第三章 Bパスマ 〜真実〜 〈1〉

 


 アルシェは目をすがめ、くつくつと堪え切れない笑みを漏らす。
 だがその瞳はけしては笑っていなかった。

「だいたいなぜ僕が大神官を殺したと思うのかい?」

 どこか躁病じみたその様子を見ながら、パスマはただ淡々と答える。

「お前は育ての親である大神官を嫌っていた」
「ああ、そうさ。だけど憎みあう実の親子だって世の中には腐るほどいる」

 アルシェはそう言って鼻を鳴らすが、パスマはかすかに眉をひそめ、首を振った。

「お前が何を考えているのか、まったく理解ができない。己の養い親が殺されたのにもかかわらずそ知らぬ顔をし、真相を暴くことも犯人を追う事にもまったく関心を持たない。自らが殺される可能性さえ端から無視し、かと思えば地位を脅かされると言う嘘をついてまで自分を操ろうとする。お前はいったい何をしたいんだ」

「それが、君が僕を犯人だと断定する理由かい」
「断定はしない。断定するにはあまりにも情報が足りなすぎる。自分はただこの齟齬の理由を問うているだけだ」

 アルシェはふいに顔を険しくしかめパスマを睨みつけた。

「僕が大神官を殺したからと言って、それが何だというのさ。僕を告発しようと言うのかい。不審者である君が!?」

 アルシェは鋭く煌く刃物の眼差しでパスマを注視していたが、おもむろに視線をはずしてため息をついた。

「……嘘だよ」

 力なくそう呟いてぱたんとベッドの上に上半身を倒す。

「僕は大神官を殺していない。神に誓ってもいい」

 アルシェはだらしなくベッドの上に寝転んだまま宣誓の形に手を組んだ。

「お前がやるとこの上なく冒涜的に見えるのはなぜだろうな」
「失敬な。これでも優秀な聖職者なんだぜ」

 アルシェはにやりと笑って見せるが、すぐさま表情は暗くふさいだ。

「何がしたいかなんて、僕のほうが聞きたいくらいさ」

 やれやれと首を振る。

「大神官を憎んでいたのも偽りなのか」
「それは真実だよ。もっとも、憎んでいたと言うよりかはただただ虫が好かなかっただけだけどね」

 アルシェは飛び起きるとそばのシーツを拳で殴った。

「まったくとんでもないジジイだったよ。並外れたお人よしで、そのくせ我が強くって自分勝手だ。腹立たしいくらいの偽善者ぶりで――、」

 そのままむっつりと押し黙り顎を擦る。

「……嫌な奴だったよ」
「だがお前はそんな奴の養子になった」
「なりたくてなった訳じゃないっ。ありゃ無理やり連れてかれたんだ!」

 アルシェは苦々しげに顔をしかめる。

「名も無き密偵、僕はあんたと一緒だよ。僕に名前なんて無い。『アルシェ』はあのジジイが気まぐれに拾ったお人形の名前さ」


 


 

 彼の最も古い記憶は森の中を駆け回っている光景だ。
 だがそれは一瞬の断片に過ぎず、それがどこで誰といたのかすら明らかではない。

 ではそれ以降の記憶はと言うと、まったくろくな物ではなかった。
 まるで野良犬のように街をうろつき残飯をあさる毎日。

 たぶん今から考えれば、村を焼き払われた戦災孤児か何かだったのだろう。

 あの頃はそんな身の上はけして珍しいものではなかった。
 彼には頼れる親類も、知人も、それどころか世話を買って出てくれる同じ身上の年長者すらいなかったことが少々特異だったぐらいだろうか。

 だから彼は一人で生きていた。
 生きることだけを考えていた。

 逆算すれば、たぶん四、五歳くらいの時だったと思う。まだモノの道理も分かっていない年頃だ。

 それでもただ生きたいという気持ちだけは持っていた。
 その気持ちだけで生きていた。

 それは野に生きる獣と何ら変わらなかっただろう。その日その日を生き延びる事にすべてを費やす。
 まさに動物そのものだ。たぶんそのままあと一年も暮らせば人の言葉すら忘れ果てたに違いない。

 だが結局そうはならなかった。
 彼は妙に人の良さそうな顔をした神官に『捕獲』されたのだ。


 


 

 誰一人彼に積極的に関わろうとはしなかったが、それでも獣のような暮らしをしている幼い浮浪児のことは街では有名だった。
 ゴミは漁る、食べ物は盗むで街ではちょっとした公害とすら思われていたようだ。

 だが犬猫と違って鬱陶しいからと言って処分してしまう訳にはいかないし、一度関わったのなら最後まで面倒を見なければならない。

 それを考え誰もが手を出しかねていた中、ようやく立ち上がったのがその街の神殿長をやっていたエヴァグリーン司教だった。

『君はこの街の子供ではないんだね』

 嫌がって隙あらば逃げ出そうと暴れる彼に代わって答えたのは、彼からもっとも被害を受けていた露店の主だった。

『三ヶ月ほど前からふらりと現れて街をうろついてたんでせぃ。たぶん同じ目に合ってたどこぞの街が厄介がって置き去りにしたんじゃないですかね』

 実際司教が申し出てくれなければ同じことをしようと考えていた住人たちである。

『ふむ、では君は自分がどこの出身だかは言えるかい』

 だがそれに否を答えたのも彼ではなく露店の主人だった。男は少しだけ哀れみのこもった眼差しでじたばたと暴れる子供を捉える。

『それは無理だと。いえ、言えるかどうかではなく半年ほど前に北の方で大きな戦争があったでしょう。その時に壊滅した村がけっこうあったようでしてね、焼け出された住人が大勢こっちのほうまで流れてきてるんでさぁ。こいつは親兄弟とはぐれたか、あるいは死別しちまったんじゃないですかねぇ』
『そうか、なら余計孤児院やなんかに預けるのも無責任だな。よし、なら僕が引き取ろう』
『は? いえ、ですがさすがに司教様がそこまでなさる必要は……っ』

 主人は目を丸くするが、司教はにこやかな、しかし有無を言わさぬ笑みで妙な理屈をこねる。

『鍋でも一度手をつけた具材は最後まで食べるのが礼儀だろう。なに、心配しなくてもこれでも子供はけっこう好きな方でね』
『そう言う事ではなく、失礼ですが司教様はかなりお忙しい方ですから子育てなんぞはさすがに……』
『よし、では坊や。一緒に行こうな』

 そして司教はあらゆる意見を無視すると、嫌がる子供をむりやり小脇に抱えて連れ去った。


 

 

 こうして彼は司教の養子となったのだがそれからがまた大変だった。

 名前が無いのも不自由だと言うことで、彼はアルシェと言う名を司教から貰った。
 そして司教はことあるごとにアルシェを連れ歩いたのだ。

 やれ視察だ、やれ会議だと忙しく飛び回るのは本人の勝手だが、それに子供を引き連れられると周りは困惑するばかりである。
 また彼のほうも連日連夜引っ張りまわされ目の回るような忙しさだ。突然環境が変わったばかりだというのに慣れるどころか戸惑う暇さえありはしない。
 ちょっとは休ませてあげなさいと、周囲から同情される始末である。

 だが当の司教はそんなことは一向に意に介さず、まあさすがに連日の過密スケジュールのすべてにつき合わせることはしなくなったが、それでもできるかぎりそばに置いておこうとする姿勢は変わらなかった。
 それはまるでお気に入りの玩具を手放そうとしない子供のような有様だ。

 こう毎日毎日顔を合わせると、さすがに幼い彼にもこの司教がどんな人間なのか理解できるようになっていった。

 この司教、一見は春風駘蕩とした穏やかな人柄に思えるがこれがまた一筋縄ではいかない。
 性格は素直で人が良く、温厚そのもの。なおかつ親切で、気配り上手と非の打ち所も無いが、一度こうと決めたことは何としてでもやり遂げる粘り強さを持っている。ようするにとんでもなく我が儘なのだ。
 さほど突飛なことを言うわけでもないのでなかば公認されているような状況だが、それでも相対する立場に立ったらやりにくいことこの上ないだろう。

 また彼はかなり良い家柄の人間らしく、本人の要領の良さも合い間ってか順調に出世を重ねて行った。

 一方彼の養子となったアルシェもごく自然の成り行きとして聖職者としての道を目指していく。
 拾われた時は獣同然の野生児でも、長年裕福な知的階級の中で育てばそれなりの教養を得るものだ。
 また学びたいと言う欲求に司教はこころよく賛同し、彼はかなりの知識人として育った。

 だが、彼が実際に聖職者として神殿に属するようになった時、彼と司教との関係は一変する。
 これまでも非公式ながらやれ付き人だ補佐役だと養い親の仕事を手伝ってきた彼だ。神官となってもその関係には変わりは無いだろうと考えていた。

 しかしそれは大違いだった。

 そのころ司教は樹大神殿で重要な役職についていたが、彼はアルシェを樹大神殿に呼び寄せるようなことはしなかった。
 逆に彼はアルシェに遠方の樹神殿での勤務を申し付け、挙句の果てには監査官として地方ばかりを回らせた。

 けして中央に近寄らせなかったのだ。

 監査役はけして楽な仕事ではない。
 大抵の神殿では煙たがられるし、辺境を回ると言うことは魔物や盗賊といった危険に晒される可能性が高い。
 組織を運営するためには無くてはならない重要な仕事ではあるが、個人に還元する益は薄いのである。

 そうこうしているうちに、アルシェには養い親のことがまったく分からなくなっていった。
 果たしてあの人は自分のことをどう思っているのか。そして自分はあの人のことをどれだけ理解できているのだろうか。
 またそういう時に限って、つまらないことを吹き込んでくる輩もいる。

 もしかするとあの人当たりのいい笑顔も親切めかした態度も、ただ腹の底を見透かせないための仮面に過ぎないのかもしれない。
 あの人の本性はただの自分勝手な子供に過ぎず、その遊具として飽きられた自分は体よく厄介払いをされたのではないか。

 最初は詮無い考えだと自らを戒めていたのだが、それでも四年五年と月日が経つにつれて疑念はだんだん濃くなっていく。

 そしてついに神官となって七年目、彼はそれまでの地方回りで培ったコネを駆使して自ら中央、樹大神殿に着任した。

 この樹大神殿で下官として会った時、果たして養い親であるあの人はなんと言うのだろうか。
 それがアルシェにとって一番の気がかりだった。

 同じ神殿に勤めていても、自然と養い親と顔を合わせることを避けていたのはそれゆえにだ。

 もし自分が彼に嫌われたのならば、その顔は嫌悪に彩られるだろう。だがそれならばそれで納得できる。
 己が気付かなかっただけで、すでに自分と彼との関係はそのようなものだったと言うだけだ。

 しかし司教の反応は彼の予想をはるかに超えていた。

 神殿の中庭で偶然顔を合わせたとき、彼は何を考えているのか分からない、あの朗らかな笑みでこう言ったのだ。

『もう地方めぐりには満足したかい?』

 その顔には一欠けらの悪意も存在していなかった。

 その瞬間、アルシェは彼を理解するのをすっかり諦めた。
 アルシェはここで初めて自分の気持ちを知ったのだ。

 自分は彼に謝って欲しかった。
 謝らないまでも、自分に辛い思いをさせたことを認識していて欲しかったのだ。
 なぜ彼が長年自分にこのような仕事をさせていたのかは知らない。
 だけどどんな理由があろうとも七年間も僻地に追いやられていたことは辛かった。そばに置いてもらえないことは悲しかった。

 しかし司教はそんな自分の気持ちを知りもしないで、ただ無邪気に微笑んでいる。

 確かに彼は人の良い、穏やかな善人だろう。
 だがその善意は自分には理解できない理屈の上に成り立っている。

 やがてアルシェは徐々に彼の思想や考え方にも違和感を覚えるようになり、拾われ児は完全に養い親の元を離れたのだった。