樹大神殿に着く前。
 己の油断の為に、野犬に襲い掛かられたジェムの姿である。
 

 走って向かったのでは間に合わない。
 そう思ったゼーヴルムはとっさに剣を投げ打った。

 獣は投擲を受けてもんどり打って倒れる。そしてそのまま動かなくなった。
 ゼーヴルムはほっと息をつく。

 だが次の瞬間。

 彼の意識は灼熱の痛みによって破裂した。


 


 


 


 

「ゼーヴルムさんっ!!」

 ジェムの絹を引き裂くような悲鳴によってゼーヴルムの意識は覚醒した。

 気を失っていたのはほんの数秒のことだろう。
 知らぬ間に膝を着いていたゼーヴルムは、激痛の大元を力任せに引き剥がし地面に叩きつける。
 漆黒の蛇はびくりと痙攣して動かなくなった。蛇の牙には赤い血とともにぬらりと光る黄色い液体が滴っている。

 立ち上がろうとしたゼーヴルムは、しかしそのまま横倒しに崩れた。

「ごほっ――、」

 口から真っ赤な鮮血が溢れる。
 彼の身体は小刻みに震え、顔面は雪のように蒼白だ。多量の汗が玉となって額に浮かんでいる。

「ハハアッ、ざまあ見やがれ」

 ズーオの嘲笑がジェムの耳を打った。
 卑劣な企みを成功させたズーオはにやにやと、動けないゼーヴルムに近付いていく。

「格好をつけて仲間を庇おうとするからだ、このクソがっ。この黒斑蛇はなぁ、アウストリ大陸でもっとも強い毒をもっている。三日三晩せいぜい苦しみ悶えて死ぬがいいさ」

 そう高笑いして地面に落ちるゼーヴルムの手を踏みつけた。

「ゼーヴルムっ」

 シエロは慌てて駆け寄ろうとするが、今度はそれまでとは逆に彼のほうが使獣によって動きを妨げられてしまう。

「はんっ、貴様の相手はまた後だ。今はそいつらと遊んでおれ。ワシは先にこいつらを始末しなければならんからな」

 ズーオは喜びに歪んだ顔をジェムたちに向けた。
 ジェムはぎょっとして身を引こうとするが、鞭の先がきつく巻きついたセルバは逃げることができない。

「ジェム、君だけでも逃げて」

 セルバはそう言うが、ジェムは泣き出しそうな顔をぶんぶんと振った。

「セルバさんを置いて逃げられませんっ」

 ズーオは無力な獲物をいたぶるようにことさらゆっくり近付いてくる。
 ジェムは目をつぶり身を硬くした。


 

 ズーオの太い指がジェムに触れるかという時、彼は後ろから肩を引かれ反射的に振り返った。
 その無防備な顔を鋭い拳が殴り飛ばす。

「うぐぉっ」

 ひっくり返ったズーオは襟首をつかまれ薄目を開ける。そして相手を確認して今度は大きく目を見開いた。

「な、なんでおまえが……っ」

 ズーオは信じられないという顔で相手を凝視する。そして叫んだ。

「アウストリ大陸で最強の毒蛇だぞっ。何で起きていられるんだ!?」
「こいつらに手を出すことは許さないっ」

 男の胸倉を掴みあげ、ゼーヴルムは血走った眼で操魔獣術士を睨みつけた。

「彼らに指一本でも触れてみろ。冥府の底まで追い詰めて、生きながら何百片もの細切れ肉にしてくれる」

 そう言って男の怯えの浮かぶ目を覗きこむと、そのまま勢い良く相手の身体を突き飛ばした。

「今ならまだ見逃してやる。すぐにここから立ち去れ」

 その視界に入る全てのものを凍てつかせるような鋭い灰色の目がズーオを見下ろす。

「早くここから消えろっ!」

 逡巡していたズーオはその恫喝に打たれたように慌てて身を翻す。そして取るものも取らず脱兎の勢いで森の奥に消えた。
 それに気付いたジャマルも素早く身を翻す。

「やろうっ、まだ勝負はついてないぞ!」

 結局相手の強さに翻弄されるままだったバッツが悔しげに叫ぶが、男の姿は瞬く間に見えなくなった。


 

「ゼーヴルムさんっ」

 ジェムは彼の元に走り寄る。ゼーヴルムは敵の姿が見えなくなった途端、その場に崩れ落ちた。

「この馬鹿者っ」

 同じく駆け寄ったシエロがゼーヴルムを仰向けに寝かせる。呼吸は荒く、顔色は真っ白なくせに汗は滴るほどかいている。

「あんな大立ち回りして、自分で毒の周りを早くしちゃ世話ないだろうがっ」
「……すまない」
「ああっ、もう喋んなくっていいから! 大人しくしてろっ」

 シエロは傷口から毒を吸い出そうとするが、今となっては大した効果は期待できそうにない。
 鞭を解いたやって来たセルバも、口早に呪文を唱える。


《――緑の守護者の名において。大気に遊ぶ水の精霊、汝が青き領巾を振りこの者に癒しの福音を与えたまえ
 

 ゼーヴルムの苦しげな呼吸がわずかに楽になるが、しかしそれだけだ。身体の痙攣や顔色の悪さは一向に収まる気配はない。

「駄目だ……。症状は和らげられてもセルバの力じゃ毒を消し去ることはできない」

 セルバが悔しげに首を振る。
 彼らにできることはもはやほとんど残されていなかった。

「そうだっ。シエロ、確か近くに村があったよな」

 ゼーヴルムを気遣いながら未練がましく森の奥をうかがっていたバッツは、はっと顔を上げた。

「あの蛇はアウストリ大陸の生き物なんだろ。だったら毒消しがあってもおかしくはないよな。運がよければ医者もいるかもしれないし!」

 目を輝かせるバッツに、シエロもうなずいた。

「……そうだね。このままここに留まっていてもみすみす死なすのを待つだけだ。思い切って連れて行こう」

 すでに意識の絶えたゼーヴルムの肩をシエロが担ぐ。その反対側をセルバが支えた。
 彼らは一縷の望みにかけて道を急ぐことに決めた。