「だいたいなぜ僕が大神官を殺したと思うのかい?」 どこか躁病じみたその様子を見ながら、パスマはただ淡々と答える。 「お前は育ての親である大神官を嫌っていた」
アルシェはそう言って鼻を鳴らすが、パスマはかすかに眉をひそめ、首を振った。 「お前が何を考えているのか、まったく理解ができない。己の養い親が殺されたのにもかかわらずそ知らぬ顔をし、真相を暴くことも犯人を追う事にもまったく関心を持たない。自らが殺される可能性さえ端から無視し、かと思えば地位を脅かされると言う嘘をついてまで自分を操ろうとする。お前はいったい何をしたいんだ」 「それが、君が僕を犯人だと断定する理由かい」
アルシェはふいに顔を険しくしかめパスマを睨みつけた。 「僕が大神官を殺したからと言って、それが何だというのさ。僕を告発しようと言うのかい。不審者である君が!?」 アルシェは鋭く煌く刃物の眼差しでパスマを注視していたが、おもむろに視線をはずしてため息をついた。 「……嘘だよ」 力なくそう呟いてぱたんとベッドの上に上半身を倒す。 「僕は大神官を殺していない。神に誓ってもいい」 アルシェはだらしなくベッドの上に寝転んだまま宣誓の形に手を組んだ。 「お前がやるとこの上なく冒涜的に見えるのはなぜだろうな」
アルシェはにやりと笑って見せるが、すぐさま表情は暗くふさいだ。 「何がしたいかなんて、僕のほうが聞きたいくらいさ」 やれやれと首を振る。 「大神官を憎んでいたのも偽りなのか」
アルシェは飛び起きるとそばのシーツを拳で殴った。 「まったくとんでもないジジイだったよ。並外れたお人よしで、そのくせ我が強くって自分勝手だ。腹立たしいくらいの偽善者ぶりで――、」 そのままむっつりと押し黙り顎を擦る。 「……嫌な奴だったよ」
アルシェは苦々しげに顔をしかめる。 「名も無き密偵、僕はあんたと一緒だよ。僕に名前なんて無い。『アルシェ』はあのジジイが気まぐれに拾ったお人形の名前さ」
彼の最も古い記憶は森の中を駆け回っている光景だ。
ではそれ以降の記憶はと言うと、まったくろくな物ではなかった。
たぶん今から考えれば、村を焼き払われた戦災孤児か何かだったのだろう。 あの頃はそんな身の上はけして珍しいものではなかった。
だから彼は一人で生きていた。
逆算すれば、たぶん四、五歳くらいの時だったと思う。まだモノの道理も分かっていない年頃だ。 それでもただ生きたいという気持ちだけは持っていた。
それは野に生きる獣と何ら変わらなかっただろう。その日その日を生き延びる事にすべてを費やす。
だが結局そうはならなかった。
誰一人彼に積極的に関わろうとはしなかったが、それでも獣のような暮らしをしている幼い浮浪児のことは街では有名だった。
だが犬猫と違って鬱陶しいからと言って処分してしまう訳にはいかないし、一度関わったのなら最後まで面倒を見なければならない。 それを考え誰もが手を出しかねていた中、ようやく立ち上がったのがその街の神殿長をやっていたエヴァグリーン司教だった。 『君はこの街の子供ではないんだね』 嫌がって隙あらば逃げ出そうと暴れる彼に代わって答えたのは、彼からもっとも被害を受けていた露店の主だった。 『三ヶ月ほど前からふらりと現れて街をうろついてたんでせぃ。たぶん同じ目に合ってたどこぞの街が厄介がって置き去りにしたんじゃないですかね』 実際司教が申し出てくれなければ同じことをしようと考えていた住人たちである。 『ふむ、では君は自分がどこの出身だかは言えるかい』 だがそれに否を答えたのも彼ではなく露店の主人だった。男は少しだけ哀れみのこもった眼差しでじたばたと暴れる子供を捉える。 『それは無理だと。いえ、言えるかどうかではなく半年ほど前に北の方で大きな戦争があったでしょう。その時に壊滅した村がけっこうあったようでしてね、焼け出された住人が大勢こっちのほうまで流れてきてるんでさぁ。こいつは親兄弟とはぐれたか、あるいは死別しちまったんじゃないですかねぇ』
主人は目を丸くするが、司教はにこやかな、しかし有無を言わさぬ笑みで妙な理屈をこねる。 『鍋でも一度手をつけた具材は最後まで食べるのが礼儀だろう。なに、心配しなくてもこれでも子供はけっこう好きな方でね』
そして司教はあらゆる意見を無視すると、嫌がる子供をむりやり小脇に抱えて連れ去った。
こうして彼は司教の養子となったのだがそれからがまた大変だった。 名前が無いのも不自由だと言うことで、彼はアルシェと言う名を司教から貰った。
やれ視察だ、やれ会議だと忙しく飛び回るのは本人の勝手だが、それに子供を引き連れられると周りは困惑するばかりである。
だが当の司教はそんなことは一向に意に介さず、まあさすがに連日の過密スケジュールのすべてにつき合わせることはしなくなったが、それでもできるかぎりそばに置いておこうとする姿勢は変わらなかった。
こう毎日毎日顔を合わせると、さすがに幼い彼にもこの司教がどんな人間なのか理解できるようになっていった。 この司教、一見は春風駘蕩とした穏やかな人柄に思えるがこれがまた一筋縄ではいかない。
また彼はかなり良い家柄の人間らしく、本人の要領の良さも合い間ってか順調に出世を重ねて行った。 一方彼の養子となったアルシェもごく自然の成り行きとして聖職者としての道を目指していく。
だが、彼が実際に聖職者として神殿に属するようになった時、彼と司教との関係は一変する。
しかしそれは大違いだった。 そのころ司教は樹大神殿で重要な役職についていたが、彼はアルシェを樹大神殿に呼び寄せるようなことはしなかった。
けして中央に近寄らせなかったのだ。 監査役はけして楽な仕事ではない。
そうこうしているうちに、アルシェには養い親のことがまったく分からなくなっていった。
もしかするとあの人当たりのいい笑顔も親切めかした態度も、ただ腹の底を見透かせないための仮面に過ぎないのかもしれない。
最初は詮無い考えだと自らを戒めていたのだが、それでも四年五年と月日が経つにつれて疑念はだんだん濃くなっていく。 そしてついに神官となって七年目、彼はそれまでの地方回りで培ったコネを駆使して自ら中央、樹大神殿に着任した。 この樹大神殿で下官として会った時、果たして養い親であるあの人はなんと言うのだろうか。
同じ神殿に勤めていても、自然と養い親と顔を合わせることを避けていたのはそれゆえにだ。 もし自分が彼に嫌われたのならば、その顔は嫌悪に彩られるだろう。だがそれならばそれで納得できる。
しかし司教の反応は彼の予想をはるかに超えていた。 神殿の中庭で偶然顔を合わせたとき、彼は何を考えているのか分からない、あの朗らかな笑みでこう言ったのだ。 『もう地方めぐりには満足したかい?』 その顔には一欠けらの悪意も存在していなかった。 その瞬間、アルシェは彼を理解するのをすっかり諦めた。
自分は彼に謝って欲しかった。
しかし司教はそんな自分の気持ちを知りもしないで、ただ無邪気に微笑んでいる。 確かに彼は人の良い、穏やかな善人だろう。
やがてアルシェは徐々に彼の思想や考え方にも違和感を覚えるようになり、拾われ児は完全に養い親の元を離れたのだった。
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