第四章 1、「太陽と月と海」(1)

 


『――――三柱神が樹神を生み出した後も    .
世界は常に不安定で落ち着かなかった。
“絶対なるもの”が去った際に出来た裂け目が一匹の獣となって
世界中を暴れまわっていたからだ。

海は時に煮えたぎり、
大地は時に凍え、
空は絶えず明滅を繰り返す。

また生まれたばかりの樹神にとっては
その身を損なう大問題だった。

双生神はこれを憂い、一計を案じた。
地神が獣を誘き寄せ、
空神がその身をふたつに裂いたのである。

二つに分かたれた獣は空に上って姿を変じ、
銀の獣と金の獣になった。

やがてそれは月と太陽と呼ばれるようになり、
昼と夜が生まれた世界は、
それ以降安定を取り戻したのである。』 


  
 

 


 海の彼方から吹いてくる風。
 潮気を帯びた大気が傍らを通り過ぎ、白い帆を目いっぱい膨らませる。
 耳に届くのは勇ましい海の男たちの掛け声と、途切れることない波の歌だ。

 定期船マーテル号。
 東の大陸の貿易港メルカトールから南西の諸島ギュミルへ向かう長距離用の帆船である。

 さんさんと陽光が降り注ぎ、船員たちが忙しそうに仕事に駆け回るその甲板の上。誰一人気に掛ける者はいなかったけれど、そこで一人の少年がマスト寄り掛かって読書に励んでいた。

 強い日差しもさることながら、外海に出て揺れる船の上はあまり読書に適している環境とは言えない。それでもひと月近くも船の上の住人となっているうちに、今では少年もそんな揺れはほとんど気にならなくなっていた。

 「やっほう、ジェム。ご機嫌いかが?」

  陽気な声が耳をくすぐり、ふいに手元に影が差す。なにやら難しげな顔で紙面を睨んでいた少年は、その声につられ驚いたように顔を上げた。

「シエロさん」
「なにやらだいぶご執心の様子だね」

 背後から覗き込むように彼の傍らに立っていたのは、巡礼の仲間であるヴェストリ(西の)大陸の代表者シエロだった。
 彼は眩しい陽光を照り返す金髪をさらりとかきあげると、にっこりと無駄に魅力溢れる笑みを少年に向けた。

「今ちょっと船員さんと話してきたんだけどね、聞いたところによるとあと四日ほどでギュミル諸島に到着するらしいよ」
「そうですか。ようやくですね」

 その笑みにつられてジェムもふわりと笑みを浮かべる。そうして幾分ほっとした口調で「ここまで本当に長かかったですね」と、しみじみ呟いた。

 それもそのはず。この船に乗り込む前、西の貿易港・メルカトールから出航しようとしていた彼らの前にはやはりというか当然というか、性懲りもなく障害が立ちはだかっていたのである。
 悲しい事に不慮の出来事にはすっかり慣れっこになってしまっていた彼らではあるけれど、こんどのことには開いた口がすっかり塞がらなかった。

 港にはこれでもかと沿岸を埋め尽くさんばかりに船が並んでいる。それにも関わらず、彼らが望むギュミル諸島行きの船だけは、一隻としてありはしなかったのだ。
 そんなはずは無いと思わず船員に詰め寄る巡礼者たちだったが、もちろんそれには正当な理由があった。

「最近は南の海に船を襲う海賊どもが横行しておってな、一隻でのこのこ船出しようものならやつらのいい餌食でしかねぇんだわ」

 事情を尋ねた老船乗りは困ったようにそう答えた。

 現在ギュミル諸島周辺の海域は海賊たちの巣になっている。
 もちろんギュミル諸島の巡視船がそれぞれ定期的に取り締まってはいるものの、すべての海賊行為を防ぐにはいたらない。海賊船の被害を最小限に抑えるためには、船団を組んで数で対抗するしかないのである。

 ようするに彼らにとっては不運にも、先の船団がつい数刻前に出たばかりであるため、次の出航まで半月近く待つ必要があったのだ。(それを考えれば、思い立ってすぐさまギュミル諸島へ向かう船にありつけたゼーヴルムは非常に運が良かったと言えるだろう。)

 そんなこともあって、実際に出航できるまでに、ジェムたちはかなりの日数を浪費してしまっていたのだった。

 

「ぼく、まさかこんなにかかるとは思ってもみなかったです」
「だけど出航してからはだいぶ順調だったじゃないか。今の季節は飛空大陸が東にあるからね」

 思わずため息をこぼしたジェムは、シエロの言葉につられてふと視線を風上に向けた。

 空には一年で世界を一回りする飛空大陸が存在する。それは空神・セレスティンの住処であり、風は常にその大陸の方向から吹くと言われていた。
 もちろん実際には空に浮かぶ大陸などあるはずもないから、それは単なる子供向けのおとぎ話でしかない。けれど季節風を称する時に今でも使われる『セレスティンの吐息』と言う呼び方は、その伝説を踏まえてのものだった。

「夏を過ぎると、西に向かうにはちょうど向かい風になっちゃうからね。今は季節がいいんだよ」

 シエロは潮風に顔を向けて気持ち良さそうに目を細める。たかがそれだけの仕種なのに、なぜかそこにはどきりとするくらいの艶があった。

「そういえばジェム、さっきから熱心に何を見ているんだい」

 シエロがふいにジェムの手元を覗き込んだ。ころころと話題が変わるのはシエロの癖である。
 ジェムは僅かに苦笑して、膝に乗せていた分厚い本をシエロに差し出した。

「創世記――世界神話です」
「なるほど」

 にやりと笑ってそれを受け取ったシエロが、ぱらぱらと手慰みに頁をめくっていく。

「神話に疎いジェムも実際に神さまをその目で見て、ようやく興味を抱いたって訳か」
「はい、そうです。……だいぶ今更なんですけどね」

 図星を突かれたジェムはほんのりと頬を赤らめた。
 むしろ五大神殿から任命された巡礼使節としては遅すぎると言っても良いくらいではあるが、もちろんそれもきっかけがあってこそのことだ。

 
 アウストリ大陸で行った樹大神殿への巡礼。

 その前にひょんなことから立ち寄った世界最古の森で、ジェムたちは本物の神、長き眠りにつく樹神・ユークレースに出遭ったのだった。
 謎はついに明かされること無く、そのまま森を後にせざるを得なかった巡礼者たちではあったが、そのことはジェムに並々ならぬ衝撃を与えた。

 この世界について、そして神々について知りたい――。

 そう思ったジェムはまず手始めに、創世神話の書かれた本を読むことにしたのだった。

 
「なるほど。さすがは優等生のジェム君だ。その心がけは大変立派だね。だけどこれって、……アウストリ大陸の文字だよね」

 ぱらぱらと字面を追っていたシエロは不思議そうに首を傾げる。見るからに明らかな指摘を受けたジェムは、がっくりと肩を落とし眉間に皺を寄せた。

「……そうなんです」

 ジェムの出身地である北の大陸とこれまで滞在していた東の大陸は、日常で交わされる言葉こそほとんど同じだと言っていいけれど、書物などに使われる文字に関してはその限りではない。
 ジェムも一応は教養として北の学院で東大陸の文字を習いはしたが、それもほんの触り程度だ。
 それなのにうっかりそのことを失念して出航前に書籍を購入してしまったジェムは、船の上でようやく気付き慣れない文字に四苦八苦する羽目になったのだった。

「おかげで全然読み進められなくって」

 ジェムはとほほとなさけないため息を漏らす。
 実際、この長い船旅の期間を丸々読書に費やしたのにも関わらず、まだ四半分も進んでいない。

「いま大体どこら辺を読んでいるの?」

 シエロから書物を返してもらいながらジェムは答えた。

「やっと四章に入った所です」
「四章ね。『海は時に煮えたぎり、大地は時に凍え、空は絶えず明滅を繰り返す』、か――懐かしいね、月と太陽のくだりだ」

 さらっと返された言葉にジェムは思わず目を丸くした。

「うん? どうしたの」

 シエロは不思議そうな顔をする。

「シ、シエロさんって、まさか創世記を暗記しているんですか!?」

 驚いたようにぱくぱくと口を開けるジェムに、シエロは苦笑しておどけたように肩をすくめた。

「とんでもない。さすがに創世記を丸暗記するなんて、そんな神業的なことはできないよ。でもまぁ、寝る前に神話を読んでやるのが俺の役目だったからね。所々は覚えてるのさ」

 さらりと返された答えにジェムは思わず問い返した。

「えっ、読むっていったい誰に――」
「さあて。そうそう、船員さんが見張り台に登らせてくれるって言ってたんだよな。行ってこようっと」

 シエロはにやりと笑うとジェムの頭をぽんぽんと叩き、ふらりその場を立ち去っていってしまった。


 

「……シエロさんって、相変わらず謎な人だなぁ」

 すでにジェムたちが巡礼を始めてから数ヶ月が経っている。
 巡礼の仲間についてもだいたいその背景が見え始めてきたころだけれど、シエロに限ってはいまだ謎ばかりだ。

 もちろんメルカトールでの猫騒動に代表されるよう、彼も少しずつではあるがジェムたちにも弱みを見せてくれるようになってはいるだろう。
 しかしあのにこやかな笑顔の影で、彼が自分たちに対して常に一線を引いていると感じるのは果たして自分の考えすぎだろうか。

 その飄々とした後姿を見送ったジェムは、なんとも複雑な思いでため息をついたのだった。