第四章 1、「太陽と月と海」(4)

 


 逃げ惑う人々の悲鳴に、鋭い剣戟の音。

 甲板の上は阿鼻叫喚の最中にあった。

 見れば見知らぬ船が彼らの乗った船に接舷しており、どうやらそれが船が傾いた原因であったらしい。そして今甲板にいる半数はそちらから乗り移ってきた人間のようである。

「か、海賊……っ!?」

 地獄絵図そのものといった甲板の様子に、ジェムは思わず息を呑んだ。
 ジェムを含め乗客はまったく知らなかったが、気付かぬうちにマーテル号は船団から一艘だけ引き離されてしまっていた。

 海賊を見るのは生まれてこの方初めてだけれど、それでも間違えることなど在るはずもない。
 タールを塗った上着や厚い皮の胴着を身にまとった男たちが蛮刀を手に甲板を縦横無尽に走り回る。水夫たちも懸命に応戦しているものの、人数の差か力の差か海賊たちを撃退するには及ばず一人二人と倒れていった。

 どこからかぴしゃりと鮮血が跳ねて彼の頬にかかる。

 とたんに、ジェムの頭は真っ白になった。

 
 月の無い、夜の庭に意識が立ち戻る。
 膝から段々力が抜け、眩暈や吐き気がジェムを襲った。


「あ……うぅ、っ――!」

 
 甦る痛みと恐怖。そして後悔。

 
 わなわなと全身を震わせ、ジェムは無意識のうちに後ずさろうとする。しかし背中ががたんと戸板にぶつかった途端、ジェムははっと我に返った。

(いけない――、)

 まだこのどこかにシエロと、それからフィオリが残されている。――そのことにやっと思い至ったのだ。

 足は恐怖にまだ震えている。

 しかしかぶりを振ったジェムは、まるでためらうことなく争いの中心に身を躍らせたのである。


 

 甲板の上がひどい混乱状態だったのがある意味幸いした。

 ノルズリ出の子供である小柄なジェムは、物陰に隠れつつ甲板を進めばうまい具合に人目を避けることが出来たのだ。

(頭ががんがんする……)

 もはや馴染みとなった眩暈と吐き気を意志の力で押さえつけ、ジェムは懸命に周囲に目を凝らしていた。

 野蛮な海賊たちが横行するこの甲板は、非常に危険で恐ろしい場所だ。
 だいたいそれでなくとも喧騒や血の臭いは、いまだジェムの忘れがたい心の傷をひどく疼かせる。

 けれどもジェムは、この甲板のどこかにいるはずの仲間を探すことをやめようとはしなかった。

 
 船尾にだいぶ近付いた時、ジェムはふいに強く手を引かれた。

「わわっ……」

 ジェムは反射的に声を上げかけ、すぐさま口を塞がれる。
 途端に青ざめたジェムであったけれど、口元に当てられたその手が小さく柔らかいものであることに気づきはっとした。

「ちょっと、大声を上げないでよ」
「フィオリさんっ」

 ジェムは思わずほっと息をつく。一方物陰に彼を引き込んだフィオリは呆れたような眼差しをジェムに向けた。

「あなたいったいこんな所で何をしてるのよ」
「えっと、フィオリさんたちを探しに……」

 おずおずと答え、ジェムは叱られた子供のように首をすくめる。フィオリは不機嫌そうに眉根に皺を寄せるとさらにジェムに言い募った。

「馬鹿ね。こんなときにウロウロしてたら危ないじゃないの。大人しく隠れていればよかったのに」
「でも心配でしたので――」
「余計なお世話だわ」

 ますます怯えたように身を縮込ませるジェム。

 さすがに助けに来た当の本人から叱責を受けるとは思ってもみなかった。
 フィオリはそんなジェムの様子を睨みつけるように見ていたが、やがて小さく息を吐いた。

「……ごめん、今のは言いすぎね。本当は来てもらえて助かったわ。さすがに一人じゃ心細かったの。ところであたしたち、と言うことは他に誰が甲板にいるの?」
「えっと、シエロさんです」

 ジェムは別れたときの彼の様子を思い出す。そうして不安げに呟いた。

「シエロさん。無事でいるでしょうか?」
「……見たところ、それなりに元気そうよ」

 きょろきょろと辺りを見回していたフィオリは、一点に目を留めてぼそりと答えた。
 きょとんとしたジェムがその視線の先をたどると、メインマストの上、見張り台の部分に何かきらきらするものがあった。それは良く見れば美しい金髪であり、その持ち主はジェムたちに気付いたらしく無邪気に手を振っている。

「……」
「まぁ、こうなっちゃったら下手に降りない方が安全かもしれないわね」

 その意見にはまったく同意ながらも、相変わらずのシエロの緊張感の無さにはさすがに閉口するしかなかった。


 

 どれだけ隠れていただろう。
 それは彼らにはとても長い間のように思えたが、実際はそれほど時間は経っていなかったかもしれない。ジェムとフィオリは海賊たちに見つからないようにできるだけ小さくなって物陰に隠れていた。
 ジェムなどは海賊たちに見つかることをただただ恐れて怯えていたのだが、一方のフィオリは場違いなほど平然と自分を気遣い、声をかけてくる。ジェムはなんて気丈な人なのだと感心を隠せなかったのだが、ふいにぽつりと沈黙が降りたとき彼は妙な質問を投げかけられた。

「――これって、噂に聞く海賊って奴らよね」
「はい、たぶんそうだと思いますけど……?」

 突然のその問いに、ジェムは不思議がりながらも真面目にうなずいた。

 目の前の惨状は巷で噂をされていた海賊の襲撃であり、それは海のことにはまるきり素人の彼にも明らかなことだ。なぜそんな当たり前のことを聞くのだろうと思ったジェムだったが、そっと彼女を窺ったとき思わず目を見張った。

「この先あたしたち、いったいどうなっちゃうのかしら……」

 ぽろりと零れた独白のような声。
 フィオリは微かに震えていた。

 懸命に気丈に振舞いながらも、彼女が怯えを必死で堪えていることにジェムはようやく気が付いたのだ。

「大丈夫ですよ!」

 ジェムはとっさにフィオリの肩を掴み励ました。

「もうギュミル諸島までかなり近いですし、きっと巡視船が来て助けてくれますよ」

 頼もしい彼女の性格にともすれば失念しがちだが、フィオリは自分より年下の女の子なのだ。
 今は自分がしっかりしなければと思うジェムだったけれど、しかし彼女はいっそう不安げに首を振った。

「海はこんなに広いのよ。そんな中で一隻の船なんて発見してもらえるのかしら。それにお話の中では海賊は襲った船は皆殺しにしたり、女子供を売り払ったりするのよ。もしそんなことになったら――、」

 フィオリはぶるりと身を震わせて言った。

「スティグマに何かあったら、あたし生きていけないわっ」

 こんな時でもなによりもスティグマ優先なのがフィオリである。ジェムは思わずがっくりと肩を落とした。
 けれど、それにめげず再度彼女を励まそうとする。

「だ、大丈夫ですよ。フィオリさん、そんなに不安がらなくても絶対に助けが――、」

 来ますから、そうジェムが続けようとした時、


 

 ――ぱんっ ぱぱんっ


 

 突然乾いた破裂音がした。ジェムたちだけではなく、甲板にいた多くの人間がぎょっとして視線を向ける。
 見ると、赤や、緑や黄色といった色鮮やかな煙が海の向こうから立ち上がっていた。そして誰かが叫ぶ。

「見ろ、船だっ」

 その言葉通り、海の向こうから真っ白い帆を立てて、一隻の船がこちらに向かってきていた。

「巡視船だっ」
「助かったぞ!」

 人々は口々に歓声を上げ、助けが来たことに安堵した。ようやく待ちに待った助けが現れたのだ。
 一方慌てふためくのは海賊一味だ。
 海軍が来る前にどうにか逃げようと、金目のものを引っつかんでいそいで自分たちの船に戻り初める。

「ホント、良かった……」

 ジェムはその様子を見てほっと息を吐いた。
 どうやら積荷はごっそりと奪われたらしく船全体の被害は相当なものだろうけれど、少なくとも自分たちは無事だった。
 どうにか危険は切り抜けた。これでまた安全な航海に戻れる。そのことにジェムは深く安堵し、どっと気が抜けた。
 もちろんそうした思いはフィオリも一緒――いや、彼女の方がより顕著だった。

「はやくスティグマのところに戻らなくっちゃっ」
「ちょっ、フィオリさん、待ってくださいっ!」

 ジェムはとっさに止めるけれど、その声はまるで彼女の耳に入っていなかった。
 不安と緊張の糸が切れた彼女は、早く保護者の元に帰りたい一心で隠れ場所を飛び出す。けれどその判断は、まだ軽率以外の何物でもなかった。

「きゃっ……っ!?」

 飛び出して早々何かにぶつかったフィオリは、小さく悲鳴をあげ顔を上げた。そして一気に青ざめる。

 そこにいたのは逃げゆく最中の海賊だった。
 フィオリは慌てて身を翻そうとするけれど、それよりも素早く海賊は腕を伸ばした。

「へ、丁度いい。おい、お前こっち来いっ」

 満足な略奪行為を行えなかったその海賊は、下品な笑みを浮かべると行き掛けの駄賃に彼女を定めたのだ。

「いや、やめてっ。手を離して!!」

 腕をつかまれたフィオリは懸命に身を捩るけれど、やはり荒事に長けた男の手からは逃れることは出来なかった。

「誰かっ! スティグマ、スティグマぁっっ」

 フィオリは必死で悲鳴を上げる。そうするうちにがむしゃらに振り回した手が意図せず海賊の鼻っ面を引っ叩いた。思わぬ打撃に海賊は「ぐわっ」と情けない声を立てる。

 予想外の一撃。
 しかしその抵抗はむしろ逆効果でしかなかった。

「――つっ、この女っ!」

 かっとなった海賊は、反射的に岩のような筋肉に覆われた腕を振り上げた。
 フィオリはとっさに腕を掲げ目をつぶる。――しかし、

「駄目ですっ、彼女を放して!」

 どんっ、と何者かが海賊に体当たりした。
 思いがけない衝撃に海賊は体勢を崩しよろめいた。その隙をついてフィオリは男の腕を振り払う。素早く手の届かないところまで逃げ出したフィオリを見て、海賊は憎憎しげに舌打ちした。そして――、

「この糞ガキがっ」

 自分を邪魔した者――すなわちジェムを力任せに突き飛ばしたのだ。

「――っっ!」

 海賊の容赦ない打撃にふっ飛ばされたジェムの体は船縁に叩きつけられ、そして縁を乗り越えた。

「ジェムっっ!!」

 風を切る音と共に、ジェムはフィオリの悲鳴を耳にする。しかし次の瞬間には、ジェムは激しい水飛沫を立て海中に没していた。

(苦しい、息が……)

 ごぼりと空気の泡が水面を昇っていく。衝撃で息を吐き出してしまったのだ。
 光る水面に手を伸ばすが、届く距離ではない。

(誰か、助け――っ)

 ゆらりと水面が揺らぐ。
 再び水音が立った気がしたけれど、もはや何も分からない。

 それきりジェムは意識を失ってしまった。