自ら敵対者と名乗ったジャマルは、巡礼者の中でもっとも上背のあるゼーヴルムよりもさらに頭一つ分は背が高い。バッツにしてみればまるで巨人を相手にしているかのようなものだろう。 しかし少年は刀を大きく振りかぶると声を高くして怒鳴った。 「ふざけるな!! 得物を抜けっ」 そして気焔を上げて切りかかるが、それは素手で簡単にいなされてしまう。 「お前のような子供に向ける刃は持ち合わせていない」
バッツは顔を朱に染め怒りを顕にするが、対するジャマルは淡々とした態度を崩そうとはしなかった。 腰に毛皮を巻きつけているジャマルは、その上に二振りの斧を下げている。それが彼の本来の武器なのだろう。しかし今ジャマルはそれに触れようともしていない。そのことがさらにバッツを苛立たせていた。 どんな相手でも一度刃を交えた限りは、一歩たりとも引くことなく全力を持って立ち向かう。 それは彼ら《火の民》の掟であり誇りでもある。
敵に背を向けることは死よりもなお恥じすべきことだ。
しかし今回はその理屈が通じない。
ジャマルはその気になれば力任せにバッツから刀を奪い取ることだって不可能ではないだろう。
(冗談じゃないっ) バッツはぎっと唇に歯をたてる。
バッツは憎しみすらこもった目で、刀を掠めることすらできない相手を睨みつけた。
「繰り返し言うぞ。お前のような子供とは戦いたくない。ここで素直に旅を止めさえすれば、もうお前たちに付き纏うような事はしないと誓おう」
バッツはその小柄な身体から出ているとは思えないような腹に響く声で一喝した。 「そんな脅しに屈して、己に課せられた役目を放棄するような軟弱な男と思うなよっ。おれは誇り高き火の民、シャイフ=アサドの息子、フーゴのシェシュバツァルだぞっ」
砂漠の少年は吠えたてるようにして男に噛み付く。
がんっ、と鋼同士を打ち合わせたかのような音がする。 バッツはびっくりして刀を引くが、そんな不自然な体勢であるにもかかわらず、それはまるで固定されたかのようにぴくりとも動かない。 刀をかかげるバッツとそれを押さえつけるジャマル。
刀を取り返そうとやっきになるバッツを見下ろし、ジャマルは静かに呟いた。 「火霊使い……」
バッツは柄悪く顔を上げる。 「お前は本来火霊使いのはずだ。なぜ力を使わない」 たとえ純粋な力量では敵わなくても、バッツには精霊の愛し児としての能力がある。それを最大限に用いれば例えジャマルが相手だとしてまずまずの勝負ができるはずだ。
「あんまりおれをみくびんなよ。これは一対一の神聖な戦いだ。だったらそれが精霊であれ誰であれ、他人の手を借りるつもりはさらさらねぇよ」
ジャマルは小さく呟くと、すっと腰を落とした。バッツが何事かと思う間もなく、みぞおちに鋭い蹴りが叩き込まれる。 「ぐあっっ」 バッツはひっくり返って背中から地面に落ちる。さらにそのままの勢いで後ろに滑っていった。喉を胃液が込み上げてくる。バッツはうずくまり数度むせた。
「よかろう。そんなお前に敬意を表す。どこからでも掛かって来るがいい」
ぐいっと口元をぬぐったバッツは不敵に笑う。そして両手に斧を構えたジャマルに何の躊躇もなく踊りかかった。
普段はどんな戦いにも参加しようとしないシエロがゼーヴルムたちに混ざるのを見て、そして両手に斧を持った大男にバッツが飛び掛るのを見て、ジェムはなんだかひどく嫌な予感を覚えた。
このまま何者かに狙われ続けるよりは、いっそここで白黒つけてしまった方がいい。
ジェムは手に汗を握り思わず身を乗り出すが、ふいに後ろから肩を引かれ振り返った。 「……セルバさん」
セルバはどこか憂いを帯びた表情で首を振る。 「いくら彼らが心配だからって、こんな所にいたら巻き添えをくっちゃうよ。安全な所にいないと」 洞穴の奥にはシエロの結界が張ってあるから、そこにはどんな敵も入ってくることはできない。だがその絶対防御もこの入り口付近までには効力がない。ここにいることは無防備な状態を敵に晒すことと同じだった。 ジェムは小さくうなずくが、それでもその場所を動こうとはしない。 「分かっています……。でも、もう少しだけでここに居させて欲しいんです。この計画を立てたのはぼくだから――、ぼくにはことの全てを見届ける義務があると思うんです」 ジェムは決意を宿した眼差しで外の様子をうかがう。 ゼーヴルムは剣を持つ者は剣によって殺される覚悟を持たなければならないと言った。
自分一人で責任の全てを担うのはとても恐ろしいことだけれども、それでもジェムは今は一歩も引くまいと決めていた。 「だってこの戦いで誰かが傷つくとしたら、それはぼくの所為です。それを目の当たりにするのは辛いことだけど、だからこそぼくは絶対に目を逸らしちゃいけないんです……」
ぽつり、とセルバは呟いた。 「そしてその痛みから目を逸らさない勇気がある」 彼はぐいっとジェムの腕を引くと自らの背後に立たせた。 「でも、それならせめてここにいて。セルバもね、大事な人を護れないのが一番怖いんだ」 もっとも自分は目を逸らしてしまった人間だけど。
「十年近く前……。セルバはまだ子供で何の力もなかったから、大切なものをみんな失くしてしまったよ。それはもう取り返しのつかないことだけど、こんな自分でもまだ守れるものがあると知ったから、僕は今ここにいる――、」
心配そうに自分を見上げるジェムに気付いてセルバはにっこりと微笑んだ。 「ごめんね、変なことを言って。さあ、そろそろ結界の中に戻らなきゃ。ゼーヴルムさんたちならきっと大丈夫。絶対に負けやしな――、っ!?」 洞穴の奥を振り向いたセルバが、唐突に仰向けに倒れた。はっとして窺えばセルバの上腕には鞭が巻きついている。それによって彼は引き倒されたのだ。 「はんっ、切り札は最後まで取って置くものだな」 操魔獣術士の金切り声が聞こえる。
「ジェム、来ちゃ駄目だっ」 しかしその声を掻き消すように、セルバに崖上から飛び降りてきた四足の獣が覆いかぶさる。
※ ※ ※
ズーオは焦っていた。 使獣は後からあとから参戦した巡礼者の一人によって邪魔をされ、こちらの手元には戦闘用ではない小物が数匹残るのみである。 今は懸命な鞭さばきによって相手を近寄らせずにいるが、相手がいつそれを掻い潜ってこちらに向かってくるが分かったものではない。 自分が得意とするのは姿を見せない遠隔攻撃かせいぜいこの鞭が届くぎりぎりの中距離攻撃。
ズーオは必死に周囲を窺った。何か戦いを有利に運ばせられるようなものはないか。忙しく周囲を見回すズーオは、ふと目の端に止めた光景に相好を崩した。 (おお、これならば……) そしてさりげない仕種でごそりと懐を探った。 ※ ※ ※
シエロはうまく使獣の注意を引き付けていた。
(やはり、敵には回したくない男だな) かつての手合わせを思い出しゼーヴルムはひそかに嘆息する。
今は鞭の動きが多少厄介だが、それもいつまでも続くはずがない。相手が疲れ始めた時を狙えば、いっきに畳み掛けることも可能だろう。
(行けるか――、) ゼーヴルムはそのまま実行に移そうとしたが、次の瞬間ズーオの顔がにやりと笑み崩れるのを見てぎょっとした。 ズーオは懐から出した何かをゼーヴルムに投げつける。
(――蛇!?) ゼーヴルムはとっさに剣を翻し、それを切り捨てようとしたがその動きを遮るように操魔獣術士の金切り声が耳を貫いた。 「はんっ、切り札は最後まで取って置くものだな」 はっと視線を上げたゼーヴルムの目に飛び込んできたのは、ズーオの鞭に繋がれ引き倒されたセルバの上に一匹の獣が圧し掛かる光景だった。
走って向かったのでは間に合わない。
獣は投擲を受けてもんどり打って倒れる。そしてそのまま動かなくなった。
だが次の瞬間。 彼の意識は灼熱の痛みによって破裂した。
「ゼーヴルムさんっ!!」 ジェムの絹を引き裂くような悲鳴によってゼーヴルムの意識は覚醒した。 気を失っていたのはほんの数秒のことだろう。
立ち上がろうとしたゼーヴルムは、しかしそのまま横倒しに崩れた。 「ごほっ――、」 口から真っ赤な鮮血が溢れる。
「ハハアッ、ざまあ見やがれ」 ズーオの嘲笑がジェムの耳を打った。
「格好をつけて仲間を庇おうとするからだ、このクソがっ。この黒斑蛇はなぁ、アウストリ大陸でもっとも強い毒をもっている。三日三晩せいぜい苦しみ悶えて死ぬがいいさ」 そう高笑いして地面に落ちるゼーヴルムの手を踏みつけた。 「ゼーヴルムっ」 シエロは慌てて駆け寄ろうとするが、今度はそれまでとは逆に彼のほうが使獣によって動きを妨げられてしまう。 「はんっ、貴様の相手はまた後だ。今はそいつらと遊んでおれ。ワシは先にこいつらを始末しなければならんからな」 ズーオは喜びに歪んだ顔をジェムたちに向けた。
「ジェム、君だけでも逃げて」 セルバはそう言うが、ジェムは泣き出しそうな顔をぶんぶんと振った。 「セルバさんを置いて逃げられませんっ」 ズーオは無力な獲物をいたぶるようにことさらゆっくり近付いてくる。
ズーオの太い指がジェムに触れるかという時、彼は後ろから肩を引かれ反射的に振り返った。
「うぐぉっ」 ひっくり返ったズーオは襟首をつかまれ薄目を開ける。そして相手を確認して今度は大きく目を見開いた。 「な、なんでおまえが……っ」 ズーオは信じられないという顔で相手を凝視する。そして叫んだ。 「アウストリ大陸で最強の毒蛇だぞっ。何で起きていられるんだ!?」
男の胸倉を掴みあげ、ゼーヴルムは血走った眼で操魔獣術士を睨みつけた。 「彼らに指一本でも触れてみろ。冥府の底まで追い詰めて、生きながら何百片もの細切れ肉にしてくれる」 そう言って男の怯えの浮かぶ目を覗きこむと、そのまま勢い良く相手の身体を突き飛ばした。 「今ならまだ見逃してやる。すぐにここから立ち去れ」 その視界に入る全てのものを凍てつかせるような鋭い灰色の目がズーオを見下ろす。 「早くここから消えろっ!」 逡巡していたズーオはその恫喝に打たれたように慌てて身を翻す。そして取るものも取らず脱兎の勢いで森の奥に消えた。
「やろうっ、まだ勝負はついてないぞ!」 結局相手の強さに翻弄されるままだったバッツが悔しげに叫ぶが、男の姿は瞬く間に見えなくなった。 「ゼーヴルムさんっ」 ジェムは彼の元に走り寄る。ゼーヴルムは敵の姿が見えなくなった途端、その場に崩れ落ちた。 「この馬鹿者っ」 同じく駆け寄ったシエロがゼーヴルムを仰向けに寝かせる。呼吸は荒く、顔色は真っ白なくせに汗は滴るほどかいている。 「あんな大立ち回りして、自分で毒の周りを早くしちゃ世話ないだろうがっ」
シエロは傷口から毒を吸い出そうとするが、今となっては大した効果は期待できそうにない。
ゼーヴルムの苦しげな呼吸がわずかに楽になるが、しかしそれだけだ。身体の痙攣や顔色の悪さは一向に収まる気配はない。 「駄目だ……。症状は和らげられてもセルバの力じゃ毒を消し去ることはできない」 セルバが悔しげに首を振る。
「そうだっ。シエロ、確か近くに村があったよな」 ゼーヴルムを気遣いながら未練がましく森の奥をうかがっていたバッツは、はっと顔を上げた。 「あの蛇はアウストリ大陸の生き物なんだろ。だったら毒消しがあってもおかしくはないよな。運がよければ医者もいるかもしれないし!」 目を輝かせるバッツに、シエロもうなずいた。 「……そうだね。このままここに留まっていてもみすみす死なすのを待つだけだ。思い切って連れて行こう」 すでに意識の絶えたゼーヴルムの肩をシエロが担ぐ。その反対側をセルバが支えた。
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