アルシェは自室に戻ると勢いよくベッドに腰をおろした。スプリングがぎしりと音を立てる。
一時はひどい有様だったこの部屋も、今は何ごともなかったかのようにきれいにされている。
「確かにちゃんと伝えたよ。しかし本当にこれでよかったのかい」 若き大神官はちらりと部屋の隅を見る。
「まぁ、たいそう驚かれたご様子で、なんとも可笑しいやら可哀想やらといった感じだったけど、君はこれだけのことでもう満足なのかい」 無表情のままそこに座り込んでいるパスマを見て、アルシェは少し困ったような顔で首をかしげる。 「こちらとしては手を貸してくれた君に少しでも報いてあげたいと思っているんだけど」
それはあらかた分かったと、パスマはつまらなそうに視線を振った。 神殿に忍び込んだ密偵は、結局何の見返りも求めなかった。
アルシェに言われてパスマが盗って来たのは分厚い手紙の束だった。それを受け取ってぱらぱらと眺めていたアルシェは深々とため息をつく。 「まったく、神殿はどこも腐れきっているな。せいぜいまともと思われるのは始まりの神殿と空大神殿ぐらいだが、始まりの神殿は実質的な権限は無いに等しいし、空大神殿は自分たち以外のことにはまるで無関心ときている」 「それはいったい何なんだ」
たずねるパスマにアルシェは苦笑にも似た表情を浮かべてそれを放り投げる。折りたたまれていた長い紙を広げてパスマはむっと眉をひそめた。
「まったく、よくもここまでそれらしい名前を取り揃えたものだよ」 可笑しくて仕方ないという素振りを見せるアルシェだが、そこには確かに嫌悪の色がはっきりとうかがえる。 「連判状。しかも五大神殿のほとんどを網羅している。もっとも、それは単なる写しだろうけどね」 どんな悪事をたくらんでいるんだか、とアルシェは鼻を鳴らす。
「この名前を見ただけでろくな事を考えていないというのがまる分かりだな。たぶん、この五大陸で今なにかが起ころうとしているんだ……」 「どういうことだ」 鋭い眼差しを向けてくるパスマにアルシェは肩をすくめた。 「僕は当事者じゃないから分かりかねるよ。でも、キナ臭いことになるのは確かだろうね」 大神官はふいに真面目な顔になるとパスマをまっすぐに見た。 「パスマ、君は南に行ってくれないか。海大神殿の方に」 だが影は冷たい眼差しを返す。 「何故自分がそれを聞くと思う」
パスマは微かに眉をひそめるとすっと顔を逸らした。 「その考えは適当ではないな。もしそれが真実ならば自分は主に知らせにいかなければならない。もとより無理な話だ」
おかしなことでも聞いたという表情でアルシェは首を傾げる。 「どうせだったらこんなあやふやな情報を告げるより、もっと事の次第をはっきりさせてから報告した方が良くないかい。さらに言うならば自分でそれを何とかしてしまってもいい」 表情の乏しいその目に、しかしパスマはぎょっとしたような色を浮かべた。 「だがそんなことは命令されていないっ」
アルシェは小さく笑い、そして真摯な眼差しで一歩パスマに近寄る。 「たぶん、これをこのまま放置していたら取り返しのつかないことになるよ。聞いた話によると今ギュミル諸島周辺がごたついているらしい。それにはこの手紙の連中が関わっている可能性がある」 アルシェは汚らわしいものを見るかのような眼差しで連判状を一瞥する。
「そうなってからじゃ遅いんだ。パスマ、君にも守りたい人の一人や二人いるだろう」 影である自分にそんな相手はいない。 パスマはすぐにそう返そうとした。
古ぼけた揺り椅子に身を沈め、汚れた人形を抱きしめる女性。
パスマのそんな逡巡を見て取ったのか、アルシェは畳み掛けるように言った。 「君はその人をなんとしてでも守るべきだ。――僕のように、手遅れになっちゃいけない」 そうなってからでは遅いんだよ、と養い親の後を継いだ大神官はどこか哀しげに微笑んだ。 陣取っていた部屋の隅から離れるパスマにアルシェは問いかけた。 「もういくのかい?」 「自分言葉が伝わったことを確かめた。もうここには用はない」 すげなく言い捨てる影を見てアルシェは肩をすくめる。 「本当は気になって仕方がないけれど、君とあの少年の関係は聞かないでおいてあげるよ」
はっ、とアルシェは声を立てて笑った。ベッドから立ち上がりあと三歩という距離まで近付いた。 「感謝を述べるのは僕のほうだよ。僕の我が儘に付き合ってくれたんだから」 そして軽く首を傾けてパスマを見る。 「礼代わりと言ってはなんだけど、僕がこの神殿にいる限り樹大神殿を災いの火種にはさせないと約束するよ。こっちのことは心配しなくていい」
パスマは嫌そうに顔をしかめている。 「口先ひとつで樹大神殿の大神官までのしあがるような奴だ。多少の騒動など簡単にあしらえるだろう」
パスマは呆れたようにため息をついた。 結局パスマはこれから海大神殿まで行く。
食えない大神官は何やら考えるように首を動かし、おもむろにパスマへ言った。 「ねぇ、もし君が何らかの理由で居場所を失うことがあったら、その時は僕の所においで。君一人ぐらいだったら十分養ってあげられるから」
むっつりとした顔のパスマとは対照的に、アルシェはどこか面白がるような油断ならない笑みを浮かべていた。そして何食わぬ顔でしれっと言ってのける。 「知っているかい。大神官もね、結婚はできるんだよ」
パスマは反射的に息を吸い込み、むせ返る。 「思ったんだけどさ、君って着痩せする方だよね」
パスマは苦しげに咳き込んだが、一方のアルシェは飄々とした仕種で肩をすくめた。 「最初に介抱した時にね。さすがに武装解除ぐらいさせて貰おうかとしたんだけど、ご婦人の身体をまさぐるのもどうかと思って」
って言うか、それ以前に聖職者だし。ととぼけた顔でうそぶく。 「……パスマには、性別という概念はないぞ――、」 なんだか疲れきった顔で吐き捨てたパスマにアルシェは「僕は持っているから問題ないよ」と、笑って答える。 イルズィオーンの駒には性別という括りはない。それゆえ男と女というような意識は恐ろしく希薄だ。
「それだけ僕は君に感謝しているということだよ。それに今回の件に君を巻き込んだのは僕だからね、その責任は取らせて欲しい。あぁ、別にすぐに返事はしなくていいよ。今はまだ記憶の片隅にでも留めて置いてくれればそれでいいから」 どこかおどけた調子だけれど、その声には誠実さが滲み出ていた。
「樹大神殿の大神官から祝福を貴方に。貴方の許に常にユークレース神のご加護がありますように」 そしてちらりと視線を上げたアルシェは笑って言った。 「困ったことがあったらいつでも頼っておいで。僕は君の味方だから」 影である自分にそんなもの必要ない。
名も無き影ははただ小さく、是と呟いた。 ※ ※ ※ 風に潮の香りが混じっていた。
「号外だよ、号外〜。南の大陸ギュミル諸島で起きた不可解な事件っ」 新聞の束を抱えた子供が威勢よく声を張り上げる。
アウストリ大陸の西海岸は世界の貿易の中心地だ。言ってみれば商人の街である。
途切れることの無い街の喧騒を前に、ジェムは言葉も無く立ち尽くすしかなかった。
樹大神殿の大神官がジェムに伝えたのは、五年前、そしてつい先日も少年を苦しめたあの影からのメッセージだった。 『今のところは見逃しておく。だがその身に相応しからぬ行いを為した時は、相応の報いが降りかかることを覚悟せよ』 それを聞いた瞬間、ジェムは開いた口が塞がらなかった。
いまいち訳が分からないものの、要するに自分は巡礼使節として旅を許されたということなのだろう。
「しかしどうしてわざわざ港なんだよ」 ふと隣を見ると口元を引きつらせたバッツが、まるで親の敵でも見るかのような眼差しで港を睨みつけていた。
「別にいいだろうが。どの大陸に行くにしても必ず船には乗らなければならないのだからな」
実家からの刺客が来るとも分かっていたし。と、いっそ縋るような勢いになってきたバッツを、ジェムは申し訳なく思いながらもあっさりと突き放す。シエロもしれっとした顔で肩をすくめた。 「同じく。どこにいるのか分からなかった東の大陸の巡礼者に、追いつくだけの猶予を持たせてあげようかと思ってね」
悪気ないジェムの痛烈な一言に、がっくりと肩を落としたシエロがその場に座り込んだ。 「ったく、なんだよ。おまえらそろって裏切りやがってっ」
悔しげに喚き立てるバッツに、冷たくも愛らしい声が鋭く突き刺さった。フィオリはつんと顎を上げてバッツを見下ろす。 「その年になってまだ船が怖いとか言っているの? まったくしょうがないくらいお子様なんだから」
顔を真っ赤にしたバッツが呪い殺しそうな眼差しでフィオリを睨みつける。 「おれはっ、お前を仲間だなんて認めていないぞ!」
喧々囂々と喚き合う二人を見て、どうにか気を取り直したシエロがやれやれとため息をついた。 「本当に賑やかなだよなぁ」 賑やかとかそういう次元の問題じゃないとジェムは毎度の事ながら思うのだが、シエロはやっぱりただ面白がるばかりだし、ゼーヴルムもまたそ知らぬ顔だ。 まったくどうして毎回この調子なのだろう。
「ほら、君たち。仲がいいのは結構だけどじゃれ合うのもそれくらいにしなさい」
賑やかに言い争っていた二人の少年少女はきっと無精ひげの闇医者を睨みつける。 「そう言われたくなければ少し離れているんだね」 揶揄するように笑うスティグマに、バッツとフィオリはしぶしぶと距離をとった。
「ぼく、スティグマさんがいて本当に良かったです……」
頼れる人がいるというのはなんて幸せなことだろうと、拝むように手を合わせてくるジェムにスティグマは不思議そうに首を傾げた。 「とりあえずスズリ大陸に行くのなら買出しはしておかないとね」 近い神殿から順番に回るならば次は火大神殿になる。火大神殿のあるスズリ大陸は砂漠が多くを占めるなど環境が厳しい場所なので事前の準備はしっかりしておく必要があるだろう。 「幸いなことにここは手に入らないものは何もないといわれる西の貿易港だ。それぞれ買いたいものもあるだろうし、しばらく自由行動にでもしようか」
スティグマの提案に、シエロがまるで子供のように手を叩いて喜ぶ。 「三つ時の鐘が鳴る頃にここに集合しよう」 買出しの割り当てを決め、それぞれの目的地に向かう中、しかしゼーヴルムだけは無言でその場に立ち尽くしていた。
「あの、どうしたんですか」
彼は小さく首を振ると、他の面々と同じように人ごみの中に紛れ込んでしまった。 (海が、懐かしかったのかな……) ゼーヴルムが向けていた視線の先を辿ると、そこにはいくつもの船が浮かぶ青い港が見える。 ゼーヴルムの故郷はギュミル諸島。 海を見て故郷を思い出していたのだろうかと考え、ジェムもまた買出しへと走った。
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