『――――三柱神が樹神を生み出した後も .
定期船マーテル号。
さんさんと陽光が降り注ぎ、船員たちが忙しそうに仕事に駆け回るその甲板の上。誰一人気に掛ける者はいなかったけれど、そこで一人の少年がマスト寄り掛かって読書に励んでいた。 強い日差しもさることながら、外海に出て揺れる船の上はあまり読書に適している環境とは言えない。それでもひと月近くも船の上の住人となっているうちに、今では少年もそんな揺れはほとんど気にならなくなっていた。 「やっほう、ジェム。ご機嫌いかが?」 陽気な声が耳をくすぐり、ふいに手元に影が差す。なにやら難しげな顔で紙面を睨んでいた少年は、その声につられ驚いたように顔を上げた。 「シエロさん」
背後から覗き込むように彼の傍らに立っていたのは、巡礼の仲間であるヴェストリ(西の)大陸の代表者シエロだった。
「今ちょっと船員さんと話してきたんだけどね、聞いたところによるとあと四日ほどでギュミル諸島に到着するらしいよ」
その笑みにつられてジェムもふわりと笑みを浮かべる。そうして幾分ほっとした口調で「ここまで本当に長かかったですね」と、しみじみ呟いた。 それもそのはず。この船に乗り込む前、西の貿易港・メルカトールから出航しようとしていた彼らの前にはやはりというか当然というか、性懲りもなく障害が立ちはだかっていたのである。
港にはこれでもかと沿岸を埋め尽くさんばかりに船が並んでいる。それにも関わらず、彼らが望むギュミル諸島行きの船だけは、一隻としてありはしなかったのだ。
「最近は南の海に船を襲う海賊どもが横行しておってな、一隻でのこのこ船出しようものならやつらのいい餌食でしかねぇんだわ」 事情を尋ねた老船乗りは困ったようにそう答えた。 現在ギュミル諸島周辺の海域は海賊たちの巣になっている。
ようするに彼らにとっては不運にも、先の船団がつい数刻前に出たばかりであるため、次の出航まで半月近く待つ必要があったのだ。(それを考えれば、思い立ってすぐさまギュミル諸島へ向かう船にありつけたゼーヴルムは非常に運が良かったと言えるだろう。) そんなこともあって、実際に出航できるまでに、ジェムたちはかなりの日数を浪費してしまっていたのだった。
「ぼく、まさかこんなにかかるとは思ってもみなかったです」
思わずため息をこぼしたジェムは、シエロの言葉につられてふと視線を風上に向けた。 空には一年で世界を一回りする飛空大陸が存在する。それは空神・セレスティンの住処であり、風は常にその大陸の方向から吹くと言われていた。
「夏を過ぎると、西に向かうにはちょうど向かい風になっちゃうからね。今は季節がいいんだよ」 シエロは潮風に顔を向けて気持ち良さそうに目を細める。たかがそれだけの仕種なのに、なぜかそこにはどきりとするくらいの艶があった。 「そういえばジェム、さっきから熱心に何を見ているんだい」 シエロがふいにジェムの手元を覗き込んだ。ころころと話題が変わるのはシエロの癖である。
「創世記――世界神話です」
にやりと笑ってそれを受け取ったシエロが、ぱらぱらと手慰みに頁をめくっていく。 「神話に疎いジェムも実際に神さまをその目で見て、ようやく興味を抱いたって訳か」
図星を突かれたジェムはほんのりと頬を赤らめた。
その前にひょんなことから立ち寄った世界最古の森で、ジェムたちは本物の神、長き眠りにつく樹神・ユークレースに出遭ったのだった。
この世界について、そして神々について知りたい――。 そう思ったジェムはまず手始めに、創世神話の書かれた本を読むことにしたのだった。
ぱらぱらと字面を追っていたシエロは不思議そうに首を傾げる。見るからに明らかな指摘を受けたジェムは、がっくりと肩を落とし眉間に皺を寄せた。 「……そうなんです」 ジェムの出身地である北の大陸とこれまで滞在していた東の大陸は、日常で交わされる言葉こそほとんど同じだと言っていいけれど、書物などに使われる文字に関してはその限りではない。
「おかげで全然読み進められなくって」 ジェムはとほほとなさけないため息を漏らす。
「いま大体どこら辺を読んでいるの?」 シエロから書物を返してもらいながらジェムは答えた。 「やっと四章に入った所です」
さらっと返された言葉にジェムは思わず目を丸くした。 「うん? どうしたの」 シエロは不思議そうな顔をする。 「シ、シエロさんって、まさか創世記を暗記しているんですか!?」 驚いたようにぱくぱくと口を開けるジェムに、シエロは苦笑しておどけたように肩をすくめた。 「とんでもない。さすがに創世記を丸暗記するなんて、そんな神業的なことはできないよ。でもまぁ、寝る前に神話を読んでやるのが俺の役目だったからね。所々は覚えてるのさ」 さらりと返された答えにジェムは思わず問い返した。 「えっ、読むっていったい誰に――」
シエロはにやりと笑うとジェムの頭をぽんぽんと叩き、ふらりその場を立ち去っていってしまった。 「……シエロさんって、相変わらず謎な人だなぁ」 すでにジェムたちが巡礼を始めてから数ヶ月が経っている。
もちろんメルカトールでの猫騒動に代表されるよう、彼も少しずつではあるがジェムたちにも弱みを見せてくれるようになってはいるだろう。
その飄々とした後姿を見送ったジェムは、なんとも複雑な思いでため息をついたのだった。
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