ジェムたち一行が与えられた船室はもともとが貨物室だったのか、五人が寝泊りするにはかなり手狭な部屋だった。
ジェムは船室の扉をノックすると、おずおずと部屋を覗き込んだ。 「えっと、スティグマさん?」
椅子に座ってなにやら帳面に書き付けていたスティグマは、顔をあげるとにこやかにジェムを招き寄せた。 「ええ、まぁ……。シエロさん程じゃないですけどね」 ジェムがそう軽口をもらすと、スティグマも顔を見合わせて思わず苦笑をこぼす。実はシエロは船に乗ってからこの方、まったくと言っていいほどこの船室に近付いてこないのだった。 その理由はずばり――、『閉所恐怖症』。 スティグマが言うには空の民はもともと閉ざされた空間をひどく嫌う種族らしい。それはジェムが直接シエロにわけを尋ねたときの、 「船室って天井低いんだよねぇ。その上狭くって薄暗くって、空気も澱んでいるしさぁ」 と海を眺めつつ答えた彼の様子を見ても、改めて理解することができた。
確かにこれは確かに本気で無理そうだと納得できたので、ジェムはこの件に関しては放っておくことに決めた。なにしろこれで彼まで倒れるような羽目になったら目も当てられない。つまり、 「えっと、バッツさんの具合はどうですか」
ジェムの問い掛けにスティグマは困ったように肩をすくめる。ちらりと視線を向けた先では、狭い寝台に身を横たえたバッツがうんうんと辛そうに唸っていた。 閉所恐怖症のシエロも問題だが、それよりも重症だったのがバッツの船酔いであった。 元々バッツは船は嫌いだとずっと主張していた訳だけれど、それ以前にどうやら彼は船とは恐ろしく相性の悪い体質であるらしかった。出航してすぐに船酔いで倒れ、それ以来ずっと船室にこもりっぱなしなのである。 おかげでその看病に追われるスティグマもフィオリもほとんど船室から出てこられず、これほど長い船旅にもかかわらずほとんど日焼けをしていなかった。もっとも反対に船室に近付かなかったはずのシエロも、なぜかまったく日焼けをしていなかったりするのだがそれはとりあえず蛇足である。 「バッツ君は精霊の愛し児という性質上、火霊が極端に少ない海の上ではだいぶ気力をそがれてしまうんだろうね」 スティグマは複雑そうな顔でため息を漏らす。
「ところでスティグマさんはいったい何をなさっているんですか」 ジェムはふとスティグマの手元を覗き込んだ。実はジェムは先の甲板での青年の言葉が気になってスティグマに相談しに来たのだが、そちらも同じく気にかかる。 彼が熱心に読み、なにやら書き付けしているものはアウストリ大陸で買ったあの号外だった。
「いやぁ、なに。もう少しでギュミル諸島に着いてしまうからね。ゼーヴルム君がいなくなった理由について改めて考察してみようと思ったんだ」
号外で一面を使って取りざたされているのは、ノート島の皇子殿下が船の上からいきなり消えてしまったという怪事件のことだ。ゼーヴルムがこの事件にどのような関わりがあるのかは分からないけれど、彼が姿を消したのはそれに原因があるとばかり思っていた。 「うん。この号はギュミル諸島で起こった事件が特集として組まれているから、ギュミル諸島に行ったのは正しいと思う。だけどほら、他にも密輸組織の取締りの記事だとか封印石の盗掘なんかについても書かれているからね、ゼーヴルム君がいったいどれに触発されたのかは分からないだろ」
行けばどうにかなる。
「それで、何か分かりそうですか」 ジェムは期待を込めて改めてスティグマに訊ねる。しかしスティグマは眉をひそめるとぱらぱらと帳面を捲りながらうぅむと唸った。 「さすがに情報源がこれだけでは、なんともね。ただ軍人だということはゼーヴルム君はギュミル諸島内でもダグ島の出身なんだろう。だから彼が気に掛けるとしたらノート島よりはダグ島のことに関してだと思うのだけれど」
ジェムはきょとんとして首を傾げる。スティグマは苦笑してジェムに説明した。 「君もギュミル諸島のノート島とダグ島が、元はひとつの国だったということは知っているよね」
ジェムは学院などで習った基礎的な世界史の知識を思い出しながらうなずいた。 ギュミル諸島はノート島とダグ島という二つの大きな島と無数の小島から成り立っている。かつてはギュミル諸島全体がひとつの国となっていたのだけれど、ここ百年ほどの間にノート島、ダグ島で真っ二つに分かれてしまった。 「国が分かれたきっかけは軍部のクーデターだ。神殿を中心とする政権に軍が離反してダグ島をまるまる占拠した。そのためにギュミル諸島はノート島とダグ島の二つの国に分かれたんだ」 ノート島は海大神殿を基盤とし、古くから続く大神官の血筋を治世者に据えた皇政。 「ノート島はダグ島の独立をずっと認めなくってね、以降争いが絶えなかった。もっとも数年前に停戦協定が結ばれてからは、現在はそれもひとまず落ち着いたみたいだけど」
ジェムはぽかんとした顔を慌てて引き締めた。平和な国に生まれ育ったせいで戦争や内乱などにはなかなか実感が湧かない。
「そうした歴史的背景もあって、ノート島では国の戦闘集団のことを騎士団あるいは僧兵と呼ぶ。一方ダグ島では当然軍人と言ってるね」
ジェムはうなずき、そして改めて反省した。
「スティグマさんはとても物知りですね」
ジェムがそう賞賛すると、スティグマは困ったような顔で微かに肩をすくめた。それはただの謙遜のはずなのに、しかし何故だかジェムはどこか沈んだその表情がふいに気になった。その知り合いと何かあったのか。だからそんな哀しげな顔をしているのだろうか。 (フィオリさんなら、何か知っているかな……?) ジェムは自分よりもずっとこの医者と付き合いの長い少女のことを思い浮かべる。 「あれ。そういえば、フィオリさんはどこに行ったんですか?」 ジェムはきょろきょろと狭い船室を見回す。スティグマと一緒にバッツの看病に当たっているはずのフィオリが、今はどこにも見当たらなかった。 「フィオリならちょっと風に当たってくると甲板に向かったのだけれど、何か用事でもあったのかい?」
しかしそう答えながらもジェムは、先程甲板で会った青年の言葉がまたぞろ気になり始めていた。 単に自分はからかわれただけで、別に気にすることは無いのかもしれない。何しろノルズリ人が嫌いだと堂々と言ってしまえるような相手だ。 それでもなんだか嫌な予感を捨てきれず、ジェムが思い切ってこのことをスティグマに告げようとした、その時――、 「うわぁっ!?」
突然船が大きく傾いた。ジェムは叩きつけられるように壁にぶつかり、その場にへなへなと座り込む。これまで何度か海が荒れたことがあったけれど、こんなに唐突に船が傾くなどと言うことはなかった。それくらい不可解な揺れだった。 「な、なんだなんだ?」 臥せっていたバッツも寝台から投げ出され、盛んに目をきょろきょろさせる。
「もしかすると上で何かあったのか……?」 天井に視線を向け、訝しげにスティグマが呟く。その呟きに触発され、ジェムの胸に言い知れぬ不安が湧き上がった。 「ぼく、ちょっと見てきます!」
驚くスティグマが止める間もなく、ジェムは立ち上がり甲板へと駆け出す。青年の忠告はもはや脳裏から吹き飛んでいた。
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