第三章 Bパスマ 〜真実〜 〈2〉

 


「そう言えばここ何年も、あの人とは話をしていなかったな」

 アルシェは苦笑いでもするようにふっと息を吐く。

 同じ神殿に務めているとは言え、その時以来彼が大神官と関わることはほとんど無かった。
 樹大神殿という組織は内部が細分化しているため職務によってはほとんど会わずにすむ事ができた。
 もっともそれも、会わないようにしようと留意していればこその話ではあるが。

「恩もある。傑物だという認識もある。ただ、僕とはそりが合わなかったのさ」

 痛みに耐えるかのように顔を引きつらせ、アルシェは微笑む。
 パスマはそんな彼を見ながら静かに訊ねた。

「では、なぜ貴様は今になって暗躍をする」
「たぶんそれは……、あの人の遺志を継ぐためかな」

 アルシェはためらいがちに口を割る。そしてふっと微笑みを浮かべパスマを見た。

「君はここ、アウストリ大陸をどう認識しているかい」
「――樹神を信仰しており、広大な森林と世界最大規模の穀倉地帯を持つ豊かな大陸」

 それは欠片も主観を交えない、まるで模範解答のような型どおりの返答であったがアルシェは満足げにうなずいた。

「そのとおり。緑豊かな美しい土地、それが東の大陸の評価さ。しかしそうあることを望み、事実それを叶え続けていたのが、何を隠そうこの樹大神殿の大神官さまだったのさ」


 

 森林がその大部分を占めるアウストリ大陸だが、それはただ安穏と存在し続けていたわけではない。森はいつだって存続の危機に晒されていた。
 アウストリ大陸の木々は木材とすれば非常に莫大な財産になるし、木々を伐採しつくした後に残るのも田畑としての利用価値が高い、十分な収穫量を約束された大地だ。
 だから自国の生産量では需要を賄いきれないノルズリ大陸の国々は、かつて競うようにしてこの大陸に押し寄せたのだ。

 しかしエヴァグリーン大神官は人々の欲望のまま森が切り開かれることを良しとしなかった。
 表からも裏からも様々な手段を講じ、できる限り森がそのままの姿で残るように努めたのだ。
 そのために樹大神殿は各国との間に軋轢を残す結果となったが、それでも彼は自らの方針を貫き通した。

 もし彼が森を守る形で働きかけなければ、現在のアウストリ大陸はここまで緑豊かな土地ではなかっただろうという意見さえある。それが結果として、大神官の名声をさらに高めることになったのだ。


 

「もっともね。はっきり言って、やっぱり僕には理解できなかったさ。なぜ彼があそこまでこの大陸の森に執着するのかは。だけど死んだ途端生前の努力がすべて無駄になるなんて、さすがにちょっと哀れじゃないかい」
「哀れ?」
「そう。あるいは滑稽」

 アルシェは馬鹿にしたように鼻を鳴らすが、その目は言いようの無い静けさに満ちていた。

「大神官が死んだ今、この樹大神殿でもっとも幅を利かせている連中は彼とは真っ向から異なる意見を持っている。あいつらはこの大陸の森を北の大国に売り払おうというのさ。そしてそれに対して何の危機感も抱いていない。それどころかこう言うのさ。自然のうちに形成されたものならば、自分たちが搾取してもいつかまた元通りになるさ、とね」

 馬鹿らしい、と彼は舌打ちをする。

「一度失われたものは、どうあがいたって二度と同じかたちには返らない。それは人であれモノであれ同じことなのに」
「だがその方が貴様にとっては都合がいいのではないか」
「……どういう意味さ」
「貴様は故大神官を好いてはいなかった。ならば大神官が大事にしていたものが心無い輩に蹂躙されることは、貴様にとって歓迎すべきことであって阻む理由は存在しないのではないか」

 それはパスマにとって紛れもない本心だった。
 アルシェの考えはまったく理解の範疇外にあった。
 邪魔な人間は排除し、憎らしい相手は苦しめ、自らを傷つけた者に対しては復讐する。
 それがパスマの認識していた人間と言う生き物だ。
 だが彼は好いてもいない、むしろ己を疎むような真似をした相手の願いを叶えようとする。
 それはけして理解できない考えだった。

「確かに、そんな風に考えないことも無かったけどね」

 アルシェはふっと苦笑する。

「ただ残念なことにそれを容認してしまうには、僕はあの連中が嫌いでね。あいつらの思うがままに事を進めさせてしまうのは少々癪に障るのさ」
「そんなものか」
「そんなものだよ、意外にね。それにあの人には僕以外に近しい親類縁者はいなかったし、派閥のようなものを作るのにも関心のない人だったから、あの人の考えを継ぐ者はもう僕しかいないのさ」

 敬愛の念を抱く者、取り巻きの面々は多くても、彼が死んだ時その信念を引き継ごうとする者はいなかった。広く愛され、様々な方面から多大な信頼を集めていた大神官であったが、それでも彼には真の理解者たる人間は一人もいなかったのだ。
 もっともそれは養子として誰よりもそばにいたアルシェからしてそうなのだから、他人は押してしるべしだろうと彼は考える。

「それに考えてもご覧よ。自分がけして傍に近寄らせなかった人間がその遺志を継ぐのは、一種の復讐として成立するんじゃないのかな」
「貴様の今の行動は大神官の望むところではなかっただろうから、あえてそれをすることで意趣返しをしようと?」
「そう。ささやかな嫌がらせさ」

 アルシェはふっと笑みを浮かべるが、そこには欠片も喜びと言えるものは無かった。
 なぜ好んでもいないことをわざわざやろうとするのか。やはりそのことはパスマには推し量ることはできなかったが、とりあえずその行動理念だけは理解できた。

「……わかった」

 重々しくうなずくその様子に、アルシェは肩をすくませる。

「そう? やっと納得してくれたか。じゃあ、もう一度あいつ等の所へ行ってくれるね」
「ああ、いいだろう。だが、貴様が本当にこの神殿で最大の派閥の行動を阻もうというのなら、弱みを探るだけではいささか弱いのではないか」

 いくら弱みを握ろうとも、このままでは彼らが次の大神官になることは止められない。そうなれば彼らを止めるどころか逆に口封じとして謀殺されかねない。

 だがそれを聞くと途端、アルシェはにやりとほくそ笑んだ。
 人を食ったようなそれは、初めてパスマと顔を合わせた時に見せた油断ならない笑みである。

「なぁに、そっちはそっちでちゃんと手は打ってあるから大丈夫さ」
「……要するに本命はそちらで、自分を使ったこの行動は単なる保険に過ぎないということか」
「いや、保険は保険でまた別にある。君に頼んだことは何と言うか、ちょっとしたおまけみたいなものかな」
「…………」

 ようするに実際にはアルシェには敵対者の弱みを握る必要はなく、パスマを拾い利用したことも彼にとっては単なる手慰みに過ぎないということらしい。

 恐ろしいくらいの念の入れようだ。まったくとんでもない神官もいたものである。
 深々とため息をついたパスマを見てアルシェは困ったように眉を下げた。

「もしかして気を悪くしたかい?」

 言っていることはしおらしいが、その実まったく悪びれていない事をパスマはもう知っている。だからパスマは首を振った。

「いいや。癪ではあるが契約は契約だ。貴様の思うとおり動いてやる。だが最後にもう一つだけ聞かせてもらおう」

 ひょこっと片眉を上げて、なんだいまだ聞き足りないのかい。とアルシェは笑う。

「君も案外詮索好きだな。それともこれが密偵である君の知りたかった事なの? まあ、いいさ。何でも答えてあげるよ。言ってごらん」
「貴様は本当に大神官を嫌っていたのか?」

 アルシェはふいに表情を消した。

「哀れんで見せるのも復讐と言ってみせるのも、自分には後付けの理由にしか聞こえない。貴様は単に大神官を好きだったのではないのか。いや、むしろ今でも好いているのではないか」

 釈然としないところが多過ぎてパスマの理解の範疇外にあったアルシェだが、こう考えれば辻褄が合った。
 自分を対立者の所に遣わしたのだって、運が良ければ暗殺の証拠を掴めるかと思ったからだろう。彼が所々で漏らした大神官への嫌悪も好意の裏返しに過ぎないのならば、彼の行動にも納得がいく。

 だがそうすると今度はなぜそんな意味も無い嘘をアルシェが自分につき続けたのか、それがパスマには分からなかった。

 アルシェは表情の消えた顔でぎゅっと唇を噛んでいた。

「――どうして君は、事の深読みは苦手なのに人の痛いところばかりついてくるかなぁ」

 ふいに彼は息をつき、がっくりと肩を落とす。それから睨みつけるようにパスマを見上げた。

「僕が嫌いだという事にしたいんだからそれでいいじゃないか」
「自分は人間の心の機微と言うものが理解できない。どうして己の心に嘘をつきたがるんだ」

 アルシェはもう一度深々とため息をつくと眼鏡をはずす。それからおもむろにいく筋かの白髪が混じる黄みの強い茶髪をかき上げた。そうするとその顔が存外に幼さを残すものであることが窺えた。

「……分かった。何でも答えるといったのは僕だからね。教えてあげるよ。だけどどうして自分の気持ちをここまで明け透けに言わなきゃいけないんだか」

 納得がいかないと言わんばかりに彼はため息を繰り返していたが、ぽつりとつぶやいた。

「僕だって、けして嫌いたい訳じゃなかったよ。拾われ、育てられ、愛されてきたんだ。七年間も除け者にされた事には確かに腹は立ったけど、それでも彼を敬愛する気持ちはなくならなかった。だけど幼い頃みたいに素直に懐くには僕は大人で、そしてあの人は訳が判らなすぎたんだ」

 人は得体の知れないものを忌避する生き物だ。
 腹の中で何を考えているか分からない相手を無邪気に信じるには、アルシェは知恵を付け過ぎていた。そして盲目的な崇拝を捧げるには賢明過ぎた。

 せめてあの人が一言でも弁解してくれたなら、それがどんなに理に適わないものでもアルシェは信じただろう。だが彼は結局言い訳一つしなかった。だからアルシェはあの人を避け続けるしかなかったのだ。

「信じることができないなら愛する資格だってない。じゃあ湧き上がるこの気持ちはいったいどうする? そんなの、憎しみと称する以外ないじゃないか……」

 アルシェはふうとため息をついた。

「だけどあの人が死んだ今となってはそんな意地を張っていても仕方ない。これを逃せばもう機会はないだろうから、最後くらい親孝行の真似事をしてみたくなったのさ」

 彼はおどけた口調でパスマを窺いみる。

「そう言えば、試しに聞いてみようか。君には大神官が何を考えていたか、分かるかい?」
「貴様は本当に大神官の考えがわからなかったのか」

 冗談めかして言った台詞だったが、逆にパスマは不思議そうにそう訊ねた。アルシェはむっと顔をしかめる。

「おいおい。僕が十年以上かけて分からなかったことを、君には理解できるって言うのかい」
「すべて、お前のための行為だろう」

 アルシェは息を呑んだ。

 パスマは大神官じゃない。当の本人では死んでいるからこの考えが正しいかどうかは判らないが、それでも想像することはできた。
 むしろ複雑怪奇なアルシェの思考より、よほど分かりやすいと言えるだろう。

「貴様は自ら望んで神官の位についた。己の行く末を決められる者にもはや保護者の管理は必要ないだろう。たぶん貴様自身そのことを大神官に告げたのではないか」
「それは……、確かにそうだ」

 アルシェは遠い日の記憶を慎重に辿りながらうなずく。

 樹神殿の神官となるための試験を受け、それに合格した日アルシェは己の養い親に言った。
 これで自分は一人前だ。もう護ってくれなくても大丈夫だ、と。

 そのときの台詞はけして離別を告げるものではなく、ただ自分はもう貴方の役に立てる、肩を並べられる所まで来たのだと言う事を告げるそれでしかなかったのに。

 パスマは問いかけるように小さく首をかしげる。

「人間が得体の知れないものを怖がるのならば、己の素性が明らかでないこともまた恐ろしいことではないのか。大神官の保護下を離れるということは、その帰属を外れるということだ」

 自分がイルズィオーンのパスマ以外のものになった時のことを、パスマはまったく想像できない。自分がそこに所属している駒であることを認識しているから、何の疑問を持たずに地に足をつけ立っていられるのだ。

 だがアルシェは己がどこの何者なのかを知らない。

 もし頼りにできる者もいなく一人で生きていかなければならないのならば、なおさら拠り所となるもは必要だろう。
 そんな時自分の産土が分かっていれば、多少なりとも心強いのではないか。

「大神官は貴様が自分の出自を探れるように、あえて地方ばかりを回らせたのではないか」

 高位聖職者付きの神官となれば滅多なことでは中央を離れるわけにも行かなくなる。
 またアルシェ自身の位が上がっても同じだ。一つの神殿に所属するようになればなおさら己の素性を探ることは難しくなる。

「森を守ることだってそうだろう。貴様の最も古い記憶である森。そこが失われることを大神官は避けたかったのではないか」
「……」

 アルシェは無言で俯いた。そして身体が震えるのを止めようとするかのように強く唇を噛みしめる。けれどもそれはけして止まらなかった。

「――それでも、あの人が他人の心を理解できない自分勝手な人間であることには違いないさ」

 やがて無理やり絞り出しているかのような苦しげな声でアルシェは呟くが、それにパスマはあっさりとうなずいてみせる。

「そう考えるのもいいだろう。だいたいこれは自分の推測にしか過ぎない。大神官はすでにこの世にいない。その者が何を考えていたか、知る術は永遠に失われたのだからな」
「……もういい。さっさと行け」

 アルシェはパスマを追い払うように雑に手を振る。反論を許さないその声にパスマは素直に従った。
 扉が閉まる寸前、小さな呟きが聞こえる。

「だから自分の部屋には鍵くらい付けろって、言ったのにさ……」

 もはや意味を成さない独白を振り切るように、パスマは風のように建物を後にした。