「だからどうしてシエロさんは、いつもいつも酒場になんているんですか!」 立腹したジェムがシエロの片耳を掴んで引きずるように歩いていく。 集合場所に戻る途中、昼間からやけに賑やかな様子の酒場にまさかと思いつつ覗いたところ、やはりそこには五大神殿の名のもとに世界を旅する巡礼者の一人がいた。 「いやね、せっかくだから息抜きがてら情報収集にでも励もうかなぁと……」
入った酒場はまさに飲めや歌えの大賑わい。もちろんその中心はシエロである。
「皆さん気のいい海の男ばっかりでね、いろいろ話を聞かせてくれるのはいいんだけどそのたんびにお酒を勧められて」
こめかみを指で押さえ、呆れたように呻く。 もちろんこれから行く大陸の様子をあらかじめ調べておくにこした事はないけれど、そのたびにあれでは旅の仲間として恥ずかしいことこの上ない。 「それで何か有意義なことは聞けたんですか」
憮然とした顔のジェムにシエロは答える。 そんなこんなを話しているうちに三つ時を告げる鐘が鳴り、彼らは待ち合わせの場所に着いた。 「あれ、ゼーヴルムさんはまだ来ていないんですか」 先に来て待っていたメンバーをみてジェムは思わず首をかしげた。そこにはゼーヴルムを除く全員が揃っている。 むしろゼーヴルムがいないことこそがひどく意外だった。几帳面な彼は待ち合わせのだいぶ前にそこに待機しているのが常のはずなのに。 「どっかで道草でも食ってんじゃないのか」
なんだか不安な気持ちを抑えきれず、ジェムはきょろきょろとあたりを見回す。
「ああ、あんたたち。あんたたちだろ、巡礼者って言うのは」 ぎょっとして振り返ると、そこにいたのは新聞売りの少年だった。 「良かった、ずっと探してたんだよ。実はあんたたちに言付けを預かっているんだ」
くたびれたチョッキに茶色の帽子をかぶった少年は、得意げにうなずくと鼻の下を擦った。 「そう。黒髪の背の高い兄ちゃんから。『すまないが先にスズリ大陸に向かっていてくれ。後から必ず追いつく』だってさ」 駄賃もだいぶ弾んでくれたんだぜと高額貨幣を見せる少年の言葉に、ジェムは思わず息を呑んだ。
「彼がどこに行ったか聞いてないかい?」 スティグマも真剣な表情で少年に尋ねるが、彼は知らないとあっさりと首を振った。 「でも、港の方に行ったからたぶん船に乗ったんじゃないかな。オレから買った号外を見た途端、顔色を変えてたし」 ジェムも少年から慌てて新聞を買って広げた。
「たぶん彼はギュミル諸島へ向かったんだ」 スティグマはそれをじっと眺めてからぽつりと呟いた。 彼がこのいづれかの事件とどのような関わりを持っているかは分からない。しかしゼーヴルムはその記事を読んですぐにギュミル諸島へ向かったのだ。それもたった一人で。 「そんな、ゼーヴルムさん……、一言でもぼくらに相談してくれれば良かったのに」 ジェムは湧き上がる苦い思いに唇を噛む。
「まぁ、あいつの性格からして私事から迷惑をかけられないとでも思ったのかねぇ」
あっさりとした返答にジェムはぎょっとしてシエロを見る。 それを言ったら自分だって皆にはひどく迷惑をかけてきた。だけど皆の協力があったからこそ、それを無事乗り越えることができたのだ。
「ようするに、おれたちを信用していないってことだろう」 バッツがむすっとした表情で鼻を鳴らす。 「腹立たしい奴だ」 たぶん彼もまた、ゼーヴルムに置いて行かれた事が悔しくて仕方がないに違いない。 「じゃあ、ここで皆にどっちがいいか聞いてみようか」 すっと前に出たシエロは、ぴんと人差し指を立て首をかしげた。 「ひとつはゼーヴルムが言い残したように、さきにスズリ大陸に行って彼を待つ」 責任感が人一倍強いゼーヴルムのことだ。
「そしてもうひとつ」 シエロは悪戯めかした表情でにやりと笑った。 「ゼーヴルムの言うことなんか聞かないで、俺らもギュミル諸島へ行っちまうか」
ジェムは間髪入れずに答えた。 自分たちが向かって彼の足手まといになるだけかも知れない。
「同感だな。あの野郎の言うことなんて大人しく聞いてやる義理はないさ。――もっとも船に乗る時間が増えたことに対する埋め合わせだけは、しっかりしてもらうがな」 不貞腐れた様子のバッツが怒ったようにうなずく。 「あたしも、別に文句はないわよ。困ったときはお互い助け合わなくっちゃいけないし」 フィオリトゥーラも小首をかしげた。 いったいゼーヴルムがどんな事に巻き込まれているのだとしても、彼を置いていくことなんて誰にもできるはずがない。 「それじゃあ、さっそくゼーヴルムさんを追いかけましょう」 青い海の彼方をジェムはまっすぐに見据えた。 波が陽光をきらきらと照り返す。
※ ※ ※
深い森の一角に口汚い罵声が響く。 「冗談じゃないぞっ。呆れるほど楽な仕事だと聞いていたんだっ」 赤く腫れ上がった頬を押さえ、ズーオは腹立たしげに地面を蹴り飛ばす。 「落ち着け、何を苛立っている」 少し離れたところに腰をおろしたジャマルが忠言するがそれもまるで耳に入っていない様子だ。 今回のことでズーオは多くの使獣を失ってしまった。いや、いくら使獣が居たからといってあの子供らにはまるで相手にならなかった。 (それにあの男――、) 冷たい海のような灰色の眼を思い浮かべ、ズーオはぶるるっと身震いをする。 「悪いが俺は抜けさせてもらうぞ」
操魔獣術士はぶんぶんと首を振る。 「もう係わり合いに何ぞなりたくないっ。報酬も要らん!」 そうして足取りも荒く森の奥へと歩いていく。 ため息ひとつ吐いたジャマルは、それを冷めた眼差しで見送った。
しかし彼が森へ消えてさした経たない内に、まるで断末魔のような叫びが響き渡りジャマルはぎょっとして立ち上がった。
「まったく。職業殺人者としての意地も誇りも持たないような人間に、生きる価値などありませんね」 ジャマルははっと目を見開いた。
「……だいぶ、遅かったな」 ジャマルは男から目を離さず慎重に呼びかける。 その男はこちらの世界ではかなり名の知れた暗殺者。
男はつまらなそうに肩をすくめる。 「老いているとは言え樹大神殿の大神官ですからね。暗殺にも時間がかかってしまうんですよ」 そして鬼火を思わせる薄蒼い瞳に冷たい笑みを浮かべた。 「しかもそれに関してはあなた方にだって落ち度はあるでしょう。勝手に待ち合わせの場所から移動して。けっこう探したんですよ」
一般の人間よりもだいぶ鋭いジャマルの嗅覚が鉄錆にも似た生々しい血の匂いを嗅ぎ取る。 「勝手に殺してよかったのか」 性格にはやや問題があったものの、あれでも依頼主から組むように言われた人間だ。離脱を計っていても勝手に殺してしまうのはまずいのではなかろうか。
「さぁ、どうですかね。でも黙っていれば分からないでしょう。だいたいあの程度の人間なら、例えオレたちといたとしても足手まといにしかならなかったでしょうよ」 薄い唇が三日月の形に吊り上るのを見て、ジャマルは背筋に冷たいものを感じた。 たぶんこの男は人間を殺すのにいささかの躊躇いも持たない。それどころかさしたる理由さえ必要としないのだ。 ジャマルは裏の世界に流布するこの男のふたつ名を思い出して改めてぞっとした。 「そうそう。そう言えばつい先ほど依頼主からの言付が届きましてね、依頼内容が変わりましたよ」 たった今思い出したと言わんばかりに男はぽんと手を打つ。 「妨害ではなく抹殺。巡礼使節をひとり残らず殺して欲しいそうです」
ジャマルは心なしか沈んだ口調で答えた。 傭兵くずれとは言え、今は自分も職業殺人者であることにはかわりない。請けた依頼は是も否もなくこなすべきだろう。
「もし君が嫌だと思うのなら、無理して仕事をしなくてもいいんじゃないですか」 抵抗を隠せないジャマルに呼びかける男の声は、どこか甘い誘惑の響きを持っていた。優しさすら感じさせるその言葉に、けれどジャマルは騙されない。咎めるようにちらりと男をねめつけた。 「そしてその言葉の通りにした途端、ズーオと同じように生きる資格無しと息の根を止められるんだろう」
当然の顔をして答える男に、嫌悪感よりも先にジャマルは思わず呆れてしまった。 「勝手な男だな、カロン」 だがそう呼びかけた途端、暗殺者はとつぜん唖然としたように凍りついた。
「どうしたんだ」
ジャマルは彼が言いたいことを察して深々とため息をついた。 「また自分の名前を忘れたのか。そんなにたびたび忘れるなんて器用なものだな。おまえの名はカロン。冥府の河の渡し守、カロン・ステュクスだ」 その残忍な殺し方から冥途の道先案内人と呼び怖れられる暗殺者である。
「そうか今はその名を使っていたのでしたね」 そして闇のように黒い服を身にまとう男は、白茶けた金髪をさっと掻きあげた。 「では、次に会ったときにきちんと訂正しなければ」
不思議そうな顔をするジャマルに、カロンは嬉しそうに笑いかける。 「ええ、とっても面白い少年と知り合いになったんですよ。ふふ、オレが名前を忘れてしまう前に再会できればいいんですが」 蒼く冴え渡る瞳で虚空を見つめる暗殺者――ルーチェは、唇に夜の森で出逢った少年の名前を紡ぐ。 「ジェム・リヴィングストーン……」 果たして彼との縁はまだ繋がっているのだろうかと考えながら。
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