第四章 1、「太陽と月と海」(3)

 


 ジェムたち一行が与えられた船室はもともとが貨物室だったのか、五人が寝泊りするにはかなり手狭な部屋だった。
 もっとも言ってしまえば実はこれでも大分マシな方で、一般の船客はぎゅうぎゅうの大部屋で雑魚寝するのが普通である。だからこの部屋割りは巡礼使節という立場が役に立った非常に稀有な例と言えるだろう。

 ジェムは船室の扉をノックすると、おずおずと部屋を覗き込んだ。

「えっと、スティグマさん?」
「おや、ジェム君じゃないか。珍しいね、君がこんな時間から船室に戻ってくるなんて」

 椅子に座ってなにやら帳面に書き付けていたスティグマは、顔をあげるとにこやかにジェムを招き寄せた。

「ええ、まぁ……。シエロさん程じゃないですけどね」

 ジェムがそう軽口をもらすと、スティグマも顔を見合わせて思わず苦笑をこぼす。実はシエロは船に乗ってからこの方、まったくと言っていいほどこの船室に近付いてこないのだった。

 その理由はずばり――、『閉所恐怖症』。

 スティグマが言うには空の民はもともと閉ざされた空間をひどく嫌う種族らしい。それはジェムが直接シエロにわけを尋ねたときの、

「船室って天井低いんだよねぇ。その上狭くって薄暗くって、空気も澱んでいるしさぁ」

 と海を眺めつつ答えた彼の様子を見ても、改めて理解することができた。
 なにせ平然とした口調に反して、その顔は青ざめうっすらと冷や汗までかいている。こんなシエロは見ようと思ってもちょっと見られるものではない。

 確かにこれは確かに本気で無理そうだと納得できたので、ジェムはこの件に関しては放っておくことに決めた。なにしろこれで彼まで倒れるような羽目になったら目も当てられない。つまり、

「えっと、バッツさんの具合はどうですか」
「まぁ、相変わらずだね」

 ジェムの問い掛けにスティグマは困ったように肩をすくめる。ちらりと視線を向けた先では、狭い寝台に身を横たえたバッツがうんうんと辛そうに唸っていた。

 閉所恐怖症のシエロも問題だが、それよりも重症だったのがバッツの船酔いであった。

 元々バッツは船は嫌いだとずっと主張していた訳だけれど、それ以前にどうやら彼は船とは恐ろしく相性の悪い体質であるらしかった。出航してすぐに船酔いで倒れ、それ以来ずっと船室にこもりっぱなしなのである。

 おかげでその看病に追われるスティグマもフィオリもほとんど船室から出てこられず、これほど長い船旅にもかかわらずほとんど日焼けをしていなかった。もっとも反対に船室に近付かなかったはずのシエロも、なぜかまったく日焼けをしていなかったりするのだがそれはとりあえず蛇足である。

「バッツ君は精霊の愛し児という性質上、火霊が極端に少ない海の上ではだいぶ気力をそがれてしまうんだろうね」

 スティグマは複雑そうな顔でため息を漏らす。
 相手が船酔いでは、症状を改善することは出来ても治療してやることは不可能だ。医者としてはそれがなんとも歯痒いことなのだろう。

「ところでスティグマさんはいったい何をなさっているんですか」

 ジェムはふとスティグマの手元を覗き込んだ。実はジェムは先の甲板での青年の言葉が気になってスティグマに相談しに来たのだが、そちらも同じく気にかかる。

 彼が熱心に読み、なにやら書き付けしているものはアウストリ大陸で買ったあの号外だった。
 船の上では当然の事ながら新しい新聞を読むことはできない。それでもなにも同じ記事を繰り返し読むことは無いのではないかな、とジェムが不思議がっているとスティグマは苦笑して理由を答えた。

「いやぁ、なに。もう少しでギュミル諸島に着いてしまうからね。ゼーヴルム君がいなくなった理由について改めて考察してみようと思ったんだ」
「ゼーヴルムさん、ですか? ぼくは単純に一番大きく載っている皇子殿下の行方不明事件が理由なのかと思ってたんですけど」

 号外で一面を使って取りざたされているのは、ノート島の皇子殿下が船の上からいきなり消えてしまったという怪事件のことだ。ゼーヴルムがこの事件にどのような関わりがあるのかは分からないけれど、彼が姿を消したのはそれに原因があるとばかり思っていた。

「うん。この号はギュミル諸島で起こった事件が特集として組まれているから、ギュミル諸島に行ったのは正しいと思う。だけどほら、他にも密輸組織の取締りの記事だとか封印石の盗掘なんかについても書かれているからね、ゼーヴルム君がいったいどれに触発されたのかは分からないだろ」
「あ、そうか」
「それにゼーヴルム君が何を考えているのか、きちんと把握していないと先に船に乗った彼に追いつけないばかりか彼の行動を邪魔してしまうかもしれない。彼の手助けをしたいと考えるなら、なおさらちゃんと調べておかないといけないね」
「……はい。その通りです」

 行けばどうにかなる。
 そう思っていた自分の甘さにジェムは反省し、それと共にスティグマの手際のよさにいたく感服した。

「それで、何か分かりそうですか」

 ジェムは期待を込めて改めてスティグマに訊ねる。しかしスティグマは眉をひそめるとぱらぱらと帳面を捲りながらうぅむと唸った。

「さすがに情報源がこれだけでは、なんともね。ただ軍人だということはゼーヴルム君はギュミル諸島内でもダグ島の出身なんだろう。だから彼が気に掛けるとしたらノート島よりはダグ島のことに関してだと思うのだけれど」
「えっ、どうして軍人だとダグ島出身だと分かるんですか」

 ジェムはきょとんとして首を傾げる。スティグマは苦笑してジェムに説明した。

「君もギュミル諸島のノート島とダグ島が、元はひとつの国だったということは知っているよね」
「えっと、はい」

 ジェムは学院などで習った基礎的な世界史の知識を思い出しながらうなずいた。

 ギュミル諸島はノート島とダグ島という二つの大きな島と無数の小島から成り立っている。かつてはギュミル諸島全体がひとつの国となっていたのだけれど、ここ百年ほどの間にノート島、ダグ島で真っ二つに分かれてしまった。

「国が分かれたきっかけは軍部のクーデターだ。神殿を中心とする政権に軍が離反してダグ島をまるまる占拠した。そのためにギュミル諸島はノート島とダグ島の二つの国に分かれたんだ」

 ノート島は海大神殿を基盤とし、古くから続く大神官の血筋を治世者に据えた皇政。
 一方のダグ島は軍部が国を支配する軍政国家となった。

「ノート島はダグ島の独立をずっと認めなくってね、以降争いが絶えなかった。もっとも数年前に停戦協定が結ばれてからは、現在はそれもひとまず落ち着いたみたいだけど」
「そうなんですか……」

 ジェムはぽかんとした顔を慌てて引き締めた。平和な国に生まれ育ったせいで戦争や内乱などにはなかなか実感が湧かない。
 しかしその所為でフィオリの時には手酷い失敗をしてしまったことをジェムはまだしっかり覚えていた。

「そうした歴史的背景もあって、ノート島では国の戦闘集団のことを騎士団あるいは僧兵と呼ぶ。一方ダグ島では当然軍人と言ってるね」
「そっか。だから軍人のゼーヴルムさんはダグ島の出身なんですね」

 ジェムはうなずき、そして改めて反省した。
 やはりもっと自分は世界の情勢を知っておく必要があるだろう。世事に疎い事が原因で思わぬ所で色々な失態を犯す。
 今回も自分ひとりではダグ島に行くべきかノート島に行くべきか、それすらも判断できなかった。自分たちの乗っているこの船は、ノート島に停泊する。だからその後はダグ島まで向かうことがゼーヴルムの足跡をたどる一番の近道なのに。

「スティグマさんはとても物知りですね」
「昔、ギュミル諸島出の知り合いがいたからね」

 ジェムがそう賞賛すると、スティグマは困ったような顔で微かに肩をすくめた。それはただの謙遜のはずなのに、しかし何故だかジェムはどこか沈んだその表情がふいに気になった。その知り合いと何かあったのか。だからそんな哀しげな顔をしているのだろうか。

(フィオリさんなら、何か知っているかな……?)

 ジェムは自分よりもずっとこの医者と付き合いの長い少女のことを思い浮かべる。

「あれ。そういえば、フィオリさんはどこに行ったんですか?」

 ジェムはきょろきょろと狭い船室を見回す。スティグマと一緒にバッツの看病に当たっているはずのフィオリが、今はどこにも見当たらなかった。

「フィオリならちょっと風に当たってくると甲板に向かったのだけれど、何か用事でもあったのかい?」
「いえ、そういう訳では無いんですけど……」

 しかしそう答えながらもジェムは、先程甲板で会った青年の言葉がまたぞろ気になり始めていた。

 単に自分はからかわれただけで、別に気にすることは無いのかもしれない。何しろノルズリ人が嫌いだと堂々と言ってしまえるような相手だ。

 それでもなんだか嫌な予感を捨てきれず、ジェムが思い切ってこのことをスティグマに告げようとした、その時――、

「うわぁっ!?」
「うおっ」

 突然船が大きく傾いた。ジェムは叩きつけられるように壁にぶつかり、その場にへなへなと座り込む。これまで何度か海が荒れたことがあったけれど、こんなに唐突に船が傾くなどと言うことはなかった。それくらい不可解な揺れだった。

「な、なんだなんだ?」

 臥せっていたバッツも寝台から投げ出され、盛んに目をきょろきょろさせる。
 きょとんとする三人の耳に、頭上からわぁわぁと尋常では無い喧騒が聞こえてきた。

「もしかすると上で何かあったのか……?」

 天井に視線を向け、訝しげにスティグマが呟く。その呟きに触発され、ジェムの胸に言い知れぬ不安が湧き上がった。

「ぼく、ちょっと見てきます!」
「こら、待ちなさい、ジェム君っ」

 驚くスティグマが止める間もなく、ジェムは立ち上がり甲板へと駆け出す。青年の忠告はもはや脳裏から吹き飛んでいた。