第三章 エピローグ 潮騒と港(4)

 


「だからどうしてシエロさんは、いつもいつも酒場になんているんですか!」

 立腹したジェムがシエロの片耳を掴んで引きずるように歩いていく。

 集合場所に戻る途中、昼間からやけに賑やかな様子の酒場にまさかと思いつつ覗いたところ、やはりそこには五大神殿の名のもとに世界を旅する巡礼者の一人がいた。

「いやね、せっかくだから息抜きがてら情報収集にでも励もうかなぁと……」
「だからってあんな大宴会をする必要はありませんっ」

 入った酒場はまさに飲めや歌えの大賑わい。もちろんその中心はシエロである。
 もちろん酔っ払いはしない程度の分別は持ち合わせていたようだが、このままでは確実に待ち合わせにはやってこないと見通しをつけ、無理やり引っ張り出してきたという次第である。

「皆さん気のいい海の男ばっかりでね、いろいろ話を聞かせてくれるのはいいんだけどそのたんびにお酒を勧められて」
「だからって素直に飲まないでくださいよっ」

 こめかみを指で押さえ、呆れたように呻く。

 もちろんこれから行く大陸の様子をあらかじめ調べておくにこした事はないけれど、そのたびにあれでは旅の仲間として恥ずかしいことこの上ない。

「それで何か有意義なことは聞けたんですか」
「ん〜、あんまり明るい話題はなかったなぁ。ああ、そうだ。海賊に気をつけろとかは言われたよ。あとスズリの総督は性格が悪いとか。まぁ、詳しいことは船の中で話すよ」

 憮然とした顔のジェムにシエロは答える。

 そんなこんなを話しているうちに三つ時を告げる鐘が鳴り、彼らは待ち合わせの場所に着いた。


 

「あれ、ゼーヴルムさんはまだ来ていないんですか」

 先に来て待っていたメンバーをみてジェムは思わず首をかしげた。そこにはゼーヴルムを除く全員が揃っている。

 むしろゼーヴルムがいないことこそがひどく意外だった。几帳面な彼は待ち合わせのだいぶ前にそこに待機しているのが常のはずなのに。

「どっかで道草でも食ってんじゃないのか」
「そういうことだったまだいいんですけれど」

 なんだか不安な気持ちを抑えきれず、ジェムはきょろきょろとあたりを見回す。
 その時、巡礼使節である彼らに背後から声がかかった。

「ああ、あんたたち。あんたたちだろ、巡礼者って言うのは」

 ぎょっとして振り返ると、そこにいたのは新聞売りの少年だった。

「良かった、ずっと探してたんだよ。実はあんたたちに言付けを預かっているんだ」
「え、ぼく達にですか」

 くたびれたチョッキに茶色の帽子をかぶった少年は、得意げにうなずくと鼻の下を擦った。

「そう。黒髪の背の高い兄ちゃんから。『すまないが先にスズリ大陸に向かっていてくれ。後から必ず追いつく』だってさ」

 駄賃もだいぶ弾んでくれたんだぜと高額貨幣を見せる少年の言葉に、ジェムは思わず息を呑んだ。
 不安が胸を締め付ける。そんなことを言うなんて、いったいゼーヴルムに何があったというのだろう。

「彼がどこに行ったか聞いてないかい?」

 スティグマも真剣な表情で少年に尋ねるが、彼は知らないとあっさりと首を振った。

「でも、港の方に行ったからたぶん船に乗ったんじゃないかな。オレから買った号外を見た途端、顔色を変えてたし」

 ジェムも少年から慌てて新聞を買って広げた。
 そこにはここ最近ギュミル諸島で起こった不思議な事件の数々――ノート島の皇子殿下が忽然と行方知れずになった事や神出鬼没の海賊、大掛かりな密輸組織の影などについて書かれている。

「たぶん彼はギュミル諸島へ向かったんだ」

 スティグマはそれをじっと眺めてからぽつりと呟いた。

 彼がこのいづれかの事件とどのような関わりを持っているかは分からない。しかしゼーヴルムはその記事を読んですぐにギュミル諸島へ向かったのだ。それもたった一人で。

「そんな、ゼーヴルムさん……、一言でもぼくらに相談してくれれば良かったのに」

 ジェムは湧き上がる苦い思いに唇を噛む。
 確かに自分たちでは頼りにならないかもしれない。しかしどうして何も言わずに行ってしまったのか。

「まぁ、あいつの性格からして私事から迷惑をかけられないとでも思ったのかねぇ」
「そんなこと――っ」

 あっさりとした返答にジェムはぎょっとしてシエロを見る。

 それを言ったら自分だって皆にはひどく迷惑をかけてきた。だけど皆の協力があったからこそ、それを無事乗り越えることができたのだ。
 ゼーヴルムにも同じことがありえないなんて、いったいどうして言い切れよう。

「ようするに、おれたちを信用していないってことだろう」

 バッツがむすっとした表情で鼻を鳴らす。

「腹立たしい奴だ」

 たぶん彼もまた、ゼーヴルムに置いて行かれた事が悔しくて仕方がないに違いない。

「じゃあ、ここで皆にどっちがいいか聞いてみようか」

 すっと前に出たシエロは、ぴんと人差し指を立て首をかしげた。

「ひとつはゼーヴルムが言い残したように、さきにスズリ大陸に行って彼を待つ」

 責任感が人一倍強いゼーヴルムのことだ。
 たぶんスズリ大陸で待っていれば彼は必ず現れるだろう。その自信があったからこそ、彼は伝言ひとつを残して発ったのだ。

「そしてもうひとつ」

 シエロは悪戯めかした表情でにやりと笑った。

「ゼーヴルムの言うことなんか聞かないで、俺らもギュミル諸島へ行っちまうか」
「ギュミル諸島へ向かいましょうっ」

 ジェムは間髪入れずに答えた。

 自分たちが向かって彼の足手まといになるだけかも知れない。
 だけど自分はゼーヴルムの仲間なのだ。彼がどういう目的で出て行ったにせよ、彼のそばで手助けをしたいと言う気持ちを抑えることはできない。

「同感だな。あの野郎の言うことなんて大人しく聞いてやる義理はないさ。――もっとも船に乗る時間が増えたことに対する埋め合わせだけは、しっかりしてもらうがな」

 不貞腐れた様子のバッツが怒ったようにうなずく。

「あたしも、別に文句はないわよ。困ったときはお互い助け合わなくっちゃいけないし」

 フィオリトゥーラも小首をかしげた。

 いったいゼーヴルムがどんな事に巻き込まれているのだとしても、彼を置いていくことなんて誰にもできるはずがない。

「それじゃあ、さっそくゼーヴルムさんを追いかけましょう」

 青い海の彼方をジェムはまっすぐに見据えた。

 波が陽光をきらきらと照り返す。
 囁くような潮騒が早くも耳に届くようだった。


 
 

 

  ※ ※ ※


 

 
 


 

 深い森の一角に口汚い罵声が響く。

「冗談じゃないぞっ。呆れるほど楽な仕事だと聞いていたんだっ」

 赤く腫れ上がった頬を押さえ、ズーオは腹立たしげに地面を蹴り飛ばす。

「落ち着け、何を苛立っている」

 少し離れたところに腰をおろしたジャマルが忠言するがそれもまるで耳に入っていない様子だ。

 今回のことでズーオは多くの使獣を失ってしまった。いや、いくら使獣が居たからといってあの子供らにはまるで相手にならなかった。

(それにあの男――、)

 冷たい海のような灰色の眼を思い浮かべ、ズーオはぶるるっと身震いをする。

「悪いが俺は抜けさせてもらうぞ」
「ズーオ」

 操魔獣術士はぶんぶんと首を振る。

「もう係わり合いに何ぞなりたくないっ。報酬も要らん!」

 そうして足取りも荒く森の奥へと歩いていく。

 ため息ひとつ吐いたジャマルは、それを冷めた眼差しで見送った。
 別に奴が抜けようが何をしようが興味も感心もない。それは個人の自由だ。

 しかし彼が森へ消えてさした経たない内に、まるで断末魔のような叫びが響き渡りジャマルはぎょっとして立ち上がった。
 ズーオが向かった森の奥から、ゆっくりと人影が現れる。

「まったく。職業殺人者としての意地も誇りも持たないような人間に、生きる価値などありませんね」

 ジャマルははっと目を見開いた。
 まるで散歩から戻ってきたかのような軽い足取りで歩いてくる一人の男。その人物には確かに見覚えがあった。

「……だいぶ、遅かったな」

 ジャマルは男から目を離さず慎重に呼びかける。

 その男はこちらの世界ではかなり名の知れた暗殺者。
 今回の依頼においてズーオ、ジャマルとともに組むことを申し付けられていた人物である。
 もっとも彼だけは別に依頼された仕事を果たすために後からの合流となっていた。

 男はつまらなそうに肩をすくめる。

「老いているとは言え樹大神殿の大神官ですからね。暗殺にも時間がかかってしまうんですよ」

 そして鬼火を思わせる薄蒼い瞳に冷たい笑みを浮かべた。

「しかもそれに関してはあなた方にだって落ち度はあるでしょう。勝手に待ち合わせの場所から移動して。けっこう探したんですよ」
「文句だったらズーオに言ってくれ。奴が巡礼者を追いかけると強く主張したんだ。――もっとも、もはや文句は言いたくても言えんのだろうがな」

 一般の人間よりもだいぶ鋭いジャマルの嗅覚が鉄錆にも似た生々しい血の匂いを嗅ぎ取る。

「勝手に殺してよかったのか」

 性格にはやや問題があったものの、あれでも依頼主から組むように言われた人間だ。離脱を計っていても勝手に殺してしまうのはまずいのではなかろうか。
 だが男は悪びれる様子もなく笑った。

「さぁ、どうですかね。でも黙っていれば分からないでしょう。だいたいあの程度の人間なら、例えオレたちといたとしても足手まといにしかならなかったでしょうよ」

 薄い唇が三日月の形に吊り上るのを見て、ジャマルは背筋に冷たいものを感じた。

 たぶんこの男は人間を殺すのにいささかの躊躇いも持たない。それどころかさしたる理由さえ必要としないのだ。

 ジャマルは裏の世界に流布するこの男のふたつ名を思い出して改めてぞっとした。

「そうそう。そう言えばつい先ほど依頼主からの言付が届きましてね、依頼内容が変わりましたよ」

 たった今思い出したと言わんばかりに男はぽんと手を打つ。

「妨害ではなく抹殺。巡礼使節をひとり残らず殺して欲しいそうです」
「そうか……」

 ジャマルは心なしか沈んだ口調で答えた。

 傭兵くずれとは言え、今は自分も職業殺人者であることにはかわりない。請けた依頼は是も否もなくこなすべきだろう。
 だがそれでもジャマルは子供を殺すのは気が進まなかった。先ほど刃を交えた負けん気の強い砂漠の少年を思い出してさらに眉をひそめる。

「もし君が嫌だと思うのなら、無理して仕事をしなくてもいいんじゃないですか」

 抵抗を隠せないジャマルに呼びかける男の声は、どこか甘い誘惑の響きを持っていた。優しさすら感じさせるその言葉に、けれどジャマルは騙されない。咎めるようにちらりと男をねめつけた。

「そしてその言葉の通りにした途端、ズーオと同じように生きる資格無しと息の根を止められるんだろう」
「ええ、その可能性も充分ありえますね」

 当然の顔をして答える男に、嫌悪感よりも先にジャマルは思わず呆れてしまった。

「勝手な男だな、カロン」

 だがそう呼びかけた途端、暗殺者はとつぜん唖然としたように凍りついた。
 ジャマルはむっと眉をひそめ、訝しげに男に問い掛ける。

「どうしたんだ」
「……カロンが、オレの名前でしたっけ?」

 ジャマルは彼が言いたいことを察して深々とため息をついた。

「また自分の名前を忘れたのか。そんなにたびたび忘れるなんて器用なものだな。おまえの名はカロン。冥府の河の渡し守、カロン・ステュクスだ」

 その残忍な殺し方から冥途の道先案内人と呼び怖れられる暗殺者である。
 だが冷徹非道であるはずの殺し屋はどこか戸惑ったような顔で小首をかしげる。

「そうか今はその名を使っていたのでしたね」

 そして闇のように黒い服を身にまとう男は、白茶けた金髪をさっと掻きあげた。

「では、次に会ったときにきちんと訂正しなければ」
「次?」

 不思議そうな顔をするジャマルに、カロンは嬉しそうに笑いかける。

「ええ、とっても面白い少年と知り合いになったんですよ。ふふ、オレが名前を忘れてしまう前に再会できればいいんですが」

 蒼く冴え渡る瞳で虚空を見つめる暗殺者――ルーチェは、唇に夜の森で出逢った少年の名前を紡ぐ。

「ジェム・リヴィングストーン……」

 果たして彼との縁はまだ繋がっているのだろうかと考えながら。





【第三章 了】


 

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