第四章 プロローグ「漣は揺に」(2)

 


 ――ギュミル諸島には、いつの頃からか代々語り継がれるひとつの伝説がある。


 

 それは勇猛果敢たる戦士。
 海境(うなさか)の遥か、深き海の底。
 底つ根の国より現れ出たる海神の寵児。

 その者は何の前触れもなく現世に訪れ、
 地上でただ一人の主をさだめる。
 そして永久不変の忠誠を誓って、生涯その身を捧ぐ。

 時には鋭き刃となり主君のために敵を退け、
 主に害なす者が現れれば身を挺してそれを防ぐ。
 主君に選ばれた者はただ一人の例外なく、
 優れた治世者としてとして歴史に名を残すという。

 その者は一振りの剣にして、不屈の盾。
 絶対の守護者にして、無敵の英雄。


 

 ひとびとは誰よりも強く気高いその存在を、

 ――竜騎士と呼んだ。


 
 

   ※  ※  ※


 
 

 人とは違った見た目の所為で、なかなか周囲に馴染めなかった。
 生粋の海の民にはありえない色は、異邦人だったという片親に由来するものらしい。
 
 なぜ伝聞調なのかというと、その片親は自分が物心着く前にどこぞへ失踪した所為だ。
 
 理由は誰も知らない。
 だがふらりとこの島にやって来た人間がまたふらりと消えても、誰も不思議に思わなかったらしい。
 無責任だと非難することはあっても、ただそれだけだった。
 
 だから自分は母を直接には知らない。
 明らかに異国の血をひく自分を、しかし残された父は可愛がってくれた。
 下手をすると自分の血を引いているかどうかすら定かではない子供(これは島の人間が噂していたことだが)を、手元において養育することを決めた父はとてもできた人間であると思う。
 
 そんな尊敬する父の肩身を狭くしないように、自慢できる息子であろう。
 それが己の出生を知った時に自分が定めた決意だった。


 

   ※  ※  ※


 

 獣脂の蝋燭がすえた臭いを漂わせていた。

 船室はいつだって船底に溜まった汚水の所為で、胸の悪くなるような腐臭を纏っている。
 風の通りの悪い小さな窓しかない船の中ではさわやかな換気など夢のまた夢だ。

 航海に出て少し立てば、飲み水はすぐに腐りビスケットには蛆が湧く。
 小さな虫が蠢く堅パンを臭いチーズと一口のぶどう酒で飲み下すのが船の上でのあたりまえの食事風景だ。

 嵐が起これば逆巻く波に叩き落され、凪が起これば何十日もぴりぴりとした空気の中一陣の風を待ち続けなければならないこともある。

 そんな劣悪な環境の中に身を置くことを分かっていてなお、しかし男たちは海に出る。
 見たこともないような古の財宝と、異国からの高価な貿易品。
 それらを両腕いっぱいに抱えることができると知っているからだ。

 彼らは海賊。
 陽気で野蛮な、海の申し子たち。

 青き海原と、そこを渡る潮風。
 そんなものの中でのみ生きることを許された、自由の体現者。

 しかしそれらは本来、――なりたい者たちがなって然るべきものなのではないのだろうか。

「ジェム・リヴィングストーン」

 ジェムは顎をぐいっと掴まれて無理やり上を向かされた。その顔を覗き込むのはキラキラと光る海の色そのものだ。
 怯えて引き攣るその表情にまるで頓着することなく、彼はにやりとジェムに笑いかけた。それはまさに肉食獣のような獰猛で魅力に溢れる笑みだった。

「ようこそ、オレ様の船に」

 潮風でみがかれた微かに掠れる、しかしとても豊かな声が楽しそうにジェムに呼びかけた。

「今からお前もこの船の一員――海賊の仲間だ」

 ジェムは今にも泣きだしそうな顔で必死で否と相手を見つめ返すが、そんな無言の訴えはまったく伝わる様子はなかった。

 だから自分はそんなことこれっぽっちも望んじゃいないのに。

 そんな正当な要望でさえ、しかしいま自分の周囲にいる人間は誰一人として聞いてくれない。

(シエロさん、ゼーヴルムさん、バッツさんっ、どうか助けてくださいぃっっ)

 ジェムは心の中でどこに居るとも知れない仲間に必死で呼びかけるが、もちろんそれは気休めですらない。
 ほんの数日、あるいは数刻のうちに、少年の身柄は波間に漂う海鳥の羽よりも頼りないものになってしまったのである。

 
 そう。
 すべては少し前にさかのぼる――、