第三章 エピローグ 潮騒と港(3)

 


 アルシェは自室に戻ると勢いよくベッドに腰をおろした。スプリングがぎしりと音を立てる。
 その部屋は代々の大神官が住んでいた部屋。そして先代の大神官が亡くなった場所でもあった。

 一時はひどい有様だったこの部屋も、今は何ごともなかったかのようにきれいにされている。
 だがそれでもひと月半前に人が殺された場所であることには変わりないのだから、何にしてもあまり気分はよくないだろう。
 違う部屋を用意させましょうかと言う周りの者に、しかしアルシェはここでいいと断った。もっともこれまではなかった鍵を新たに付けさせることだけは忘れなかったが。

「確かにちゃんと伝えたよ。しかし本当にこれでよかったのかい」

 若き大神官はちらりと部屋の隅を見る。
 そこにいたのは暗き影。パスマと呼ばれる密偵だ。

「まぁ、たいそう驚かれたご様子で、なんとも可笑しいやら可哀想やらといった感じだったけど、君はこれだけのことでもう満足なのかい」

 無表情のままそこに座り込んでいるパスマを見て、アルシェは少し困ったような顔で首をかしげる。

「こちらとしては手を貸してくれた君に少しでも報いてあげたいと思っているんだけど」
「……必要ない。自分が求めていたことは、五大神殿で何が起こっているかを知ることだったからな」

 それはあらかた分かったと、パスマはつまらなそうに視線を振った。

 神殿に忍び込んだ密偵は、結局何の見返りも求めなかった。
 ただ巡礼者の一人に対する伝言を除いて……。


 

 アルシェに言われてパスマが盗って来たのは分厚い手紙の束だった。それを受け取ってぱらぱらと眺めていたアルシェは深々とため息をつく。

「まったく、神殿はどこも腐れきっているな。せいぜいまともと思われるのは始まりの神殿と空大神殿ぐらいだが、始まりの神殿は実質的な権限は無いに等しいし、空大神殿は自分たち以外のことにはまるで無関心ときている」

「それはいったい何なんだ」
「見てみるかい?」

 たずねるパスマにアルシェは苦笑にも似た表情を浮かべてそれを放り投げる。折りたたまれていた長い紙を広げてパスマはむっと眉をひそめた。
 そこにはいくつもの名前がずらずらと並べ立てられている。

「まったく、よくもここまでそれらしい名前を取り揃えたものだよ」

 可笑しくて仕方ないという素振りを見せるアルシェだが、そこには確かに嫌悪の色がはっきりとうかがえる。

「連判状。しかも五大神殿のほとんどを網羅している。もっとも、それは単なる写しだろうけどね」

 どんな悪事をたくらんでいるんだか、とアルシェは鼻を鳴らす。
 その手紙はなんらかの密約を取り交わしている者たちがその結束を固めるために、あるいは裏切りを防ぐために署名したもの。その写しだ。

「この名前を見ただけでろくな事を考えていないというのがまる分かりだな。たぶん、この五大陸で今なにかが起ころうとしているんだ……」

「どういうことだ」

 鋭い眼差しを向けてくるパスマにアルシェは肩をすくめた。

「僕は当事者じゃないから分かりかねるよ。でも、キナ臭いことになるのは確かだろうね」

 大神官はふいに真面目な顔になるとパスマをまっすぐに見た。

「パスマ、君は南に行ってくれないか。海大神殿の方に」

 だが影は冷たい眼差しを返す。

「何故自分がそれを聞くと思う」
「お願いとか命令とかそんなことじゃない。ただ、君は行くべきだと思うんだ」

 パスマは微かに眉をひそめるとすっと顔を逸らした。

「その考えは適当ではないな。もしそれが真実ならば自分は主に知らせにいかなければならない。もとより無理な話だ」
「そうかい?」

 おかしなことでも聞いたという表情でアルシェは首を傾げる。

「どうせだったらこんなあやふやな情報を告げるより、もっと事の次第をはっきりさせてから報告した方が良くないかい。さらに言うならば自分でそれを何とかしてしまってもいい」

 表情の乏しいその目に、しかしパスマはぎょっとしたような色を浮かべた。

「だがそんなことは命令されていないっ」
「言われたことしかできないのは無能のする事だよ。だけど君は優秀な密偵なんだろう」

 アルシェは小さく笑い、そして真摯な眼差しで一歩パスマに近寄る。

「たぶん、これをこのまま放置していたら取り返しのつかないことになるよ。聞いた話によると今ギュミル諸島周辺がごたついているらしい。それにはこの手紙の連中が関わっている可能性がある」

 アルシェは汚らわしいものを見るかのような眼差しで連判状を一瞥する。
 今は小さな火種でも、やがては世界を巻き込む災禍になりかねない。

「そうなってからじゃ遅いんだ。パスマ、君にも守りたい人の一人や二人いるだろう」

 影である自分にそんな相手はいない。

 パスマはすぐにそう返そうとした。
 だがすでに脳裏には一人の女性の姿がちらついていた。

 古ぼけた揺り椅子に身を沈め、汚れた人形を抱きしめる女性。
 透明な眼差しを浮かべるどこか幼いあの人。

 パスマのそんな逡巡を見て取ったのか、アルシェは畳み掛けるように言った。

「君はその人をなんとしてでも守るべきだ。――僕のように、手遅れになっちゃいけない」

 そうなってからでは遅いんだよ、と養い親の後を継いだ大神官はどこか哀しげに微笑んだ。


 

 陣取っていた部屋の隅から離れるパスマにアルシェは問いかけた。

「もういくのかい?」

「自分言葉が伝わったことを確かめた。もうここには用はない」

 すげなく言い捨てる影を見てアルシェは肩をすくめる。

「本当は気になって仕方がないけれど、君とあの少年の関係は聞かないでおいてあげるよ」
「別に感謝はしないぞ」

 はっ、とアルシェは声を立てて笑った。ベッドから立ち上がりあと三歩という距離まで近付いた。

「感謝を述べるのは僕のほうだよ。僕の我が儘に付き合ってくれたんだから」

 そして軽く首を傾けてパスマを見る。

「礼代わりと言ってはなんだけど、僕がこの神殿にいる限り樹大神殿を災いの火種にはさせないと約束するよ。こっちのことは心配しなくていい」
「自分は心配などしていない」

 パスマは嫌そうに顔をしかめている。

「口先ひとつで樹大神殿の大神官までのしあがるような奴だ。多少の騒動など簡単にあしらえるだろう」
「はは、地方回りが長かったせいで顔だけはやたらと広くってね」
「そして自分もそれに乗せられた口だな」

 パスマは呆れたようにため息をついた。

 結局パスマはこれから海大神殿まで行く。
 もともと五大神殿を探るように命令は受けていたものの、結局最後までアルシェに利用された感は拭えない。

 食えない大神官は何やら考えるように首を動かし、おもむろにパスマへ言った。

「ねぇ、もし君が何らかの理由で居場所を失うことがあったら、その時は僕の所においで。君一人ぐらいだったら十分養ってあげられるから」
「なんだ、代わりに自分を雇うおうというのか」

 むっつりとした顔のパスマとは対照的に、アルシェはどこか面白がるような油断ならない笑みを浮かべていた。そして何食わぬ顔でしれっと言ってのける。

「知っているかい。大神官もね、結婚はできるんだよ」
「!?」

 パスマは反射的に息を吸い込み、むせ返る。

「思ったんだけどさ、君って着痩せする方だよね」
「きさっ……それ――、」

 パスマは苦しげに咳き込んだが、一方のアルシェは飄々とした仕種で肩をすくめた。

「最初に介抱した時にね。さすがに武装解除ぐらいさせて貰おうかとしたんだけど、ご婦人の身体をまさぐるのもどうかと思って」
「おい」
「あ、大丈夫。僕紳士だから」

 って言うか、それ以前に聖職者だし。ととぼけた顔でうそぶく。

「……パスマには、性別という概念はないぞ――、」

 なんだか疲れきった顔で吐き捨てたパスマにアルシェは「僕は持っているから問題ないよ」と、笑って答える。

 イルズィオーンの駒には性別という括りはない。それゆえ男と女というような意識は恐ろしく希薄だ。
 だからアルシェにそれを指摘されたからといって、本来なら何ということもないはずなのだが、どうしてだかパスマはごっそりと体力が奪われた気がした。

「それだけ僕は君に感謝しているということだよ。それに今回の件に君を巻き込んだのは僕だからね、その責任は取らせて欲しい。あぁ、別にすぐに返事はしなくていいよ。今はまだ記憶の片隅にでも留めて置いてくれればそれでいいから」

 どこかおどけた調子だけれど、その声には誠実さが滲み出ていた。
 右手でパスマの手を捧げ持ったアルシェは残った手で胸を飾る樹神殿の紋章に触れる。そして恭しく頭をたれた。

「樹大神殿の大神官から祝福を貴方に。貴方の許に常にユークレース神のご加護がありますように」

 そしてちらりと視線を上げたアルシェは笑って言った。

「困ったことがあったらいつでも頼っておいで。僕は君の味方だから」

 影である自分にそんなもの必要ない。
 パスマはそう思ったが、しかしそれを断る言葉が口に上ることはなかった。

 名も無き影ははただ小さく、是と呟いた。


 

  ※ ※ ※


 

 風に潮の香りが混じっていた。
 樹大神殿からひたすら西へ向かった先。海沿いの港町メルカトールはヴィリディスの街に劣らぬ活気に満ちていた。

「号外だよ、号外〜。南の大陸ギュミル諸島で起きた不可解な事件っ」

 新聞の束を抱えた子供が威勢よく声を張り上げる。
 誰も彼も勢いがあって、うかうかしていると辺りの雰囲気に飲まれてしまいそうだ。

 アウストリ大陸の西海岸は世界の貿易の中心地だ。言ってみれば商人の街である。
 実際ここの商業組合は東大陸の国家はもちろん、北の大陸の八大王家すら無下に扱えないほど勢力が強い。

 途切れることの無い街の喧騒を前に、ジェムは言葉も無く立ち尽くすしかなかった。
 まったく行く先々見事な街ばかりで、本当に自分は田舎者だったのだなぁと感じるばかりである。同様に賑やかだったヴィリディスの街のことを思い返してジェムはふぅとため息をついた。


 

 樹大神殿の大神官がジェムに伝えたのは、五年前、そしてつい先日も少年を苦しめたあの影からのメッセージだった。

『今のところは見逃しておく。だがその身に相応しからぬ行いを為した時は、相応の報いが降りかかることを覚悟せよ』

 それを聞いた瞬間、ジェムは開いた口が塞がらなかった。
 その内容もさることながら、どうして大神官がそんな伝言を請け負ったのかがさっぱり分からない。
 ジェムは唖然とした顔でアルシェを仰ぎ見たが、彼はただ『貴方もなかなか大変な人とお知り合いですね』と、苦笑して肩をすくめるばかりだった。

 いまいち訳が分からないものの、要するに自分は巡礼使節として旅を許されたということなのだろう。
 自分の生い立ちがもう誰の迷惑になることもないとはっきりと分かり、ジェムはなんともほっとせずにはいられなかった。


 

「しかしどうしてわざわざ港なんだよ」

 ふと隣を見ると口元を引きつらせたバッツが、まるで親の敵でも見るかのような眼差しで港を睨みつけていた。
 まるで毛を逆立てた猫のような砂漠の少年を、ゼーヴルムは呆れた顔で見下ろす。

「別にいいだろうが。どの大陸に行くにしても必ず船には乗らなければならないのだからな」
「全然良くないっ。ジェム、シエロ! お前らだってノルズリ大陸では陸路がいいって言っていただろうっ」
「でもあの時は……、いきなりノルズリ大陸を離れるだけの心構えができてなかっただけですから」

 実家からの刺客が来るとも分かっていたし。と、いっそ縋るような勢いになってきたバッツを、ジェムは申し訳なく思いながらもあっさりと突き放す。シエロもしれっとした顔で肩をすくめた。

「同じく。どこにいるのか分からなかった東の大陸の巡礼者に、追いつくだけの猶予を持たせてあげようかと思ってね」
「え、シエロさんってただ面白がっていただけじゃなかったんですか」
「……うわ。ジェム、今の恐ろしくキツイし」

 悪気ないジェムの痛烈な一言に、がっくりと肩を落としたシエロがその場に座り込んだ。

「ったく、なんだよ。おまえらそろって裏切りやがってっ」
「貴方こそなに女々しいことを言っているのよ」

 悔しげに喚き立てるバッツに、冷たくも愛らしい声が鋭く突き刺さった。フィオリはつんと顎を上げてバッツを見下ろす。

「その年になってまだ船が怖いとか言っているの? まったくしょうがないくらいお子様なんだから」
「な、なんだとっ」

 顔を真っ赤にしたバッツが呪い殺しそうな眼差しでフィオリを睨みつける。

「おれはっ、お前を仲間だなんて認めていないぞ!」
「お生憎様、貴方に認めて頂かなくてもあたしは守り手のオババ様にも大神官様にも認められた立派な巡礼者ですぅ」

 喧々囂々と喚き合う二人を見て、どうにか気を取り直したシエロがやれやれとため息をついた。

「本当に賑やかなだよなぁ」

 賑やかとかそういう次元の問題じゃないとジェムは毎度の事ながら思うのだが、シエロはやっぱりただ面白がるばかりだし、ゼーヴルムもまたそ知らぬ顔だ。

 まったくどうして毎回この調子なのだろう。
 多少人が増えたとしてもやっぱり変わらぬこの騒ぎに、ジェムはがっくりと肩を落とす。なんだか段々泣きたくなってきてしまうではないか。
 しかしすっかり困り果てたジェムの前に、このたびは何と救いの手が現れた。

「ほら、君たち。仲がいいのは結構だけどじゃれ合うのもそれくらいにしなさい」
「だ、誰が仲いいって!?」

 賑やかに言い争っていた二人の少年少女はきっと無精ひげの闇医者を睨みつける。

「そう言われたくなければ少し離れているんだね」

 揶揄するように笑うスティグマに、バッツとフィオリはしぶしぶと距離をとった。
 まだ納得はしていないようだけれども、ああ言われてしまったらさすがに喧嘩を中断せざるをえない。
 そんな風に何でもない顔で仲裁を果たてしまったスティグマを、ジェムは尊敬の眼差しで仰ぎ見た。

「ぼく、スティグマさんがいて本当に良かったです……」
「ど、どうしたんだ、ジェム君」

 頼れる人がいるというのはなんて幸せなことだろうと、拝むように手を合わせてくるジェムにスティグマは不思議そうに首を傾げた。

「とりあえずスズリ大陸に行くのなら買出しはしておかないとね」

 近い神殿から順番に回るならば次は火大神殿になる。火大神殿のあるスズリ大陸は砂漠が多くを占めるなど環境が厳しい場所なので事前の準備はしっかりしておく必要があるだろう。

「幸いなことにここは手に入らないものは何もないといわれる西の貿易港だ。それぞれ買いたいものもあるだろうし、しばらく自由行動にでもしようか」
「本当? やったぁ!」

 スティグマの提案に、シエロがまるで子供のように手を叩いて喜ぶ。

「三つ時の鐘が鳴る頃にここに集合しよう」

 買出しの割り当てを決め、それぞれの目的地に向かう中、しかしゼーヴルムだけは無言でその場に立ち尽くしていた。
 その様子が何だか気になって、ジェムはゼーヴルムにそっと近付く。

「あの、どうしたんですか」
「……いや、なんでもない」

 彼は小さく首を振ると、他の面々と同じように人ごみの中に紛れ込んでしまった。

(海が、懐かしかったのかな……)

 ゼーヴルムが向けていた視線の先を辿ると、そこにはいくつもの船が浮かぶ青い港が見える。  

 ゼーヴルムの故郷はギュミル諸島。

 海を見て故郷を思い出していたのだろうかと考え、ジェムもまた買出しへと走った。